5-2

 覚醒。

 エルフォンソは闇夜に目を見開いた。気付けば呼吸は荒く、心臓が早鐘のように高鳴っている。汗に濡れた身を起こせば、すぐ傍に人の気配が、何より獣の臭いがあった。

「ようやっと起きたかや? エル、うなされておったぞ?」

 窓から差し込む月明かりが、白い影を浮かび上がらせた。

 伊那が、枕元に立っていた。

 ぼんやりと光るような、夜から切り取られたその輪郭に、思わずエルフォンソは魅入る。乱れる呼吸も鼓動も、一瞬停止した。

 夜に一人、エルフォンソの寝床に忍んできたのは、美しい獣人の姫君……もののふ姫、伊那。

 しかし、どうやってエルフォンソの部屋に入ってきたのだろうか? その答はすぐに解った。月光の薄明かりにも、ブチ破られたドアがすぐ見て取れた。木っ端微塵になった木片を踏みしめ、迅雷が喉を鳴らしている。この猛獣は今、静かに殺気だっていた。

「何ですかいったい……お伊那さん、これ以上厄介ごとを増やさないでくださいよ」

 エルフォンソはもそもそとベッドを抜け出た。まだ回転の鈍い頭で、現状を整理しながら。

 伊那は先日、この城を訪れた時と同じ、白い戦衣に身を固めている。篭手に具足をはき、腰には太刀、手には槍。完全武装だ。正直、よく理解も把握もできない。

「何、プリミにぬしを頼まれてての。それに、ちっくと臭うのじゃあ。ほれエル、はよう支度せぬか。行くぞよ?」

「行く、って……ちょっと待ってください、いったい何が」

「臭うのじゃ。これは、人の血よ。晩餐のころから、ずっと鼻についてたまらんかったわ」

「血の、臭い?」

 ぼんやりと浮かぶ白面に、深紅の瞳が燦々と輝いている。伊那は僅かに天を仰いで鼻を鳴らすと、細められた横目でエルフォンソの着替えをせかした。

 訳も解らずエルフォンソは、伊那の視線を避けるように月の手が届かぬ暗がりへ逃げ込む。

「ええと、お伊那さん。火ノ本では随分と、夜の通いも乱暴なんですね」

 そうではないと確信しつつ、ついエルフォンソは呆れ半分に無粋な文句を垂れてしまう。

 それが、伊那に意外な顔を覗かせた。

「ばっ、ばばば、馬鹿者っ! わっ、わしは、そういうのではないわ! これは、その、そういうのではないのじゃあ……は、恥を知れ、恥を」

「はいはい、すみませんね。寝起きのたわ言と聞き捨ててください」

 変に声を上ずらせる、伊那は奇妙に動揺していた。

 しかしそれも、あっという間に影を潜める。恥らう少女は一瞬で、さぶらいの顔を取り戻した。

「兎に角っ、臭うのじゃあ。それとの、もう一つ……プリミの匂いが香るのう」

 着替えに手を伸べる、エルフォンソの手がピクンと止まった。今しがた名前のあがった、近衛女中がたたんでくれた服が目の前にある。それを手に彼は振り返った。

「プリミが何か? お伊那さん、何が……いや、何をしようとしているんです」

「聞くまでもなかろ。わしは首を取りにきたんじゃからのう……そろそろ頃合じゃあ」

 絶句。エルフォンソは己が胸に秘めて紡いだ、数々の目論見が四散するのを感じた。

「ディッケンとかいう男、わしが斬る。ついでじゃから、プリミも助けてやろうかの」

「まだそんなことを……って、プリミを助ける? そういえばあいつ、晩餐会の時に」

 エルフォンソはプリミの、思いつめたような独り言を思い出した。その内容までは記憶にないが。しかし、ぼんやりとしていた彼の横で、彼女は何かを決意していたのだ。

「血の臭いはディッケンじゃ。そしての、エル……プリミの匂いも今、そこからするのう」

 伊那の顔は今、興奮に上気して、その熱気とは真逆の寒々しい笑みが滲んでいる。

「ぬしらの顔を立ててはきたが、ここいらが我慢の限界じゃあ……ほれ、参るぞっ!」

 小脇に槍を抱えて、意気揚々と伊那は歩き出した。そして友へと、ポンと触れる。

 それを合図に、迅雷が総身を震わせ咆哮を迸らせた。寝室がビリビリと震える。

「おっ、お伊那さんっ! ちょっ……待ってください! 僕には、なにがなんだか」

 闇夜に溶け込んでいたこの城の、あちこちで火の灯る気配がした。使用人達の慌てふためく声、宿泊する来客達のざわめき。騒がしくなる部屋の外へと、伊那は颯爽と出てゆく。

 着替えもそこそこに、エルフォンソは慌ててその後を追った。

 説明を求めるエルフォンソを振り向くことなく、伊那の声は明瞭だった。

「戦じゃ! まだ解らんかや、エル……元よりここは敵地ぞ? のう、迅雷」

 まだ薄暗い廊下を、ずんずん伊那は進んでゆく。途中、取り乱した使用人達と擦れ違ったが、伊那は連鎖する悲鳴の輪唱を気にした様子もない。男も女も老いも若くも、暗がりを逃げ惑う。

