第9章 儚く消えいる
三月下旬のある金曜の夜。
私は、夕食を摂った後、朝から続けていた、締切が間近に迫っている短編推理小説の執筆を再開した。
プロットは出来上がっている。後は、話を書き進めるだけだ。
桜も至るところで開花し始め、だいぶ暖かくすごしやすくなってきている。今日もその例にもれず、暖房をつけなくても、快適に仕事をすることができている。
午後九時を回ったところで、一区切りをつけ、一息吐こうと、キッチンで紅茶を淹れてデスクの前に座ると、長らく連絡を絶っていたミカが、《エアフリ》でビデオ通話の通知を送ってきていることを示すポップアップが表示されていた。
マウスを操作して回線を繋ぐと、「こんばんは、ウサギさん」とミカのハスキィボイスが内蔵スピーカーから届いてきた。
「こんばんは、ミカちゃん、久しぶりだね」
私は嬉しげに返してから、
「一ヶ月近くも顔を出さないから、皆心配してたんだよ」
「ごめん、ちょっと色々あって・・・・・・」
ミカは言いにくそうに謝ってから、
「ウルフさんと、マシュー君は?」
「ウルフさんは、今日は卸先との打ち合わせがあるから、こっちまで出張してるってことだったよ。マシュー君は、大学のサークルでの飲み会。二人とも、今日は顔を出せないかもね」
「そうなんだ・・・・・・、久しぶりに、二人にも会えるかなって、思ってたんだけどな・・・・・・」
ミカが、残念そうにこぼす。
「ウルフさん、今日の便の飛行機で長野に戻るって言ってたから、明日の日曜には、皆揃うんじゃないかな」
私は返してから、
「ところで、一つ気になったんだけど、ブラウザに、ミカちゃんの顔じゃなくて風景画像が映ってるのは、どうして?」
「ちょっとこの頃、よく眠れなくって・・・・・・」
星空を舞うアゲハ蝶から、悩ましげにそう返ってきた。
「目の下に酷いくまが出来ちゃったから、顔を見せるのが恥ずかしくて・・・・・・」
「そうだったんだ。大丈夫なの? 私も、仕事のストレスとかから、一時期不眠症になった経験があるから、その辛さは分かるつもりだよ。お医者さんには相談した? どうしても眠れないようだったら、睡眠薬を処方してもらった方がいいと思うよ」
「相談はしたんだけど、理由があって、睡眠薬は飲まない方がいいって言われてるんだ」
「理由? どんな?」
「うん、実は、私ね――」
ミカは躊躇うように少し間をおいてから、
「実は、私、妊娠してるんだ」
「妊娠?」
意外な事実に、私は思わず言葉を繰り返すと、
「赤ちゃんができちゃったってこと?」
「うん、今、三ヶ月目くらい」
「そっか・・・・・・、妊娠しちゃってたんだ・・・・・・、それで、最近ずっとオフラインのままだったんだね。とりあえず、祝わせてもらうよ。おめでとう、ミカちゃん」
「うん、ありがとう」
「それで、相手は誰なの?」
「私が勤めてるIT企業の先輩なの。去年のクリスマスに、彼から告白されてつき合いを始めて、先月プロポーズされたんだ」
「できちゃった婚ってこと?」
私は驚きを示しつつ、
「こう言うとちょっと失礼かもしれないけど、ミカちゃんって可愛いけど、奥手そうだから、恋人はいないっていうイメージを勝手にもってたんだけど、まさかできちゃった婚とはね。
何か、色々と先越されちゃった気分」
「ウサギさんも、素敵な女性なんだから、すぐにいい男性が見つかるよ」
「だと、いいんだけどね・・・・・・、物書きなんて仕事してると、こうやって部屋にこもりっぱなしでいることが多いから、中々出会いなんて巡ってこなくて・・・・・・、って、こんなおめでたい時に、愚痴なんて聞きたくないよね。それで、式の日取りはもう決まってるの?」
「うん、今年の六月に挙げるつもり。だけど、相手方の都合があって、内輪だけの小さい式にするつもりだから、《ホーリーノエル》の皆は招待できそうにないんだ。ごめんね」
