10 背後


   ◆◆◆


 塗って、乾かして、削って、また塗る。


 筆が動くたびキャンバスの上で絵具が躍る。

 途方もない反復を経て、絵具はしだいに刻銘な像を結んでいく。

 濃紺から浮かび上がる青白い牡鹿。

 視界の端で牡鹿がハタハタと瞬きをした。

 右目が霞む。

 こぼれた汗が視界を歪めたのだ。

 キシはふっと息をついて、筆を持った右手の甲で額の汗を拭った。


 「もう少しだ」


 自らの手でキャンバスの中に生み出した牡鹿を見つめながら、キシは牡鹿が呼吸しはじめる瞬間を待っていた。色彩と造形が煮詰まるように絡み合いながら臨界点に達すると、それは呼吸しはじめる。

 彼はそのことをよく知っていた。


 自分の中を通過した何かが結晶化されていく高揚感。

 呼吸がはじまるゾクゾクするような瞬間。

 臨界点を突破したのだという満足。


 その瞬間に立ち会いたいがために、キシは絵を描き続けていた。

 彼は何時間でも描き続ける。

 今日はいったい何月何日で何時なのか。

 さっぱり見当もつかない。

 時間感覚はとうに失せていた。

 アトリエから見える窓外の景色が真っ暗だったから、かろうじて今が夜であるらしいことだけは認識できた。


 「もう少し」


 繰り返し呟いてキシは筆を油で溶くため振り返る。

 油壺に伸ばしかけた手が止まる。

 白いスニーカーが視界の端に入った。


 誰かいる。


 慌てて滑らせた視線が、背後に立つスズキの姿を捉えた。

 すぐ近く、本当に手が届きそうなくらい真後ろに、スズキが佇んでいた。

 作画に集中するあまり気づかなかったのだろう。


 スズキは無言でキシを――否、キシの絵を見ていた。


 夏だというの灰色のブルゾン姿だ。冬からアトリエに置きっぱなしになっていたスズキの作業着。

 あちこちに絵の具がついたブルゾンは、蛍光灯の白々とした光に洗われ、ぐるぐると渦巻くようなサイケな色彩を放っていた。


 目が眩む。

 キシは何度か瞬きをした。


 季節外れな様相と、悪戯めいた色彩のせいか、スズキとスズキをとりまく空気から現実感が欠落していた。

 なんとなく亡霊じみていて、あまり怖がりではないはずなのに、寒くなる。

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