「戦、って……よしてください、まだ話し合いの余地が……ああ、もうっ!」

「この期に及んでまだ言うかや? エル、わしは火ノ本のさぶらい、弧黍氏のお伊那じゃ」

「ですから、僕の話も聞いてください。もっと話し合いを――」

「ぬしら大陸人にはわかるまい? 弧黍の長たるわしには一目瞭然じゃあ……あの男の、天帝の言う通りじゃった。ディッケンに叛意あり、それも長年溜め込んだ、どでかい妄念じゃのう」

 エルフォンソは言葉を失った。

 まるで伊那は、その眼で見たかのように言葉を続ける。楽しげで甘美な響きは、エルフォンソの耳から入って、胸中に虚しくこだました。

「しょっ、証拠は、物証はあるんですか? 公爵の言は、筋だけは通っていた」

「見たままじゃよ、エル。わしには見えるんじゃあ……ものの抱える『うろ』がのう」

 何事かと客室から、貴族達が顔を覗かせる。それを無視して進む伊那は、衛兵を連れて駆けてくる、この城の執事を見つけて口元を歪めた。その笑みには背筋を震わす凄みがあった。

「何事ですか、殿下。伊那様も、ふおっ!?」

 詰め寄る執事を、伊那は即座に片手で吊るし上げた。完全武装の衛兵達が、腰の剣に手を添える。ただごとではない雰囲気にようやく、周囲の客達も眠気を振り払ったようだ。

「お伊那さんっ!」

「殺しはせぬ。見ておれ」

 伊那の眼が見開かれ、深紅を湛えた瞳が執事を眇める。左右非対称の冷笑で、伊那はより高々と執事をかかげて、壁へと押し付けた。エルフォンソが固唾を呑んで見守る背中に、尻尾がゆるりと揺れている。

「さて、ぬしの主は、ディッケンはどこじゃ? 恐らく一人ではあるまい? 答えい」

「お、おやめくださ……は、はぅ」

 エルフォンソの脳裏を、コロッセオの光景がフラッシュバックした。今、彼の傍にいる迅雷の時と同じだ。まるで魔性に魅入られたかのように、執事の全身が痙攣に震えた。

「『化かす』ことは、これすなわち『明かす』ことぞ。ほれ、うぬの虚が丸見えじゃあ」

 薄暗がりの中、いよいよ伊那の瞳は輝きを増すかのように見えた。その眼差しが放つ不可視の矢が今、哀れな執事を射抜いている。

 かすれたような声が、その喉元から吐き出された。

「旦那様は、執務室に……上の、階に。皆々様と……近衛女中と」

 エルフォンソは息を飲んだ。そのまま、吐き出すのを忘れた。

 執事は途切れ途切れに、伊那が望むままに喋りだした。それで用は済んだとばかりに、伊那は右手を執事の襟首から離す。どさりとその場にへたりこんだ執事は、大きく咳き込んだ。わななく身の震えは尋常ではない。

「ふむ、上か。エル、参るぞ? プリミもそこじゃ……抜け駆けしおってからに」

 唖然とする衛兵達を掻き分け、伊那は歩き出した。

 慌ててエルフォンソは、その後へ続く。

 背後では、言葉にならない絶叫にうろたえ、我が身をかきむしる執事がのた打ち回っていた。

「なっ、何をしたんですか!? お伊那さん」

「なに、化かしてやったのよ」

「化かす、って……迅雷の時と同じですか」

「おうよ」

 少し得意げに、ついと白い顔をあげ、前だけを向いて伊那は進む。その横へ、エルフォンソを追い越し迅雷の巨体が並んだ。それでもう、城内の廊下を幅いっぱい使ってしまう。武器を手にした衛兵達も、壁に身を伏せてただ伊那達を見送るだけだった。

 ねめつけるような伊那の視線に、だれもかかってはこない。

「僕にはもう、何が何やら……説明してくださいよ。大陸人の僕にも、解りやすく」

「化かすは我等、弧黍の血族が力ぞ。まあ、妖術やら幻術の類と思っておればよい」

「それと、どうして公爵のところにプリミが……」

「ぬしが煮え切らぬからじゃろ? わしならずとも、見えずとも感じておっただろうに」

 図星だ。確かにエルフォンソは、ことの大きさを感じ取っていた。それを、証拠がないからと先延ばしにし、どうにか丸く収めようと苦心していたのだ。

「臭うのう。血の臭いが近いわ。プリミの匂いもじゃ。……これは急がねばいかん」

 血の臭いが増えたと呟く、伊那の脚が速まった。彼女は具足を鳴らして、石造りの階段を駆け上がってゆく。

「お伊那さん、その血って」

「急げい、エル」

 エルフォンソはずるずると、伊那の健脚においていかれる。一人と一匹の尻尾が遠ざかる。それでも必死に、息を切らせて彼は走った。その背後では、正気を取り戻したらしい衛兵達の、詰め寄る気配がガシャガシャと音を立てていた。

 階段を昇りきったエルフォンソは、廊下の奥で明かりの漏れるドアを見つけ、その先へと飛び込んだ。

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