「ううん、気にしないで。できれば参加して、ウェディングドレス姿のミカちゃんを見てみたい気持ちは確かにあるけど、無理して招待させようなんてつもりはないから。お祝いのメッセージを送ったりだけにしておくからね」
「ごめんね」
ミカはもう一度謝ってから、
「それと、これから色々と忙しくなりそうだから、こうやってウサギさん達とお喋りしたりはできなくなると思う。《リゼルヴィア》も引退するつもり」
「そっか。ミカちゃんがいなくなるのは残念だけど、気にしないで。式だけじゃなくて、妊娠もしてるわけだしね」
私は返してから、
「ところで、もう一つ質問があるんだけど、聞いてもいいかな?」
「うん、何?」
「男の子でも、妊娠って、できるの?」
私のその問いに、ミカはすぐには答えなかった。
しばらくの沈黙が続いた後、「・・・・・・どういう意味・・・・・・?」ぼそりとミカが問い返してきた。
それまで柔らかかった口調が、少々険を含んでいる。
「そのままの意味だよ」
私は努めて冷静に答えた。
「ミカちゃん、本当は男の子なんだってね」
「・・・・・・どうして、そう思うの?」
「実は私は、前々から色々と気になることがあって、ミカちゃんには悪いけど、少し調べさせてもらったんだ。ミカちゃん、ほんとは男の子で、高校は男子校に通って、卒業の後、性転換手術を受けたんだってね」
ミカが答えるのを待ったけれど、沈黙が続くだけだったので、私はかまわず先を続けた。
「《エアフリ》のビデオ通話でブラウザに映るミカちゃんって、どう見ても可愛いらしい女の子にしか見えないから、他の皆もそうだろうけど、すっかり騙されてたよ。
仕草なんかもそうだし、声は女の子にしては少し低めのハスキィボイスだけど、そういった女の子もそう珍しくはないし、裁縫やヘアピンを蒐集してるっていう趣味もそう。
それに、本名は偽っていなかったみたいだけど、それも、男の子としては珍しい裕美って名前だったからね。最近テレビで、女の子より女の子らしい男の子なんていう芸能人が出てきて話題になったりしてたけど、ミカちゃんも、まさにそんな感じだったな」
「・・・・・・」
それにもミカは答えない。ただ、回線を切ろうとはしないみたいだ。
「話したくはないみたいだから、私が気になっていることを、勝手に喋らせてもらうね。私、今週の月曜日に、出版社の人との打ち合わせで、新宿にいく機会があったんだけど、その打ち合わせの後、街中で、髪型こそ前と違っていたけど、死んだはずのチェシャそっくりな女性を見かけたんだ。
実は私、チェシャ――都野國屋アリスのことを、《ホーリーノエル》に加入する前から知っていて、どんな容姿をしてるのかも知っていたの。
それで、どういうことか知りたくて、その女性の後を、こっそりつけてみたら、入ったコンビニで、店員さんに尋ねられて答えた時の彼女の声が、私がよく知っている女性のものとそっくりだったの。それって、誰のことだと思う?」
「・・・・・・」
当然のように、ミカからは何も返ってはこない。
「それはね、ミカちゃん、あなたなの。その時、私の中で、それまでに抱いていた幾つかの疑問をまとめて解消することができる、一つの答えが見つかったんだ」
私はそこで、間を置くように、紅茶を一打ち飲んで喉を潤してから、こう告げた。
「ミカちゃん、都野國屋アリスを殺したのは、あなたね」
「・・・・・・そう考えた理由は?」
ようやくミカが答えを返した。
ただ、いつもの優しげな口調は完全になりを潜めている。重く、低いトーンで、相手を威圧するような。
私は、動じることなく先を続けた。
「まず、私がそれまでに抱いていた幾つかの疑問についてから話させてもらうね。一つ目の疑問は、私が、《ホーリーノエル》に加入してすぐに抱いたもの。
チェシャが、ミカちゃんを誘って結成したっていう《ホーリーノエル》で、私は、チェシャの名前や年齢、職業、住所なんかが、私の知るアリスと一致していたから、チェシャはアリスなんだろうって思った。
