The Master of Road Runners

永井 文治朗

序章1 東のはずれの国の執政官の話

ここにしかない世界。

これは私たち家族が守り続けた世界の話・・・

人に絶望し、人に裏切られて、それでも人という種族を守り続けた私の家族すべての願い。

その願いの詰まった宝石箱が私が語る物語となる。

宝石箱の鍵はいつもそれを聴く人たちの手の中にそっと握られているのだ。


まずは私の大好きなおじさまの話をしよう。

運命に導かれ、故郷を遠く離れた島国に辿り着いた広い広い草原を駆け巡る王の物語・・・


 大陸の東の外れにアルテアという島国がある。

 アルテアはその地理的な特性からどこの国家からも侵略されることがなく、また大陸に侵略したという記録はほとんど残っていない。栄枯盛衰が当然のなりゆきとされる大陸国家の中にあっては、異例とも言える長い長い歴史を誇る国家であった。だがその存在を知るのは交流のあるごく僅かな国に限られていた。

 歴代の王族は鷹揚で慈悲深く、その家臣たちも勤勉で真面目であった。大陸の賢人たちはアルテアを『東の果ての楽園』と称し、興味と好奇に取り憑かれた若い知者がこの国を客人として訪れ、その魅力に取り憑かれ、そのまま生涯骨を埋める者も少なからずあった。

 トワメル・ヒルム・ティグレーンもまたそんな一人であった。彼は中央大陸のシメンという小国の王子で亡命者として苦労を重ねた末にアルテアに辿り着いた。諸国を放浪したが彼が王族として扱われることはほとんどなく、『身なりの良い物乞い』としてどこの国でも厄介者扱いされた。

 そう、ただ一国、アルテアを除いては・・・

 彼とその母、僅かな従者たちは流浪の旅の果てにアルテアに流れ着いた。せめて、自分の身は自分で養う安住の地を得んとしてのことだったが、アルテア王ウェルテェル6世は彼らに住まいと給金を与え、彼らの生活を保護した。

 それから僅か半年でトワメルの母は安堵の念から長年の辛苦が祟り息を引き取った。だが、ウェルテェル6世は彼女を王族墓地に埋葬することを許し、トワメルのために葬儀の費用を用立ててやった。

 そこまでの恩義を受けた以上、トワメルの腹は固まった。彼はシメン再興の夢を断念し、生涯を大恩あるアルテアの為に捧げることを心に誓った。彼はウェルテェル王に直訴嘆願して臣下の誓いを立て、アルテアの一官僚となった。

 もとより出世欲などないトワメルだったが、だてに諸国を渡り歩いてはいなかった。王族として受けた高い学識のみならず、彼の見識と見聞はアルテアの治政にとって少なからざる貢献を果たしていくのだった。

 アルテアに来て10年、トワメルが三十路半ばになる頃には彼は大臣の末座にあった。その実力は周囲から認められ、誰も彼の出世を嫉んだりはしなかった。彼が王族の自尊心を捨てて下役人のする仕事にも不平を言わずに真面目にこつこつと実績を積み上げたことを知らぬ者はなかった。また、再三にわたってウェルテェル王が貴族の列に入るよう薦めても辞退し、高貴な者との縁組みもすべて断り続けた。その中には若くして未亡人となったウェルテル王の愛娘アンも含まれていた。


 ただ、トワメルが自らが『異邦人』であることを痛感する出来事があった。

 それは朝の閣議の場でのことだった。

「陛下、なぜです?」

 トワメルは怪訝な眼差しをウェルテェル王に向けた。

 大きなテーブルの上座に座すウェルテル王は穏やかな表情を崩さず、「ならぬ」と大きな声で告げたのだ。居並んだ重臣達はもっと露骨に狼狽や嘲りに近い表情を浮かべている。トワメルは自分が孤立していると悟った。

「そなたは異国から来た故に知らぬのだ」

 王の言葉とそれに唱和するかのような他の大臣たちの失笑や哀れみの表情にトワメルの自尊心がちくりと疼いた。

 アルテアに来て以来、割合に閉鎖的で古風然としたこの国で異国人という差別を受けていると感じることは一度ならずあった。だが、大抵の場合はウェルテェル王自らがそうした者たちを窘めることで救われてきた。だが、先の一言はその王自らがトワメルを異国人として差別しているように聞こえた。

