2-2

 コロッセオは異様な熱気に包まれていた。

 席を満たして尚余る民は、そこかしこに立って、鉄柵に詰め寄り身を乗り出す。王都に住まう百万と少しの民が、一同に介したかのような熱狂。

 観覧席へ姉を追うエルフォンソは、広いコロッセオの中心に、民の視線を一身に浴びる、白い影を見た。

「――もののふ姫、か」

 確か、伊那と名乗った。弧黍氏の火ノ守統代、伊那と。

「エル? ほら、早く。陛下に陳情するなら急がなきゃ。ぼんやりしてる暇はなくてよ?」

 プリミに背を押され、エルフォンソは道を譲ってくれる者達に笑みを返して、礼の手を小さく上げながら進む。その先に、周囲を厳重に衛士と近衛女中に囲まれた、皇族達の観覧席があった。

 久々に会う兄弟姉妹達と挨拶を交わす。エルフォンソの幼い弟や妹達は、火ノ本の獣人を前にはしゃいでいた。兄や姉達も、物珍しげにオペラグラスを手にしたり、扇の奥で囁きあっている。そんな華やかに着飾った皇族達の中央に、どしりと席を構えて杯を傾ける天帝アルビオレの姿があった。

「へっ、陛下。お話がありあすっ」

 声が上ずり、エルフォンソは言葉を噛んだ。緊張に手の内が汗をかく。

「ん、何か?」

 深いしわを刻んだ、精悍な猛禽を思わせる強面。その横に立つエルフォンソを、瞳だけが動いてねめつけてきた。続いて杯を乾かすと、天帝アルビオレは顔を向けてくる。無数の戦傷が、禿げ上がった頭にまでくまなく刻まれている。口髭を豊かに蓄えたその威容は、対峙すれば自然と震えを呼んだ。

「……エルフォンソか。珍しいな。変わりないか?」

「へっ? あ、ああ、はい。つつがなく、健やかに暮らしております」

 これも天帝おわします王都の平穏、ひいては天帝ご自身のご威光……などという、美辞麗句は出てこなかった。ただ、座してさえ同じ高さの目線に、その眼光に圧倒される。

「宮中のこと、苦労をかけるな。お陰でオレも戦へ出向くに不自由ない」

 恐らく笑ったんだと思う。アルビオレは僅かに唇の端を吊り上げ、手酌で酒を杯に注ぐ。

「剣を取らぬもまた、戦いよ。宮中の不便あらば、何なりと申せ。我が全て都合しようぞ」

「は、はあ……では陛下。ぶしつけを承知で、おっ、お願いがございます」

 気付けば周囲の兄弟姉妹が、興味深げにエルフォンソを見詰めている。実姉のルベリアだけが、腕組み真剣なまなざしで、コロッセオ中央のもののふ姫を、伊那を見下ろしていた。

 エルフォンソに言わせれば、父にして天帝、アルビオレは戦狂いだ。だが、それだけで覇道を邁進してきたおとこではない。世を知り人を知り、その何たるかを熟知した賢王でもある。そうでなくば、民は兵としてついてはこない。その父の賢明なる現実的な価値観へ、エルフォンソは何とか訴えかけてみた。

「たっ、ただちにこの公開処刑をおやめください。世界平定統一の恩赦をもって、伊那姫をお許しいただきたいのです。これ以上の流血は無用、かと」

 しばしの沈黙。

 その重い空気を引き裂くように、ずしりとアルビオレは立ち上がった。歩み出せば天帝の威厳が、瞬く間にコロッセオに伝播してゆく。鳴り止まない歓呼の声。

 エルフォンソは急いでその後を追い、並んでコロッセオの中心を見下ろし言葉を続けた。

「ここで伊那姫を処すれば、再び戦になります。それは陛下も……」

 言葉を紡ぐ間も、その意味の虚しさにエルフォンソは内心舌打ちを零した。

 戦を望んでいない筈はない。そう思うエルフォンソの言葉尻を拾って、

「この我が、更なる戦を望んでいる。そうお前は言うのだな?」

 かろうじて小さく、エルフォンソは縦に首を振る。余りの恐れ多さに、周囲の兄弟達が息を飲んだ。

「そうさな、ここであの小娘をくびり殺せば、火ノ本は一丸となって再起しようぞ」

「え、ええ。それを避けるために――」

「それこそ我の本懐! でもあるが、ちとつまらぬのだ。見よ、エルフォンソ」

 父であるアルビオレが指差す先に伊那が立っている。かつてもののふ姫と恐れられた火ノ本のさぶらいが、今は半裸に包帯姿で立ち尽くしている。ところどころに滲んだ血が、耳と尾の先端同様、紅色をはらんでいた。