でも、《エアフリ》を使ってのその集いで、チェシャがビデオ通話で話す時の声は、私がそれ以前から知っていたアリスのものと、少し違っていた。その違和感というものが、まず一つ」
「・・・・・・」
「二つ目の疑問も、一つ目の疑問と同時に抱いた。私は、子供の頃からアリスを知っていたけど、アリスは、テレビゲームの類いは一切やろうとしなかった。
彼女が住んでいるマンションの部屋を訪ねる機会も何度かあって、ノートPCをもっていて、ネットに繋げてはいたけど、メールや通販だったりで使うくらいで、オンラインゲームをやっていたりはしなかった。
だから私は、アリス本人に問い質すまでもなく、チェシャが、アリス本人のプロフィールを使って騙られた、別の誰かだっていうことに、その時点で気づいていたの。
それで、何か悪巧みをしようとしてるんじゃないかって疑いながらつき合いを始めたわけだけど、特に私達から個人情報何かを盗み出したりしてどうこうしよう、なんてことは考えていなさそうだから、ただアリスに憧れているファンの誰かの、ちょっとしたお遊びなんじゃないかって、見すごすことにした。
何より、《ホーリーノエル》の集いは楽しかったから、その楽しみが奪われてしまうのは、私自身も嫌だった、っていうのが一番の理由かな」
「・・・・・・」
「三つ目の疑問。それは、アリスが殺された日、《エアフリ》を通じてミカちゃんと話したビデオ通話で抱いた。
私とウルフさんが一緒にレベリングしていた時、オンラインになったミカちゃんが、《エアフリ》のグループ通話に参加してきて、自宅近くにある《Bauhaus》っていうカフェのテラス席にいるってことだった。
それで、私が、今きたところなのかを尋ねたら、ミカちゃんは、一時間くらい前からいて、小説を読みながら、珈琲一杯でねばっているところだって答えた。だけどそれだと、食い違う点が出てくるんだ。
その時ミカちゃんが飲んだ珈琲が注がれているカップからは、仄かに湯気が立っていた。その日は暖かかったから、テラス席の方を選んだって話してたけど、いくらいつもより暖かかったとしても、二月下旬の外気に一時間くらい晒されていた珈琲が、まだ湯気を立てているなんてあるわけないよね」
「・・・・・・」
「『言葉には気をつけよ。悪い言葉はすぐに口をすべる。ああ神よ、誤解です、と嘆いても、彼の者は悲しみ立ち去りゆく』」
私が突然、独白するように語ると、ミカが、
「・・・・・・何、それ・・・・・・?」
「知らない? リストの『愛の夢 第三番』の歌詞の一部よ。愛について説く歌で、言葉の選択を誤ってしまうと、愛する者が自分の元から去っていってしまう、って意味がこめられているんだけど、どんな時であれ、使う言葉には気をつけた方がいいよね。
言葉の選択を誤れば、相手に誤解を招くことになるし、時には、自分の隠している罪を、白日の下に晒してしまうことにもなる」
「・・・・・・」
「それじゃあ、四つ目の疑問を挙げるね。その四つ目の疑問も、その時のビデオ通話で抱いた。ミカちゃんは、それまでのビデオ通話で、いつも趣味で集めてるヘアピンを嵌めていたのに、その時だけはそうしていなかった。
そのことを尋ねられて、ただ忘れていただけ、みたいに答えていたけど、髪を櫛でとかしてちゃんとセットしてあるのに、いつも嵌めてるヘアピンを忘れるなんて、私には考えにくかった。
そうしなかったのは、アリスを殺害する時、もし抵抗に遭った場合に、それが外れてどこか手の届かないような場所に入りこんだり、その一部が欠けて残ってしまったりするのを避けようと考えてのことだったんじゃないかな」
「・・・・・・」
「五つ目の疑問。その疑問も、その時のビデオ通話で。ウルフさんが、今日は俺達と一緒にのんびりと話でもしながらすごすか、みたいにチェシャに話しかけたのに、なぜかミカちゃんが答えたことがあったよね?
