第14話 辻堂の優しいオバケ 2

 どしゃ降りの雨の中で、Jは、そのBarを見つけて入って来た。

 カウンターの奥の男からは、少し距離を置いて座っていた。まだ正体がつかみきれずに、不安だった。


「若いの、この辺じゃ、見かけない顔だね?」


 男が話しかけてきた。


「ええ、この雨だから、他に行くとこも無くて......

 今夜はニューグランドに泊まるんですよ」


 Jは返事をしながら、見た目はコワモテの男が、日本人で、案外フツウに話ができる相手であることがわかり安心した。


 —— これなら、90分のコースでも、店には居られそうだな......


 Jも初めての店で不安だったが、店のほうも、Jのような男が、どうして、こじんまりとしたBar ツツジにやって来たのかと、疑心暗鬼だったのだ。


 まだ1人だけ残っていた女の子が、隣に座った。


「いらっしゃい!サユリです。

 すごい雨だよね〜

 ハイ、どうぞ」


 そう言いながら、オシボリを渡した。


「最近、色々あってさ。

 奥の男の人は、怖そうだけど、ママの親戚だから大丈夫!トシさんていって、昔は結構有名なボクサーだったんだよ」


 —— なるほど、オレが店に入って来た時の、あのリアクションは、最近のトラブルのせいだったのか。

 いや、まてよ......ボクサーのトシといえば、あのウルフ利三か⁈


 Jは、あらためてマジマジと奥の男を観察した。

 手は大きくチカラもありそうだ。盛り上がった肩はタダのデブではない。往年のヘビー級ボクサーの面影が残っていた。


「じゃあ、私は今日は帰るけど、今度きた時には、よろしくね!」


 サユリが帰ると、唄い終えたママがやってきた。


「ゆっくりしていってくださいよ。

 早仕舞いするつもりなんか無かったんですから」


「ママ、この人、今夜はニューグランドに泊まるんだって」


「ええ、海の帰りで雨に祟られちゃって......」


 話をしながら、Jはカウンターに活けてあるツツジに目をやった。

 それは淡いパープルの上に、うっすらとしたピンクが混じる色をした花びらをつけていて、隣に座ったママのドレスと同じ色だった。


「ニューグランド......」


 ママはそう言いながら、遠くを見るような目をした。


 ——きっと、あのホテルに色々な想い出を置いてきたのだろう......


 雨の日に、人は過去の遠い記憶を蘇らせる。そして、その記憶の中の舞台で、愛したりケンカしたりしていた自分を懐かしむのだ。


 Jは、しばらくママをそっとしておくことにした。


 ——こんな雨の日には、追憶の海に浸るのもいい。酔って、そこで漂えばいいのさ......泳ぎ疲れるまで......