「いや、勘違いするでないぞ、トワメル卿」初老の上大臣ゲールが二人を取りなすように間に入る。「陛下はそなたが異国人だと蔑んでいるわけではないのだ。この国に生まれておれば子供でも知っていることだが、“そなたは違う”と言うておるのだ」

「それと今回の件とどのような関係があるというのです」トワメルは傲然として椅子を蹴って立ち上がった。「私は本年の歳入の不足を補うにあたり、長年免除とされてきたポロニウム地方の徴税をすべきだと申し上げているだけです」

「だから、それは出来ぬと言っておる」

 常ならばよほどのことでもない限り、自分たち大臣の言葉に従うだけの王が頑なに拒否することにトワメルは違和感を感じていた。

「その理由はお聞かせ頂けないのですか?」

「いかに忠臣たる貴公とはいえ、この一件については『古き盟約ゆえ』としか言えぬ」

 王の毅然とした物言いにトワメルは沈黙しかけた。だが、彼の意地が珍しく自分の意見に固執させた。

「しかし、このままでは多数の民が困窮致します」トワメルは悲痛に顔を歪めた。「西の干魃の状況は最悪です。ここ数年の不作続きで民の負担は最早限界です。となれば財政を預かる我々はなんとか他の方法で必要な予算を作らねばなりますまい。ですが、倹約に倹約を重ねても我々にはそうした余裕は・・・」

「それは我らとて重々承知しておる。また、そなたが夜半まで資料庫に籠もり、我が民のために心を折っていることはここにいる誰もが分かっておる。だが、我らはこれ以上『あの方』に恩を受けるわけにはいかぬのだ」

「あの方とは?」重ねて質問しようというトワメルに対し、別の上大臣エルゼが露骨に顔をしかめた。

「陛下に対し無礼であるぞ、ティグレーン卿」

「しかし・・・」

 執拗な態度のトワメルにゲールは短い咳払いを一つして立ち上がった。

「陛下、朝議はこれにて休会と致しましょう」

「よかろう」

 ウェルテル王はエルゼのように露骨な不快感を表すことこそなかったが、その態度にはいつになく棘があった。

「トワメル、少し暇をやる。貴公は少々疲れが溜まっておるようだ」

 王の言葉にトワメルは目の前が真っ暗になる思いがした。

「ティグレーン卿、後ほど我が執務室に参られよ」

 続くデールの言葉にトワメルはとどめを刺された思いがした。

 彼の10年の忠節は実のところ誰にも理解されていなかったのだという絶望感がその肩を重いものにしていた。


 一刻の後、トワメルは言われた通りゲールの執務室を訪れていた。彼はなにがあろうとウェルテェル王とこの老大臣だけは自分の味方になってくれるものだと常日頃から思っていた。

 それというのも最初に彼がアルテアを訪れた際に王に仲介して取りなしてくれた人物こそが大陸の事情にも明るいゲールであったし、ゲールの言葉を受けて生活の一切を援助してくれたのが王だった。それだけにトワメルの心は凍りついた。

 叱責を覚悟して覇気もなく悄然とゲールの執務室に入ったトワメルは老大臣の意外な態度に唖然とした。ゲールはトワメルを見るなり笑い転げたのだ。

「いやはや、トワメル。久方ぶりに面白い見世物を見せて貰ったよ」

「閣下、私が職を失うのがそれほど面白いですか?」

 トワメルは皮肉な物言いにも力が入らないほどに落ち込んでいたが、それがまた老大臣にとっては一層おかしかったようだ。ゲールはいよいよ笑い声を盛大にした。

「トワメル。誰が職を辞せと?王はそなたの常ならざる余裕なき態度に『少し休め』と勿体なくも仰せになられただけのことよ」

「そうでしょうか?」

 憮然としたトワメルをゲールは狡猾とも、悪戯っぽいとも見える視線で見据えている。

「それにな、日頃老獪で年よりもずっと大人びていると思っておったそなたが、まだまだ若造なのだと少し安心もしたのだ。なに、この程度の苦境はこの国の長き歴史にあっては毎度のことよ。王も儂も、老人たちは幾度も乗り越えてきておるわ」