ミカちゃんは、高校の頃の同級生が連絡をとってきていて、それにメッセージを返しながら話を聞いていたから、自分が話しかけられたのかと勘違いした、みたいに弁解したけど、そうだとしても、その答えとして、『そうしたいところ――』っていうのは、不適当だったんじゃないかな。
その後、友人を自宅に招待しているチェシャだったら、『そうしたいところなんだけど――』なんて答えるかもしれないけれど、ミカちゃんは、その後も私達と《リゼルヴィア》をプレイしていたわけだからね」
「・・・・・・」
「六つ目の疑問。その疑問も、その時のビデオ通話で、だった。サークルの集会から戻ってきたマシュー君が、《エアフリ》のブラウザに映るミカちゃんの背後に停められていた車に、彼の大のお気に入りのニュースキャスター矢坂穂奈美が乗ったって騒ぎ出したことがあったよね?
その時、私は、その車のスモークフィルムに、スカイツリーが映っているのを見て、ミカちゃんに、そのカフェが、スカイツリーの近場にあるのかを尋ねたら、ミカちゃんは、それを認めた。
だけどそうだとすると、おかしな点が出てくるよね。ミカちゃんが住んでいるのは新宿区で、その《Bauhausu》っていうカフェは、自宅マンションの近くにある行きつけのカフェのはずなのに、墨田区にあるスカイツリーが、なぜかその近傍に立っていた」
「・・・・・・」
「それが六つの疑問は、アリスが死んだ後、私の前に、彼女そっくりな女性が現れて、その声を聞いた時に、一つの答えをもって解消されたの。ここからは、憶測でしかない内容がまじっているから、おかしな点があったら、指摘してね」
「・・・・・・」
「ミカちゃん、あなたはおそらく、性同一性障害で、子供の頃から、女性になりたいっていう願望をもっていた。そして、男子校を卒業した後、性転換手術を受けて、その願いを叶えた。だけど、アリスっていう特別な存在を知ってしまったことで、それだけじゃ満足できなくなってしまった」
「・・・・・・」
「華やかな舞台の上で主演女優を華麗に演じるアリスを見て、ミカちゃんは、彼女に自分の理想を見た。そして、彼女のようになりたいっていう願望が日増しに強まり、ついには、彼女を消して、彼女になりかわりたいとまで考えるようになった」
「・・・・・・」
「そうしてミカちゃんは、その自分の願望を叶えるために、アリスを殺す計画を立てて、それを実行に移す決意を固めた。
殺害現場に残っていた二人分の珈琲は、アリスとミカちゃんの分だろうけど、どうやって自宅を自然に訪ねる仲にまで親しくなったのかについては、ミカちゃんが性同一性障害っていうことが、そのきっかけになったんじゃないかな。
アリスは子供の頃から、自分が興味をもったことを、とことん追求する完璧主義者だった。
だから、最初のアプローチはミカちゃんからだったんだろうけど、そんな珍しい症状をもつミカちゃんと繋がりをもつことも、芸のこやしになるだろうって考えて、つき合いを始めた。
普通には中々知ることができない、辛い経験や苦悩についての生の声を、色々と聞いてみたいって風にね。ミカちゃんも、そういうアリスの性格をある程度掴んでいたから、それを利用して、徐々に距離を縮めていった」
「・・・・・・」
「そして、アリスとの仲を深めたミカちゃんは、アリスの自宅マンションの部屋を訪れて、彼女が二人分の珈琲を淹れている時、その隙をついて背後に迫り、隠し持っていたハンマーで殴り殺した」
「・・・・・・」
「アリスを殺した後は、主演女優の座を奪われて、アリスに憎しみを抱いていた白鞘さんが使っていたピアスの片方を、彼女に疑いが向けられるように、その場に残しておいた。そのピアスは、白鞘さんが捨てようとしたのを、ゴミとして回収される前に、こっそり自分のものにしておいたのかな」
「・・・・・・」
「それ以外にも、アリスが使っていたノートPCのデータを完全削除しておいたりもしたんだろうね。そうしておかないと、《エアフリ》をアンインストールしたとしても、そのデータがどこかに復元できる状態で残っていたとしたら、そのアリスとチェシャとが別人だっていうことがばれちゃうからね。