 Jも、思い出していた。


 昔の山下公園は、まだ車止めが設置されていなくて、公園の前に路駐して夜を明かしたものだ。

 海で遊んで疲れ果てたJは、よく友達とそこで過ごした。家まで帰る体力がもう残っていなかったのだ。

 そして夜が明けると、また公園から海を見る。

 ファミレスがあいたら、そこで朝食をとり、それから今日をどう過ごすかと相談する。


 若い頃は、時間が有限であるとは思わなかった。

 そして、人生がこんなにも早く過ぎ去っていくことを、誰も教えてはくれなかった。


......Jのグラスに、ママがゆっくりと酒を注ぐ。


 だから、みんな後悔して酒を飲む。

 あの時間を、返してくれないか、と。


 いつの間にか、Jの前にはバーテンになりきった天使👼のJJ が立っていた。

 ニヤニヤしながら彼が言う、


「人の生命は短いからな。

 そりゃあ、いろいろと悔いはあるだろうよ。

 でもなぁ、無限な時間を手にしたお前が、ちゃんと勉強したり仕事したりするとは思えないな」


 ママには天使は見えていないが、奥に座っているウルフには、見えているようだった。

 彼はリングで眼を痛めて引退したのだが、片目には失明に近いほどの後遺症を残していた。

 しかし、光を失う代償により、彼の心の目は開かれていた。

 じっと天使の言葉に耳をすませていた利三が言った。


「あんたなら、時間を戻すことが出来るんじゃないのか?」


 天使のJJ は、黙ってニヤニヤしている。


「もし、あの時をやり直せるならと、オレは何度考えたかわからない。タイトルマッチ目前での引退だったからな」


 そんなことは、天使のJJ には、お見通しだった。

 ウルフ利三は引退して、飲食店を始めるが倒産。

 妻子も離れていき、用心棒に成り下がったウワサは週刊誌に書き立てられていた。


 彼には、さしたる落ち度は無かったのかも知れない。

 ただ、ケガという不遇に見舞われ、人生の坂を転がり落ちてしまったのだ。


 天使のJJ は、ニヤニヤしながらウルフに言った、


「もし、あんたに取り戻せるものがあるとしたら、何が欲しいんだい?

 チャンピオンベルトかい?

 それとも......」


 こんな時には、天使の👼JJ は、すでに答えを知っているのだ。

 ただ、それをウルフ自身の口から、言わせようとしているだけだった。


「か、家族。

 家族と、もう一度、過ごしたい!

 オレは、チャンピオンベルトなんかいらない。

 ただ、家族ともういちど一緒に過ごしたいだけなんだ......


 あの頃のオレは、何がいちばん大事なのか、見えていなかったんだ。

 家族と一緒に、笑ったり泣いたり、そんなフツウのことが、宝物だったなんて......」


 岩山のような大男の眼からは、涙が溢れ出て、カウンターの上に落ちていた。それは海のように流れ出して広がっていき、Jとママの心の中にまで押し寄せてきた。


 天使のJJには、それは羨ましい光景だった。


 人が哀しみの海を彷徨い追憶の中に身を投げる姿。

 それは、生きている証しであり、苦悩のもがきさえも、生きていなければ味わうことができないのだ。


 ママがウルフの後ろから近づくと、彼の肩をやさしく、ポンポンと両手でたたいた。

 ウルフ利三は、カウンターに突っ伏したまま、動かなくなった。


「行きましょうか?」


 ママが振り向いてJに言った。


 ウルフをそっとそのままにしておいて、ママとJは外に出た。

 ママは店のシャッターをガラガラと降ろして半開きにすると、振り向いて真顔でJに言った、


「泊まりたいわ......ニューグランド」


 ママがJの腕に手を回すと、どちらからともなく2人は歩き出した。


 ——ママが取り戻したいものは、何なんだろう?

 そして、オレは、いったい何を取り戻したいんだろうか?


 Jは自問自答しながら、ママと一緒に誰も居ない中華街を抜けて行った。

 霧雨が2人を優しく包む夜だった。

 潮風が頬をなでる。


 どこにも立ち寄らずに、2人はホテルについた。

 部屋のドアを開けると、ママはベッドに倒れこんだ。

 急な予約で取った部屋は、ダブルでもJひとりのシングル料金で予約してもらっていた。


 ——今夜、2人で此処に帰って来たことも、運命として予定されていたのだろうか.......


 Jが洗面室で歯を磨いてから戻ると、ママはベッドの上で、かすかに寝息をたてていた。

 Jが優しくママに毛布をかけながら見ると、ママの顔はまるで少女のように、無防備で素直だった。あの、赤い靴の👠少女のように......


 ママのポーチからは、1枚の写真がはみ出していた。眠りに落ちる前、最後にママはこの写真を見たのだろう。

 Jがそれを手に取ると、ママが小さな男の子と写っていた。2人は公園のブランコの前で、楽しそうに笑っていた。


 —— ママが取り戻したいものって......


 Jは窓辺に立って夜の海を見つめた。

 遠くで、船🚢の汽笛の音がする......









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