 ゲールのそんな態度にトワメルはすっかりふて腐れていた。

「確かに私は若造のようですね。なにしろこの国に生まれたならば子供でも知っているような事情すら知らぬのですから」

「まぁ、そう皮肉るでない。それにな、儂が可笑しいと思ったのはこの国の人間たちの小さな見栄と自尊心よ。それが大臣のみならず、陛下までもがかと思うと実に可笑しかったのだ」

「見栄と自尊心?」

「そうよ。おおかたお主は昨夜あたり徴税額とこの国の地図を重ねて見比べ、不自然に思ったのであろう。それでポロニウム地方の徴税などと言い出したのであろう」

「はぁ、まったくもってその通りですが」

 手の内を読まれたようでトワメルは良い気持ちがしなかった。

「そなたの言わんとすることはあの場にいた誰もが承知しておる。この国のすべての土地は原則として王のもので、貴族領も寺社領も例外なく王家に税を収めておる。『かの地を除いては』だ」

「調べあげた限りではそうなっています。無論、貧困地に対する税の減免は過去にもあったことですし、他国でも当然です。ですが、恒久的に免税というのは聞いたことがありませぬ。それが独立国というのならまだしも・・・」

「まさにそれよ」

「は?」

 トワメルは我が耳を疑った。

「かの地は我が国にあって我が王の支配する地ではないのだ。それも二千年の昔からな」

「二千年?」

 建国から百年も経ずに滅亡した小国の元王子には想像のつかない歳月の話だった。

「かの地は国家ですらなく、かの地を治めるのは王の家臣などでない。そして、大陸のどの国家よりも強大精強にして不可侵の地よ」

「私をからかっているのですか?大陸ではそのような話は聞いたことも」

「それはな、大陸の国家もまたお主と同様に『若い』という証拠よ。ではお主に問うが、この国が建国より二千年の間、他国から一度たりとも侵略を受けなかった事実をどう説明する?お主の祖国シメンとこの国にそれほど大きな違いがあるか?」

「それは四方を海に囲まれ、外敵も少なく、土地も比較的肥沃で民の生活も割合に豊かですから・・・確かに今は困窮のときではありますがね。いや、だけど隣国は強大なハン帝国で、ハンの皇帝がどうしてこの国を攻め取ろうと考えなかったかと訝しむことはないわけではないですが」

「それよ、ハンもまた大陸にあって皇帝一族の交代劇こそあれ長き歴史を誇る国。ゆえにその恐ろしさを知っておる。実を申せばこの国がハンに狙われぬのはかの地にあのお方がおられるお陰なのだ」

「あのお方?」

「そうよ、一度はあのハン帝国ですら『あのお方』に屈して滅亡した。それ故にその名はこの国に生まれた者であれば誰しも恐ろしくて口に出来ぬ。陛下ですらその名を口にすることを憚っておられる」

「まさか二千年前から『あのお方』とやらがかの地を支配しているせいで誰も手出しが出来ないというのですか?そんな馬鹿な。冗談にしても程が・・・」

「冗談などではないわっ!」ゲールは血相を変えて怒鳴った。「陛下が申された『恩』とは250年前にこの国が地震と噴火という未曾有の天災に見舞われて民が困窮した折、勿体なくもあのお方が援助を申し出てくださったことよ。流民と化した多くの農民が『あの方』の慈悲にすがることをお許しくださったばかりか、我らに当座を凌ぐに足る食糧をお与えくだされた。それも我らの祖先があの方と取り交わした『古き盟約』をあの方が誠実にも守られたお陰。あの方ほど人間を憎まれている方もいないというのに・・・」

 トワメルは唖然とした。数千年の話から、数百年前の話。時間の単位があまりにも大きすぎて三十そこそこの彼には到底理解がついて行けない。それ以上に伝説でも迷信でもない証拠として、トワメルにも十分証明可能な客観的な歴史的事実をつきつけられた思いがした。それこそ、建国以来の歴史書がうずたかく積み上げられた王城の書庫に赴けば其処に動かぬ証拠が残っているとでもいう話のようだった。

「あの方というのは人間ではないのですか?まさか龍族?」

 龍族は大陸にも散在している人間の支配及ばぬ古き種族で、トワメルもその恐ろしさを聞いたことがある。人間は龍の怒りを畏れつつ生きるものだと父王からも教わっていた。

「いや、龍族さえも支配するお方よ。現にいまや龍族を従えているという話だ」

「それじゃまるで神様ですね」

「よせ、そのように扱われることをあのお方は最も嫌っておられるのだ」

 トワメルは怪訝な表情を一層深くした。だが、少しずつ彼にも理解できたことがある。それはアルテアの人々が『あの方』と呼ばれる者に対して、深い感謝とそれ以上に大きく根深い恐怖を抱いているということだ。