そのことで引っかかりを覚えられたとしても、PCを、廃棄や譲渡、売却なんかする前に、情報漏洩を防ぐ意味でそうされることはよくあることだし、ピアスっていう有力な物的証拠がある以上、それで自分が怪しまれるまでにはならないだろうって考えた」
「・・・・・・」
「それらの犯行を終えた後は、誰の目にも触れられないように部屋を出て、マンションを離れた後は、そこから近いところにあるカフェ《Bauhaus》にいった。アリスの住んでいたマンションは、管理人室はあるけど、誰かが常駐してるわけでもないから、出入りを監視されてしまう危険性もなかった」
「・・・・・・」
「アリスを殺した時、白鞘さんに、他の人と一緒だった、みたいなアリバイがあるとまずいことになるわけだけど、白鞘さんは、ブログをやっていて、そのブログで、休日の日は一日中自宅で映画鑑賞に没頭してるってことを載せていたみたいだね。
私も、その彼女のブログを読んでみたんだ。アリスが殺された日の午前中にも、ブログの更新があって、『今日も一日、映画三昧するつもりだよ』っていう書きこみがされてるのが過去ログに残ってたよ。ミカちゃんはそれを見て、計画通りに進められるって考えたんじゃないかな」
「・・・・・・」
「ここから先を話す前に、ミカちゃんが立てた計画で、一番重要だったトリックについて触れておくね。《ホーリーノエル》は、チェシャがミカちゃんを誘って結成されたコミュニティってことだったけど、そのリーダーのチェシャは、実はミカちゃんが演じていた架空の女性だった。
どうやって二人一役を演じたかについては、ネット上で配布されたりもしている、リアルタイムボイスチェンジャーアプリを使ったんじゃないかな」
「・・・・・・」
「それについても少し調べてみたんだけど、今のボイスチェンジャーアプリは、かなり高性能らしくて、微調整すれば、色んなタイプの合成音声を作り出すことができるらしいね。
ミカちゃんは、《エアフリ》で私達と会話する時、そのアプリを使って、自分の声と、加工された音声の二つを、スイッチで切り替えながらマイクに拾わせて、ミカちゃん自身とチェシャの二人一役を演じていた。コンピュータープログラマーのミカちゃんならではの発想ってところかな。
ただ、さすがのミカちゃんも、本物のアリスそっくりな声にするのは無理だった。だとしても、私達が警察から事情聴取を受けた時に、その声までは照合しようとしないはずだから、特に問題はないって考えたのかな。
いつも、お手製だっていうマスクを嵌めていたのも、チェシャとして話す時に、口元の動きがばれないようにするためで、飴を舐めていたのも、マスク越しに口を動かしているのが分かったとしても、違和感を抱かせないようにって考えてのことだったんだね」
「・・・・・・」
「ビデオ通話に映るミカちゃんは、PCを二台同時に操作するような素振りは見せていなかったから、一台でそうしていたのかな。それについても少し調べてみたんだけど、《エアフリ》って、ちょっと設定とかが難しかったりもするけど、一台のPCで、複数のブラウザを同時に動かすこともできるらしいね」
「・・・・・・」
「それじゃあ、話を元に戻すね。そうして、アリスの部屋での犯行を遂げて、その近場にあるカフェにいったミカちゃんは、まずミカちゃん自身としてインして、私達のグループ通話に加わった。
テラス席を選んだのは、本当は、外が暖かくて――って理由じゃなくて、店員さんに、なるだけ顔を覚えられたくなかったからなんじゃないかな」
「・・・・・・」
「そして、その時、さっき挙げた三つ目と四つ目の疑問を、私に抱かせてしまうことになった。
珈琲の湯気に関しては、いつも通りに振る舞っているように見えたけど、殺人っていう重い罪を犯した後で、気が動転していて、さすがにいつもの冷静なミカちゃんではいられなかったってことかな。ヘアピンについても、用心深くなりすぎたってところだね。
「・・・・・・」
「そうした後は、今度は、それまで私達が欺いていたように、もう一つの《エアフリ》を起動させて、チェシャとしてもインして、グループ通話に加わった。
そうやって、私達に、チェシャと名乗っている都野國屋アリスが、まだ生きていて、ミカちゃんは、新宿の自宅マンションから近いところにあるカフェにいると思わせようとした。
