海蛇姫の急襲③




「エスカ・トロネアの姫として、国の利益については貴方と相談したいです、殿下。けれどすでに充分、わたしはこの国の恩恵にあずかっています」

「姫は一体、どのような病で?」


(言っちゃってる! ジゼルに情報収集頼んだって言っちゃってるから! 殿下!)


 ラハ・ラドマ側の人間に、体調云々の言い訳をしたのはジゼルにだけだ。

 それをフローレンスに言ってしまうイスカは迂闊すぎる。

 だが指摘するのも藪蛇な気がして、とりあえず突っ込まずにおくことにした。


「澄んだ冷たい空気が良いようなのです。それに」


 次の一言はフローレンスの本心だったから、心からの笑顔を浮かべる。

 イスカが信じなくても構わない。

 ただ嘘は言いたくなかった。


「ラハ・ラドマの真っ直ぐな人たちも好きです。彼らが穏やかに笑っていられる、そんな時間が続けばいいと思います」

「……」


 イスカは、答えなかった。


 しかしそれは否定的な沈黙ではなく、どう答えるべきかを考えているらしかった。


(あ、わたし何か分かった)


 兄はイスカを、それほどの知略知慮の持ち主ではないと断じた。

 今のやり取りを見れば、フローレンスにもそうだろうなと思えてしまう。

 彼はおそらく迂闊――というか正直な人だし、機転が利いて口が自然に回る性質でもない。

 ここで沈黙する理由は、戸惑っているから以外にあり得ない。


 それでもイスカが外交に強いのは、ただひたすらに容姿のせいだ。

 間違いない。


(昨日のあれはヤバかった! 本当に頭真っ白になったもの!)


 フローレンスが箱入り娘であるせいもあったかもしれないが、イスカは間違いなく女性の動揺を誘うのに慣れている、と思った。

 彼にとってフローレンスの反応は、想定内のものだったのだろう。

 狼狽して逃げたフローレンスを冷静に見送って済ませたのだから。


 そう思ったから、余計に怖かったのだ。


 イスカに口説かれて平常心でいられる女性はおそらくいない。

 ここは好み問わずで。


 相手が本気になった場合、余計な面倒に発展する危険性は孕んでいる。

 偶像であることが望まれる王族にとって、些細とは言えない問題だ。


(でも、殿下は上手く使ってるわ)


 彼の噂は醜聞だと眉をひそめられるほどのものではない。

 そして事実、利を勝ち取っている。


「そう言っていただけるのは嬉しく思います。私も、臣民を誇りに思っていますから」


 ややあって答えたイスカの言葉は、自国民を慈しむものだった。


「はい。誇るべきだと思います」


(そう。ジゼルがあんなに態度が分かりやすくて素直なのは、それで許される国だからなのよ。王宮の侍女なのに!)


 自分はどうか。箱入り娘にもかかわらず、悪意を疑い、人を観察し、値踏みする。

 そんなことを普通にやってしまう。


「臣民が実直なのは、戴く王を敬愛し、隣人を信じているからです。とても素晴らしいことですわ」

「……ありがとうございます」


 白皙の美貌を微かに朱に染め、イスカも微笑する。


(あ)


 昨日、フローレンスが怯えたものとはまったく違った。


 相手を飲み込む圧倒的な妖艶さなど欠片もなく、見た者も思わずつられて頬を緩めそうな、裏のない、純粋な笑みだった。


 きゅう、とフローレンスは急に胸が苦しくなったように感じた。


「愚かだと言われこそすれ、そのように言っていただけたことはなかったので」


 イスカの口調には、寂しそうなものが滲んでいた。


 自らが馬鹿にされたことに対する怒りではなく、共感を得られない虚しさに抱く寂寥感。

 そして無慈悲な言葉への哀しさだ。


「殿下!」


 それを心が感じた瞬間、フローレンスはテーブルに手をついて立ち上がり、叫んでいた。


 守りたい、と思った。

 その心を。


 気持ちのまま胸の前に右手を持ってきて、強く握り拳を作る。


「わたしたち、必ず結婚いたしましょう!」

「は、はい!?」

「正直なのが愚かだなんて間違っています! わたしが王子妃になった暁には、絶対そんなことは言わせませんわ! 信には信を、嘘には嘘を! そして世の中は、正道が栄光への道であるべきです!」