 なるほどとトワメルは思う。そうした人外の強大な存在を身近に感じているからこそ、この国は王族をはじめとしてすべての民が一様に謙虚で慎み深いのだと。大陸からこの国に来て一番感じたことはこの地の者が人間にありがちな思い上がりや増長とは無縁だという事実だった。

 むしろ大陸出身者で元王族の自分の方がずっと思い上がっている。そうでなければ大恩ある王に対してあんな口の利き方が出来るものではない。もしかすると『異国人』という言葉の中に、『思い上がり勘違いしている者』という侮蔑の意味が隠されているのかも知れない。

 そう気づいたとき、トワメルは赤面する思いがした。我知らずうちに、『王の目線』でこの国の民を見ていたのかも知れない。

 少しの間を置いて口を開いたとき、トワメルの顔から怒りや絶望感と共に僅かに見え隠れしていた奢りが消えていた。

「畏れを抱くことの大切さですか・・・」

「さすがに聡明な王子であるな」

 ゲールは話の肝心な部分をトワメルが理解したことを既に悟っていた。

 異国人には容易に理解しがたい伝説や伝承がアルテアには今も息づいている。そして、そのことに国王でさえも畏れを抱いている。更には過去に盟約の対価として大恩を受けた。ばかりか、この国が平和を保つことが出来るのも『あのお方』が存在するからだという事実を受け入れている。

 小さな見栄と自尊心というのはアルテアを預かる王侯貴族たちが自分たちの力ではない別の力に守られた特別な国という自覚と同時に大陸の民に対して感じている『引け目』をさすのだろう。大陸で栄枯盛衰をくり返す人々に比べ、自分たちはぬるま湯に浸かったかのように恵まれすぎているという。

「しかし、お話が本当であるならば是非にも見てみたいと思いますね」

「やめておくのだ。興味本位で近付くには相手が悪い」

「いえ、そうではありません」トワメルは穏やかに微笑した。「今は私もこの国の臣なれば、そうした伝承に実際に触れておく必要があると感じたまでです。ゲール様のようにすべてを承知された上で、大臣の座にある為にも」

