サナギの歌

乙島紅

1. 殻の中



 「恋をしている」って堂々と言えるのは、自分に自信がある子の特権だと思う。


 私は言えない。私なんかが誰かに恋をしてるなんて、考えてみたら自分でもおかしくって笑えてきそうなのに、それを周りの人に伝えるなんて耐えられない。


 だから、告白なんてもってのほか。周りの可愛い子たちに彼氏ができてより一層キラキラ輝いているのに比べて、私はずっと地味なサナギの中——そう思っていたんだ。


 この気持ちを知るまでは。






「みなさんお手元に問題用紙と解答用紙は揃ってますね。あと一分で試験開始になりますので、それまでは席についてそのまま待機していてください」


(どうしよう……私のところに、まだ問題用紙が来てない)


 夏休みに塾で全国模試を受けた時のことだった。百人はいるような大教室が会場で、不運なことに私の席は一番後ろだった。一つ手前の席で問題用紙は途切れてしまったらしい。配られた時にトイレに行っていたから、きっと気づかれなかったのだ。


 私は教壇にいる試験官に向かって手を挙げてみた。気づかない。どうしよう。少しだけ手を振ってみるものの、彼はこちらに気づく様子はなかった。胃がキュッと締め付けられるような感じがして、私の右手はだんだん下がってくる。


「あ、あの……」


 声を出そうにも、大教室の一番後ろから試験官がいるところまではかなり遠くて届かない。それに試験前のこの静かな空間で大声を出すなんて、考えるだけで恥ずかしくて……喉が渇いてうまく音にならない。目頭が熱くなる。情けないなぁ。こんなことで泣きそうになっている自分に嫌気がさした、その時——


「すみません。問題用紙、足りてないんですけど」


 右隣の席から、声が聞こえた。落ち着いているけどよく通る声。試験官はすぐに気づいて問題用紙を持ってこちらに向かってくる。


「はい」


 涙で滲みかけていた私の視界に、白い紙が入ってきた。右隣に座っていた他校の男の子が自分の問題用紙を差し出してくれていたのだ。


「あ、あの……ありがとう」


「別にいいよ。試験頑張ろうね」


 彼は無愛想にそう言ったけど、その言葉はがちがちに固まってしまっていた私の心をそっとほぐしてくれるかのようで——その瞬間、私の中で彼は「ただの塾のクラスメート」じゃなくなってしまったんだ。






 彼の名前は柊斗しゅうとくんというらしい。私が通う女子高とは隣町の公立高校に通っていて、たまに同じ高校の人と話しているのも見たことはあるけど、基本的には一人で過ごしていることが多い。かといって、話しかけに行けるほど私に勇気があるわけでもなかった。塾の席は自由だったから、彼の斜め後ろの席に座って授業中に彼の姿を眺めるのが精一杯。先生が気まぐれに使うホワイトボードより、無造作な感じのツーブロックヘアと、少し眠たげな横顔ばかり目に入ってくる。柊斗くんは時折授業が退屈になるのか、男の子にしては細くてキレイな指でトントンとリズムを刻むことがある。もしかしてピアノとかやってるのかな。好きな音楽はなんだろう。話してみたいという妄想は膨らむけれど、話しかけるきっかけがないまま夏休みが終わろうとしていた。




「一人じゃ大変でしょ。手伝うよ」


 いきなり話しかけられて、私は心臓が止まるかと思った。塾の先生にお願いされて夏休み用の掲示物をはがしていた時、柊斗くんが後ろに立っていたのだ。


「あ、ありがとう。そしたら……上の方、取ってくれる?」


 私は背が低いから掲示板の上の方には手が届かない。彼は「いいよ」と言って着ている柔らかい生地のシャツの袖をまくる。てっきり文化系だと思っていたけれど、血管の浮き出た引き締まった腕に思わず目を奪われる。彼が剥がした掲示物を渡してくれた時にようやくハッとして、つい目をそらしてしまった。まともに話したことすらないのに、こんなにじろじろ見ているのがバレたらきっと変な子だって思われる。


「ねぇ、名前何て読むの?」


 柊斗くんは上の方に貼られていたクラスの名簿表を取りながら言った。


「……。水彩の”彩”に”羽”でイロハって読むの」


「へぇ、変わった名前だね。でもやっとすっきりした。ずっと何て読むのか気になってたから」


 そう言って彼はふっと微笑む。あ、こんな笑い方するんだ。塾だと滅多に笑顔なんて見れないから新鮮だった。掲示物をはがし終わると、柊斗くんはふと思い出したように言った。


「そうだ。イロハさんさ、楽器とかやってるの?」


「楽器? うん、一応趣味でギターやってるけど……」


「はは、やっぱり。左手の爪が短くて、右手の爪が長いからそうじゃないかなって思ってたんだ」


「えっ」


 私は慌てて自分の手を見た。ギターを弾くには両手の爪がどうしてもアンバランスになる。左手は弦を押さえるために短く、右手は弦をはじくために長く。人に見られることなんて意識してなかったから、マニキュアとかのお洒落はもってのほか、ささくれだってある。なんだかそれを見られていたということが急に恥ずかしくなってきて、私は赤くなった顔を隠すようにうつむいた。