「え、ええ。そうありたいですね」

「とりあえず目先の敵――いえ、失礼、交渉相手はクラウディア姫ですわね。姫のご用件をご存知ですか?」

「こ、氷の値段のことだと思いますが」


 ずい、とフローレンスが上半身を乗り出して問えば、イスカはぽろりと答えをくれた。


「値を下げろと?」

「はい。……ええと」


 生来、あまりこういった交渉ごとに向かない性格なのだろう。

 イスカはフローレンスの勢いに押されて機密を口走った。

 が、すぐに取り直して口を噤む。


(信用してはもらえない、のね……)


 本心だったし、勢い込んでいただけに、イスカが応えてくれなかったことに気落ちしてしまう――が。


「……確かに、私たちの氷は他に大口の買い手がいないので、シェイル・コーレスの要求を飲まなくてはならない部分が多いです。けれど、シェイル・コーレスにとって、今や氷が産業に組み込まれ、必要不可欠であることも事実なのです」


(あ……っ)


 迷ったようだが、イスカはフローレンスに内情を話すことを選んでくれた。


 それが嬉しい、と思った。

 単純に。

 純粋に。


「一度流通に組み込んでしまうと、容易に引き剥がすことはできません。どこかで利便性を失いますから。私が改定させた値段は、ままシェイル・コーレスの民の懐を直撃したので、さぞ恨まれているでしょう」


 自分に悪影響の出る政策を喜ぶ民はいない。

 他国のせいとなれば尚更だろう。


「そもそも向こうが不条理な形で設定したせいですけど。でも、そうですわね」


 国家間で取引が始まったとき、国力をほとんど持たなかったラハ・ラドマは、採算を無視した低価格でシェイル・コーレスに強引に話をまとめられてしまった。

 それからイスカが改定をもぎ取る現在まで、覆ることはなかったのだ。


「シェイル・コーレスからは、改定後何か言われました?」

「言われてはいませんが、行動で示されています。氷の受注量が減りました。おそらく自分たちは多少の不便で収まる程度で、こちらの生活は立ち行かなくなるように。そうなれば、結局我々は膝をつくしかありません」

「経済による圧力、ということですね……」


 呟き、フローレンスは目を伏せる。

 ラハ・ラドマ側の事情は分かった。


(事態がどれだけ逼迫するかっていうのは、シェイル・コーレス次第ね)


 向こうにもラハ・ラドマに縁を切られたら困る事情がある。

 であれば、交渉に持ち込むのは充分、可能なはずだ。


「殿下。わたしはエスカ・トロネアの姫であり、貴方の妻になろうとしている女です」

「え? ええ」

「わたしの力が及ぶ範囲は狭いでしょう。それでも、わたしはラハ・ラドマとエスカ・トロネアの友好を望んでいます」

「わ、私ももちろんそうです」

「ならば、エスカ・トロネアに何を求めているか、話してはいただけませんか。できる限り、尽力いたします」


 イスカをひたりと見つめて、フローレンスは訴えた。

 この時期にイスカがフローレンスに求婚することを決めたのは、もう偶然でもなんでもない。

 エスカ・トロネアに対して望みがあるのだ。


(この際、はっきり聞いた方が早い。目的がはっきりすれば変に警戒しなくて済むし、シェイル・コーレスと結託しているわけじゃないのなら、不安材料も消えて気持ちよく嫁げる!)


 そして、役立てることがあるなら果たしたい。

 国同士の友好を繋ぐ、姫に求められる本来の役割を。


 そのうえで真に友好な関係でありたい。

 謀によって利と害を食い合うのではなく、共に並び立てるような。


 セリスはよく、フローレンスの話を笑った。

 そんな綺麗な世界はないと。

 お前の理想は可愛らしいと、幼い純粋さを慈しむ目をして頭を撫でた。


 大国を背負う王太子としては正しい認識なのだろう。

 けれど。


(わたしはやっぱり、嫌よ)


 笑い合って食事をしながら、仮面の下で毒を盛られる心配などしたくない。


「……その。お恥ずかしい話ですが、姫の持参金を」


 いずれは切り出す予定の話だったのだろう。

 少しのためらいの後、イスカは答えた。


(やっぱり、まずはそこよね)


「もちろん正式な輿入れとなる半年後には相応の金額をお持ちします。具体的にはいかほどご入用ですの?」


 せっかくの機会だと、規格外の金額を吹っ掛けたいのか、とフローレンスは若干うそ寒い気持ちになりつつ訊ねる。


「いえ、その」


「殿下、この際率直に話し合いましょう。お金で解決する問題なら安いと言えますわ」


 この際がどの際なのか、突っ込まれればフローレンスにも答えられないが、気にせず押し切る。


 そして――ややあってイスカが口にした金額は、フローレンスを驚愕させた。


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