「心がけは立派だが、時勢も時勢ゆえに私としては承服しかねるが・・・」

 そのとき、ゲールの執務室の前が少しばかり慌ただしくなった。

「陛下のおなりにございます」

 先触れの武官が室内にいる二人に告げる。二人は畏まって屹立した。

 ウェルテル王が小姓を伴って入室する。王の小さな合図で二人の小姓は小さく会釈して扉の向こうに消えた。

「うむ」

 王はゲールの執務机に腰を下ろし、二人をみやった。その顔にはなにもかもお見通しという表情が浮かんでいる。

「ティグレーン卿、貴殿は朝議での発言を撤回する意思はあるか?」

「はい、なにぶんにもアルテアの事情に疎い者ゆえの出過ぎた発言でした。陛下とゲール様がお許しくださるのであれば議事録から発言の削除を願い出たいと思います」

「結構なことだ」

 王は鷹揚にうなづいた。

「その上で陛下にお願いがあります」

「ふむ、申してみよ」

「陛下のお申し出に従い、しばし暇を頂戴したく存じます」

 虚をつかれた二人は同時に顔色を失った。

「まさか東方に参るのか?」

「はい、『あのお方』のご機嫌伺いに参りたいと存じます」

「ふーむ」

 王は髭を撫でながら思案に耽った。

「非才の身ながら『ご機嫌伺い』という形でなにがしかの援助が得られないものか交渉して参りたいと考えております」

「トワメル、それは少々虫が良すぎる話だ」

「そうとも。それにそちは『暇』と申したが、それは立派な公務であろう」

「とはいえ、王宮を留守に致しますし、その間、財務大臣の執務も滞るわけです。ただ、旅の合間は骨休めにもなろうかと」

「んーむ」

 王は更に難しい顔になった。

「確かに。我ら大臣の身で『旅が骨休めになる』などと躊躇なく豪語できる若人は貴公だけか。我ら老臣どもには馬の乗り降りも一苦労ゆえ」

「いかにも、それに我らアルテアに生まれし者は『あのお方』に対して少々畏れが強すぎる。異国人で人品素性共に卑しからぬ卿こそはその任に最適ではあるな」

 王は一縷の望みを見出した思いを抱いた。だが、すかさずゲールが疑問を口にする。

「だが、いかように交渉するつもりだ?」

「借り受けます」

「借り受ける?」

「陛下の仰せになられた『大恩』とは見返りも返済の目処もなく、一方的に物資を援助して頂いたことでしょう?ですが今回は『借りる』のです。国の財政に大きな負担がかからぬ期間のうちに『返済する』と約してきます」

 それは島国のアルテア人には思いも寄らない発想だった。そもそもアルテアには借りたくても借りられる相手がいない。

 海上貿易による取引は別として、アルテアは大陸諸国に借りたことも貸したこともない。ハン帝国に対する朝貢はあったが、それは互いに貿易に関する取り決めと政治的意図があってのことで、気位の高いハン帝国がたかがちっぽけな島国のアルテアに借りを作るなどということはあり得ず、アルテアもハンに無用の借りを作って墓穴を掘る愚は犯していない。

 なにしろ、物資を船で輸送せねばならず、そのためにつきまとう海難や海賊の出没といった危険を考慮すると難しい。それに船でやりとり出来る程度の物資では到底不足を補うに足らない。250年前の危機もそうした事情ゆえに発生した。

 だが、陸路の発達した広い大陸では気候次第で様々な状況が発生するため、物資の貸し借りは様々な方便のもとで当たり前に行われている。それを生業とする者たちもいるし、そうした物資を狙った山賊も跋扈している。

「国が借財するなどという話は有史以来聞いたことがありませぬ」

「それは島国アルテアだけの話です。そもそも大陸の国家は皆他国や商人に借財しております」

 そうした事情こそが大陸諸国の外交と戦争を複雑にしている。そもそもトワメルの祖国シメンが小国として独立できたのも経済的な豊かさが背景にあった。だが、それ故に領土的野心を抱く隣国の侵略に屈し滅んだのだ。

 むしろ、他国に対して借財まみれの貧しい国家の方が長続きするという悲壮な現実さえもある。見返りが少ない戦争は誰もしたがらない。そして、国が貧しいとそこに暮らす民の心も貧しくなり、統治が更に難しくなる。割に合わない真似は誰も進んでしたがらない。

「それが大陸流というものか。なるほど我々にはその発想さえない」

「私にしてみれば陸続きで領土的野心のない相手と積極的に交流しない方がおかしいのです」

「一本取られたなゲールよ」

「まったく・・・。それゆえこの若者は我が国の宝なのですな」

 同じ人間と思えないほどアルテア人たちと、シメン人トワメルの現状認識や物事への感覚は大きく異なっている。それゆえ、先の朝議のようにないものを持つが故の孤立もあったが、ないものを持つが故に破格の出世を遂げたのでもある。少なくとも王とゲールは彼の持つ価値と可能性を高く買っていた。

 王はすぐに決断した。

「どれだけの物資をどの程度の期間借りたが良いかは財政を預かる貴公ほど承知しているものはおるまい。良かろう、取り急ぎ親書をしたためる。余の使者としてかの地に赴くが良い」

「ありがたく存じます」

 逆転の一手を見出したトワメルは満足げに頭を垂れた。

「ただし、条件が一つだけある」

「なんなりと」

「かねてより申し入れておった件を承諾せよ」

「えっ」

 起死回生の発案に相好を崩していたトワメルは一瞬にして顔色を失った。

「やはり若後家では嫌か?」

「そういうことでは・・・」

 トワメルは気まずそうに顔を伏せた。

 『かねてよりの件』とはウェルテル王の第三王女で先年夫に先立たれたアン王女を妻に娶れという話であった。

 悪い話ではないにも関わらず、トワメルが断り続けた理由は幾つもある。

 一つにはアン王女は25歳とトワメルよりも10歳も若い。シメンでは国家となる以前に一部族であった頃から『年の離れた妻を望むは破滅の兆し』という古い慣わしがあり、もとの首長、国家成立後の王族は前後5歳までの婚姻しか認められていない。