「・・・・・・」
「ただ、それまで半年近くも、そうやって、自分とチェシャっていう架空の女性の一人二役を演じきって、私達を欺き続けていたミカちゃんだったけど、その時一度だけ操作ミスをしてしまって、私に、五つ目に挙げた疑問を抱かせてしまうことになった。
チェシャが答えるはずの場面で、ミカちゃん自身の声で答えてしまうというミス。それもやっぱり、殺人を犯した後で、冷静じゃいられなかったってことなのかな」
「・・・・・・」
「そういうやり方で、ミカちゃんは、アリスが殺害された時の自分のアリバイを成立させようとした。実際には、チェシャはミカちゃんが演じていただけで、その時既にアリス本人は、ミカちゃんの手で殺されていたわけだけどね」
「・・・・・・」
「だけど、その後で、サークルの集まりから戻ってきたマシュー君が、矢坂穂奈美がいたった騒ぎ出したせいで、そのカフェが、新宿区にあるミカちゃんの自宅マンションの近くにあるはずなのに、実際は、アリスが住んでいる墨田区の近くにあるってことが、スカイツリーの存在で明らかになってしまった。
私が六つ目に挙げた疑問のことだね。それが、ミカちゃんに疑いを向けるきっかけになった、一番の要因かな。その時は、深く追求はしなかったけどね」
「・・・・・・」
「ミカちゃんは、それらの計画を実行に移すために、《リゼルヴィア》のコミュニティ《ホーリーノエル》を、チェシャというハンドルネームを使っている都野國屋アリスが、ミカちゃんを誘って結成したっていう設定で、立ち上げた。
私達、他のメンバーは、その《ホーリーノエル》の一員となったことで、まんまと殺人のアリバイ作りに一役買わされたってわけだね」
「・・・・・・」
「チェシャが、私と同じように、ビデオ通話で自分の顔を他のメンバーに明かさなかった理由も、それで納得がいく。チェシャは、ミカちゃんが演じているだけの架空の存在だったんだから、顔が出せるわけがないもんね。
顔写真を手に入れてそれを映すこともできただろうけど、それだと、直に顔を合わせて会話してみたいなんて頼まれた時何かが色々と面倒だもんね。
そうしなくても、都野國屋アリスなんて名前の同姓同名が他にいるわけはなくて、職業や年齢、正確な住所も、実在する都野國屋アリスと同じにして明かしていたわけだから、殺されたチェシャが、同一人物として扱われるようになるのは間違いなかった」
「・・・・・・」
「チェシャが、《リゼルヴィア》を引退したっていうのも、一台のノートPCで、二人同時にキャラクターを操作するのは無理だったからじゃないかな。
システム的にはできないこともないらしいけど、そうしたとしたら、そういった操作をしているのがばれちゃうだろうし、一人で二人のキャラクターを操作しているのが分からないように、《リゼルヴィア》のゲーム上で見せるのは、たぶんどれだけ凄腕のゲーマーでも無理だろうからね」
「…………」
「ウルフさんが、チェシャが飼っている愛犬のコジロウに、手作りの革製首輪をプレゼントした件だけど、チェシャがウルフさんに教えた住所は、私が知っているアリスの住所と同じだったから、アリスが住んでいたマンションの部屋に届けられるようになっていたのは、疑いようがない事実。
でも、ミカちゃんは、アリスが劇団の公演や稽古とかで、部屋を長く留守にしている時間帯に郵送してもらうようにウルフさんに伝えて、メール便とかで送られてきたそれが、受取人不在で、マンションの玄関口にある集合ポストの中に収められるようにしたんじゃないかな。
あのマンションの集合ポストには鍵がかかっていないから、ミカちゃんは、アリスが使うポストに収められていたそれをこっそり回収して、自分からのプレゼントとしてアリスに贈った」
「…………」
「チェシャは、ビデオ通話で、ブラウザの自分の枠に、そのウルフさんからの誕生日プレゼントとして贈った革製首輪を嵌めているコジロウの写真を使っていたように見せていたよね。
その写真は、その写真データをアリスから貰ったか、プレゼントとして渡す時にそれを嵌めたコジロウを、自分の携帯のカメラで写したりしたものを使ったんじゃないかな」