「ごめんごめん。僕もピアノやってるから、楽器やってる人のこと気になっちゃってさ。どんな音楽聴くの?」


「わりと何でも。最近よく聴くのは『ミゼラブル・バタフライ』かな」


「あ、そのバンド気になってるんだよ。でも近所のCD屋に置いてなかったんだよなぁ」


「私……CD全部持ってるよ」


「本当!? じゃあ今度貸してよ。僕も何かオススメのやつ持ってくるからさ」


 ふと腕時計を見て、やばいそろそろ帰らなきゃ、とシュウトくんは自分のカバンを持って立ちあがった。去り際にふと振り返ってひらりと右手を挙げる。バイバイ、と口が形作っていた。私の頭はもう何も考えられなくて、反射的に彼に手を振り返した。彼の姿が見えなくなってからは一連のやりとりを頭の中で何度も何度も再生した。


 この記憶が夢みたいにいつの間にか消えてしまったりしないようにって、何度も、何度も。







「”愛してるって言わせてよ! それだけでもう強くなれるんだ 君にだけ伝えたいの 何度だって言わせてね 大好きー!”」


 私が歌い終えると、隣で聞いていた千佳ちかはパチパチと手を叩いた。彼女は国民的アイドル『ブロッサム・カルテット』のメンバーの一人。一応私たちのクラスに在籍しているけど学校にはほとんど来ない。だから学校の人とはあまり関わりがなくて、あるとしたらこうやってたまに私をカラオケに誘うくらい。なんで私なのかって聞いたら「だって彩羽いろはの普段とのギャップが面白いから」って。


「彩羽はいつも歌ってる時みたいにすればいいのに。堂々としててかっこいいじゃん。恥ずかしい歌詞だって平気で歌っちゃうしさぁ」


「む、無理だよそんなの……歌だから割り切れるというか、普段とは違う感覚なの」


「ふうん。でもその感じちょっと分かるかも。私も最近舞台の仕事をすることがあってさ。稽古とか大変だったしあんまり気乗りしなかったんだけど、いざ舞台に立ってみるとなんかノリノリになっちゃったの。誰にも真似できないドロッドロのジュリエットになりきってやる、ってね」


「ははは。あの劇すごく良かったよ。千佳ちゃんの迫力が怖いくらいだった」


 千佳はドリンクバーのジンジャーエールを飲み干すと、次の曲を選びながら言った。


「そういえばあの塾の彼とはどうなった? なんでしょう」


——ブフッ!


 私は文字どおり飲んでいたカフェオレを噴き出す。


「すすす好きって……!」


「だって彩羽が男の子の話することなんて滅多にないじゃん。それに、そんなに顔真っ赤にしてれば誰だって分かるよ」


 ああ、「穴があったら入りたい」ってこういう時にぴったりの言葉だなぁ。私は顔を覆った。


「そんなに……分かりやすいかな」


「うん。でも良いんじゃない、可愛くって」


「そんなことないよ……お互いそんなに親しいわけでもないのに一方的に彼のこと見ちゃって、なんだか自分がストーカーみたいだよ……」


「塾で話したりしないの?」


「うん、あんまり共通の話題なくって……唯一あるとしたら音楽の話かな。CD貸し借りしたりはしてるけど、それだけ。お互いの学校がどうだとか、家族はどんな人とか、そういう話はしたことがないの」


「彩羽から聞けばいいじゃない」


「無理だよ……『何でそんなこと聞くの?』とか言われたら心折れそう……ただでさえ一方的に彼のこと監視しているみたいで、自分で自分が気持ち悪いんだ。私のこと、まだ何にも関心持ってもらえてないのに」


 すると、チカは何か思いついたようにパチンと手を叩いた。


「じゃあ今度うちの学校の文化祭に誘っちゃわない? で、私たちはガールズバンドをやって、彼にかっこいいとこ見せつけるの」


「ガ、ガールズバンド!? 私人前で演奏したことなんてないよ!」


 そんなのできっこない。ただでさえ人と話すのだってこんなに緊張するのに。うちの学校の文化祭はそこそこ知名度があるから、校門入ってすぐのところに設置されたステージにはどんな出し物であれそれなりの人数が集まる。去年は部員の少ない落語研究会でさえ百人集めていたという。


 私が言い訳を続けようとした瞬間、千佳がぐいと私の方に寄ってきて、ぱっちり開いた三白眼で私をまっすぐに見た。


「いいじゃない、たまには学生らしいことさせてよ。覆面バンドなら私も参加できるし、彩羽だって少しは恥ずかしくなくなるでしょ?」


 普段芸能界の仕事で忙しい彼女は学校行事なんて滅多に参加できない。参加したとしても、芸能人としての彼女を見たいファンが殺到してしまうだろう。つまりこれは彼女にとってもチャンスなのだ。


 それに……日本中の人から好かれる千佳にお願い事をされるということに、ちょっとだけ優越感みたいなものも感じないわけにはいかなかった。


「う……わかったよ。千佳ちゃんがそう言うなら……」




 この日をきっかけに、私たちは九月の文化祭に向けてバンド練習をすることになった。



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