 実際のところ、大陸の国家で王が若い娘を娶った場合、それが内紛や相続争いを引き起こす主要な原因となっていたし、若い娘に入れあげた王が国政を顧みず、国家が経済的に破綻した例も多い。それ故に犯すべからざる禁忌となっていた。

 ふたつ目が王女を娶ればトワメルも王侯貴族に列せられる。祖国の再興を投げ出した亡国の王子が他国の王女を娶って王族に列せられるというのはトワメルの自尊心が許さなかったし、生涯アルテアの臣という誓いにも反する。

 トワメルは王子ではあるがもとより世継ぎではなかったし、継承順位が上位にある腹違いの兄も存命している。だが、国を奪われ流浪離散するシメンの民がそんな話を面白いと思う筈がないし、今も他国で厄介者扱いされている兄妹たちにしてみれば正しく非道な裏切り行為だった。

 まして王の引き立てもあって破格の出世を遂げている異国人が王族となることはアルテア人の重臣たちにとって面白い筈がない。彼が嫉妬を巧みにかわしてこれたのも、アルテアの若者たちが羨む破格の申し出を断ることで、身の丈に合わない野心とは無縁と示してきたことによる。

 三つ目が一部族としての血脈を重んじるシメンでは身分の卑小を問わず同族との婚姻は歓迎されるが、他国人の血が混じることを嫌う風潮があった。他国人と結婚したシメンの王族はそれだけが理由で継承権を失うことも多い。

 早い話、世間体を考えればトワメルはシメンの民で同年代の女性しか妻に出来ない。しかも彼は戦災で妻子と死に別れていた。他国の虜囚となることも、夫の負担となることも嫌った身重の妻が彼の目の前で刃で喉を突いて自害したのだ。更には妻が遺した一人息子は流浪の旅の最中に熱病が悪化して亡くなっていた。

 トワメルが自らの手による祖国復興を断念し、アルテアの臣となった背景には『後に血を遺せない』事情も密接に関わっていた。

 だからこそウェルテル王がトワメルに対し、『それ』を強く望むこともわかっている。それこそは正しく、『シメンを捨て、身も心もアルテアに捧げよ』という強いメッセージだった。そして、いい加減に『異国の王子』から脱却してくれないと、思う地位・・・つまりはゲールの後釜に据えることもままならないという王が抱え持つジレンマの現れだった。

「わかりました。前向きに検討させて頂きます」

 トワメルは最早観念したとばかりに頭を深々と下げた。

「おぉ!、それはめでたきことだ!」

 ゲールは無邪気に喜んだ。まだ若い娘が未亡人として暮らす様は見るに忍びない。王にとっては尚更でその心を痛めている。そのことを王佐の臣として誰よりも重々承知していた。

 だが、言い出した張本人のウェルテル王は複雑な表情を浮かべ、むっつりと黙りこんだ。

「今度のことで自分がいまだ異国人だと痛感させられました。職を失う覚悟での無礼な発言を思えば、今更ながらに小さな自尊心を捨て去ることなど・・・」と言いかけてトワメルは言葉に詰まった。その目に涙が溢れる。

 それがシメンの王子たる誇りとアルテアの忠臣との誇りの板挟みに苦しんできたトワメルの偽らざる心象だった。


 暮れの閣議でトワメルの発案と使者となる一件が反対者もなくすみやかに了承された。ゲールが根回しして反対が予想される者を事前に説得していたのだ。

 一方で婚儀の件は後日の発表とされた。

 そちらに関しては事前に周到な準備と根回しを重ねる必要があると王が判断したのだった。トワメルが不在のうちに婚儀に向けた空気作りをゲールが中心となって行う。言うならばその王命を伝えるために二人の前で敢えて発言したのだ。

 閣議の後、神妙な顔で退席するトワメルを尻目にゲールは思わせぶりにつぶやいた。

「陛下はあの若者の首に鈴をつけねば収まらなかったのであろうな」

 隣で聞き咎めたエルゼが顔をしかめる。

「それほどの若造かね。あの誠実さは大いに認めるが少々才気走りすぎている」

「だからよ。ふとしたことでふいっと居なくなるんじゃないかと不安にさせられるのだ」ゲールは苦笑を浮かべた。「なにせあやつは元は誇り高き草原の民だからな。自由な空と大地に飢えておる」