「兵は皆、もののふ姫と呼びあれを恐れた。我はしかしな、エルフォンソ……惜しい。あれほどのつわものがいない戦場に、我は何を楽しめばいい? そこでだ」

 意味が解らない。

 戦は望む。が、伊那は惜しい。矛盾している。尚も説明をねだるエルフォンソを脇に、アルビオレは大きく息を吸い込んだ。次の瞬間、大歓声をかき消し塗り潰して、天帝の覇気が轟いた。

「聞けぇい! 我が帝國の民よ! それなるは火ノ本六氏族が一つ、弧黍氏の伊那! この半世紀、初めて真正面から正々堂々我に剣を向けてきた、もののふの姫君なるぞ!」

 拳を突き上げ声を張り上げる父を、コロッセオから伊那が見上げてくる。その白い顔に恐惶はなく、深紅の双眸は不敵な笑みで細められていた。その様子が、遠くこの観覧席からも見て取れる。

「我はここに、もののふ姫を処刑する! 父を、子を、夫を奪われし我が民よ……その怒りを、かの者の命をもって鎮めよ。これが、もののふ姫の最後の戦となろうぞ!」

 周囲は静まり返っていた。腹に響く声は、大陸の隅々まで、遥か遠く火ノ本までも届きそうな錯覚を呼び起こす。それほどまでに、天帝アルビオレの声は厳として揺るがなく、太く鋭く響いた。

「しかぁし! もし、かの者が勝者となりし時は、その力を許すべし! 力ある者こそ、この帝國を磨く礎となろう。力こそ全てっ! それこそ我等が愛しの好敵とならん!」

 一際大きな歓声があがった。コロッセオを満たす王都の民が、天帝の言葉に酔いしれいていた。その様子を睥睨して満足げに振り返ると、アルビオレはエルフォンソを見、周囲の皇子や皇女を見渡し言葉を選ぶ。

「力こそ全てぞ。我の玉座が欲しくば、お前達も力をつけることだ。いつでも挑んで参れ」

 この場に緊張が満ちた。何人かの目が険しくなる。

 その雰囲気にいささかも動じず、第九皇女のルベリアが代わって民の前に歩み出た。

「伊那姫。これより先の闘争に勝利すれば、全てを不問として火ノ本にお帰りいただきます。再び戦場にて、あいまみえんことを」

 天帝を称える声の中、よく通る声で返礼があった。つたなくたどたどしい、大陸語だ。

「もっとゆっくり喋らぬか。聞き取れぬ。わしを生かして帰すとな? 再びわしと合戦を所望か? 天帝アルビオレ! 次は皇子の一人や二人では済まさぬぞ」

 伊那はもう、生き残る気だ。

 正気の沙汰じゃない。

 エルフォンソはしかし、それが実現するような、妙な確信が心身に満ちるのを感じた。彼女の相手は、果たしていかなる獣か、はたまた帝國の騎士か。銃を携えた千の兵が相手でも、寸鉄一つ帯びぬ白い少女が、何故か勝利を収める予感がエルフォンソにはあった。

 尻尾をぴんと逆立てながら、彼女は言葉を続ける。

「ぬしは……いつも天帝の傍に控えていた、あの小娘じゃな? 名は!」

「わたくしはクーラシカ帝國第九皇女、ルベリア・ミルタ・ラ・クーラシカ。あなたが万が一にも生き残った時、戦場でその命を摘む者です。名を胸に刻んでおくとよいでしょう」

 そう静かに言い放つや、ルベリアは手を天高く差し上げ、振り下ろした。

 鎖の巻き上げられる音と共に、コロッセオの奥で、巨大な鉄格子が引き上げられた。その暗がりから、低い唸り声と共に、獣臭が忍び寄ってくる。暗闇に光る一対の瞳に、暑さも忘れて鳥肌がたつ。

「さあ、もののふ姫たるその由縁、ひいてはその秘めたる力……我に見せてみろ」

 天帝が嬉しそうに顔を崩す。その笑いは嫌に冷たく、底が知れない。戦慄に凍るエルフォンソはその時、あれこれ憶測を呟く皇族達の中にあって、同じ笑みを穏やかに浮かべる姉に気付いた。ルベリアもまた、楽しげに肘を抱き、細面の顎に手を当てている。

 やがてゆっくりと、獰猛な肉食獣が巨躯を露にした。

「なっ――あれはっ! 陛下、あれはあんまりです。どうみてもこれは」

「あの姫はな、エルフォンソ。負ける戦でこそ咲く花ぞ。その力、見るがいい」

 父の言葉を置き去りに、気付けばエルフォンソは観覧席を飛び出していた。あまりに理不尽、そして不条理だ。公開処刑というには、これは生々しく惨過ぎる。力こそ全てと詠い、勝利の暁には生命を保証しておきながら……絶望を突きつけるのは非道だ。

 エルフォンソは興奮にざわめきたつ民を押しのけ、最前列へと馳せた。

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