「…………」
「ミカちゃんが、アリスそっくりになった件についてだけど、ミカちゃんとアリスは、背格好はほとんど同じに見えたし、顔の造りも似通っているところがあったけど、あそこまで瓜二つに似せるための手術には、相当費用がかかったんだろうね。
貯金を叩いたのかな。それとも、借金したりしたのかな。なんにせよ、アリス本人の死が公になっている以上、働いている職場にもいられなくなっただろうから、その代償は大きかったはずだよね」
「…………」
「何でそこまで複雑な計画を立てたのかだけど、それについても、私なりの見解があるの。白鞘さんに容疑を向けるための証拠を残すだけでよかったような気もするけど、それだと都合が悪い点が出てくる。
犯行時に、手袋を嵌めたり帽子を被ったままでいるのは、相手に警戒されてしまうわけだし、そうしたところで、毛髪とか皮膚片とかの、自分に容疑が向けられることになる可能性のあるものが、その部屋に残ってしまうのを完全に防げるってわけでもない。
だから、自分に疑いが向けられることになった場合の対策として、《ホーリーノエル》を利用することで、実在するアリスを殺した後に割り出されるはずの死亡推定時刻には、自分には犯行が無理だったっていう確たるアリバイを作り上げようとした」
「…………」
「だけどそれは、策士策に溺れたってところかな。そのことが原因で、アリバイを作るために利用した私に、自分が犯人であることを覚られてしまったんだもんね」
「…………」
「これまでが、私がした推理。ミカちゃんが吐いた嘘の中には、それが嘘だと確実に分かっているものもあるけど、それが確かな証拠になるわけでもないだろうし、憶測の部分に、事実とは違う点も幾つか混じっているかもしれない。
でも、私は、ミカちゃんがアリスを殺した犯人っていうのだけは、間違いのない事実だって考えてる」
「…………」
沈黙を貫くミカは、ディスプレイを前に、どんな表情を浮かべているんだろう。あのいつもの柔らかくて優しげな顔は崩れ去り、憎々しげに睨みを利かせているのかもしれない。
私は、ゆっくりと紅茶を口に運び、長広舌を繰り返して乾き切っていた喉を潤し、一つ息を吐いてから、
「私は、今話したことを警察に届け出たりしていないし、これからもそうするつもりはないの。だから、ミカちゃんがそのことを自分から話そうとしない限り、真実が明らかになることはないと思う。
でも、アリスを殺した容疑者として拘置所に入れられている白鞘さんは、このままいくと、冤罪で死刑にはならなくても、残りの一生のほとんどかそのすべてを、刑務所の中ですごさないといけなくなるでしょうね。彼女のためにも、そして、ミカちゃん自身のためにも、自首することを勧めるわ」
「……………………………………」
これまでで、一番長い沈黙が続いた。
壁にかけている時計の秒針がカチカチと動く音が、やけに大きく私の耳朶を打った。
沈黙を破ったのは、今度も私からだった。
「こうやって、《エアフリ》を通じて会話することも、一緒に《リゼルヴィア》をプレイすることももう二度とないだろうから、最後に、一つだけ気になっていることを聞かせてもらうね。
ねえ、ミカちゃん。相坂裕美として生きてきた二十七年間の過去を忘れて、色んなリスクを背負いながら、強く憧憬の念を向けていた都野國屋アリスに生まれ変わったのって、どんな気持ち?
私も、アリスには少なからず憧れをもっていたから、殺してまで彼女になりかわろうとしたミカちゃんの気持ちを、少しは理解してあげられるかもしれないよ」
再び落ちる重い沈黙。
私は、窓外に映る闇空に、ぽつんと寂しげに浮かんでいる三日月を眺めながら、応えが返ってくるのを待った。
その、白くほっそりとした弓のような三日月が、どこからか忍び寄ってきた雲に塗り潰されそうになった時、
「・・・・・・さよなら・・・・・・」
掠れていて、聞きとるのがやっとなくらいに儚げな囁きが、スピーカーから洩れてきた。
短く別れを告げると、ミカは、それ以上なにも言葉にしないまま、自ら回線を切った。
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