 トワメルは一度自分の執務室に戻り帰り支度をしながらため息をついた。

 このところの多忙と睡眠不足に加え、今日はまたいろいろありすぎて疲れているというのに真っ直ぐ屋敷には戻りたくない。

 婚儀の一件があるせいで、屋敷で帰りを待つシメン人の家臣たちには合わせる顔がなかった。

 従者が外で待ち受けている。トワメルは思い切って友人の家を訪れることにした。

「今夜も戻らぬと伝えてくれ」

 シメン特有の浅黒い肌の少年従者はこくりと頷くと静かに退席した。

 トワメルは厩に赴くと鹿毛の駿馬に跨がり市内を颯爽と駆け抜けた。王都の郊外にベルイーニという友人が暮らしていた。彼もまた異国の出身で大学で語学などを教えている。気の置けない友人で突然訪ねて行っても嫌な顔などすることがない。今夜は彼と飲み明かしたい気分だった。


「ほぅ、それではいよいよ王家と縁続きとなるわけか。それはまた“災難”なことだな」

 ベルイーニはニヤニヤとした笑みを浮かべて皮肉る。すかさず彼の妻ミーネがたしなめる。

「よしなさいな貴方。おおかたお気に入りのアン王女をトワメル様に取られるのが悔しいのでしょう」

「馬鹿を言え、俺にはお前や大事な娘たちがいる。若後家にうつつを抜かしている暇などないわ」

「よく言えたものね。若くてキレイな女性には滅法目が無い癖に。教え子でもなんでもきれいどころが居ると鼻の下を伸ばすくせに」

「それは男の甲斐性というものだ。だが誓って浮気などせんっ」

 ベルイーニとミーネのやりとりにトワメルは苦笑した。いや、婚儀の話が出てから少しでも表情を緩めることが出来た。

 年齢が一回りも年上で、性格も出自も全く異なっていながらこの友人との交流を続けたいと心底思うのはこうした偽らざる本音を聞かせてくれる貴重な存在であったからだった。

「それにしてもトワメルよ。どうしてまたこんな話が降って沸いたのだ?というよりどうして今までのように言葉巧みに断れなかったのだ?」

 抜け目のないベルイーニに尻尾を掴まれ、トワメルは今朝の話をせねば済まないのかと落胆した。出来ることならば朝議での失態は隠したままにして今も心に残る疑問についてだけ聞き出したいと考えていたのだった。

 それが敵わないと分かったことで思い切って疑問をぶつける気になった。少し酔いが回っていい心持ちになっていたせいもある。

「なぁ、あのお方って一体なんなんだ?陛下でさえ憚る『あのお方』とやらのせいで私はえらく恥をかくことになったのだ」

「ほぅ、この国の民が一様に口を紡ぐ相手を知らん者がよくぞ大臣まで上り詰めたものよ」

「ベルイーニ、私は・・・」

 ベルイーニは左手を制するようにトワメルにかざして娘の名を呼んだ。

「アニ」

 名前を呼ばれた娘は隣室でお人形遊びに夢中だったが父の呼び出しに至って素直に応じた。

「アニ、お前のお気に入りの本を持っておいで」

 まだ幼いアニはコクンと頷いて寝室へチョコチョコと歩いて行く。そしてしばしの後、本を大事そうに抱えて戻ってきた。

「良い子だ。また今夜眠るときに読んで聞かせよう」

 ベルイーニはアニに戻っていいよと合図する。だがアニはそれが当たり前のこととでもいうようにお気に入りのおじちゃん・・・トワメルの膝にちょこんと乗っかる

「トワメル、俺もな、子持ちだからたまたま知っていただけかも知れない」

「なるほど、ゲール閣下が子供でも知っていると言っていたのは童話の主人公だからか」

「まぁな、だがちょっと事情が違う。大抵の童話に描かれる物語は細部こそ異なれど原型は一つの話だったりする。語り手の虚飾を一つ一つ外していけば似た話がとんでもなく離れたところに在ったりするするもんさ。だが、こいつばかりはちょっと違うんだな」

 そう呟きながら童話集のページを繰る。

「昔々、この世界には一人の魔法使いが居ました・・・」


 まおうのいかり


 むかしむかし、この世界にはまほうつかいがいました。まほうつかいの名前はリーアム・ポロニウス。けれども決してその名前をよんではいけません。その名はかつて世界をまっくらやみの時代につきおとしたわるいわるいまおうの名前なのです。まおうリーアムはあることがきっかけで世界をほろぼそうとしたのです。


 ある月のないまっくらな夜のことです。うすぎたないとうぞくたちが森のおく深くにある小さな村をおそおうとしていました。とうぞくたちはその村がようせいたちの村であることを知っていました。月のない夜には、まおうリーアムがそこをおとずれるため、まおうと親しくしているようせいたちは月のない夜だけは人間たちの目にも見えるようにまほうをといていたのです。ようせいたちは人間にはめずらしいたからものをたくさんもっていました。そして、ようせいのむすめたちはみなびじんでとうぞくたちはかのじょたちをさらってわるいどれいしょうにんに売り、大金をえようとしていたのでした。


 ざんねんなことに。ようせいたちはとうぞくたちがねらっていることにまったく気がつきませんでした。そして、その夜にかぎってまおうリーアムもやってくることはありませんでした。とうぞくたちがようせいたちをおびえさせるためにはなったほのおはまたたくまに村をやきつくしました。おどろきおそれてにげまどうむすめたちはたちまちとうぞくたちのあらあらしい手につかまえられてしまいました。


 ようせいの男たちはぶきを手にゆうかんにも戦いをいどみましたが、一人また一人とたおされてしまいました。かれらはせんそうのないへいわなくらしをしていたので戦うことはむずかしかったのです。


 そして夜があけました。そこにはもえかすになった村のあとが残っているだけでした。ようせいぞくの一人がとおくまおうのもとへと命からがらじじょうをつたえに行きました。その話をきいたまおうはれっかのごとくいかりくるいました。

「ちをはうものどもよ、よのことわりを知らぬおろかな人間どもよ。われはお前たちにてきたいする」

 まおうのつぶやきはだれ一人として耳にしませんでしたが、それはまおうが人間にせんそうをいどむはじまりになったのです。


 まおうのいかりはすさまじいものでした。とうぞくたちは見たこともないようなおたからの山を前にならべて、ようせいのむすめたちを売ったお金でのめや歌えの大さわぎをしてよふかししていましたが、かれらはたちどころにまおうのいかりにふれ、そのすがたは小さな虫けらにされてしまいました。まおうは虫けらにかえられたとうぞくたちをネズミたちにめいじてすべて食べさせてしまいました。ようせいのむすめたちはどれいしょうにんのおりの中で心ほそくなってないていましたが、かのじょたちはまおうにたすけ出されました。どれいしょうにんたちはくびからしたをうしなって人知れずしんでいました。


 まおうは人間のおうさまのおしろの前にたてふだをたてました。そこにはこう書かれていました。


「わがどうほうたちをおろかにもころし、うばい、やきつくしたものとそれにかたんしてたいきんをせしめたものどもをわがまほうでのろいころした。このことにいをとなえるものもまたわがのろいといかりにふれてすべてめっせよ」


 するとその国のおうじがおこりだしました。おうじはどうしてもはなしにきいていたようせいのむすめというものがみて見たかったのです。そこでかしんたちにめいじてこっそりどれいしょうにんからようせいのむすめを買ったのでした。


「ばかなことを言うものではない。あいてはたかだかようせいふぜいとまほうつかいではないか。人間がなにをしようと人間のかってだ。どこにいるともわからないまほうかついにのろわれるりゆうなんてない」


 しかし、そう言いおえたおうじは大きな手でにぎりつぶされたようにして、ぐにゃりと体をまげて、くるしげないきをついたのちにいきたえてしまいました。むすこであるおうじをとてもあいしていたおうさまはカンカンになっておこりました。


「わが王国にあるものはいかにとうぞくといえど、いかにどれいしょうにんといえど、ましてやちをわけたわがむすこは。わがおうこくのものでわがざいさんだ。かってにころしたりきずつけたりすることはだれだろうともけっしてゆるさない」


 おこったおうさまはおおぜいのぐんたいにまおうのとうばつをめいれいしたのです・・・


 トワメルは酔いと疲労とベルイーニの朗読の韻律に我知らず眠ってしまった。

 トワメルは夢の中に落ちていった。

 夢の中で「まおうのいかり」とは別の物語が繰り広げられ、トワメルはその物語の中で別の人物となっていた・・・


                                    続く

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