第十二話 ねんねんころり

「……高木さん」

「はい、なんですか?」

「僕は、どうしたらいいんですか?」


 胸の奥がざわざわする。

 僕の心はもうボロボロだ。

 たった一日の間に、いろんなことがありすぎた。

 何も考えられない。

 何も考えたくない。

 どろどろの思考を巡らす度に、脳が悲鳴を上げる。

 一つ考察を掲げる度に、数多の鎖が僕を締め付ける。


 もう、何もかも、嫌だ。


「まずは、体の栄養補給からですねー」


 高木さんは、僕の右手を優しく掴み、銀色のスプーンをあてがう。

 僕より一回り大きい手を、拳を作るようにそっと包み込んだ。


「食べないと、元気出ませんよ?」

「……食欲、ないです」


 お腹は空いている。朝から何も食べていないから。

 でも、最早手を動かす気力さえ、残っていない。

 何もしたくない。


「お腹が満たされると、気持ちも自然と満たされていくものですよー」


 高木さんは箸を持ち、一度トレイをとんと叩いて先端を揃える。鮭の身を器用にほぐすと、少量僕の口に運ぶ。


「はい。あーん」

「…………」


 ぱくり。

 薫り高い鮭を、ゆっくりと歯ですり潰すように咀嚼する。

 じわりと口に広がる鮭の旨味。そこに紛れ込む、患者の為に分量が計算され、ほんのり効いた塩の味。

 美味しい。

 こんな心情でも、ご飯は食べられるものなのか。


「時間はたっぷりありますよ。焦らなくていいですからねー」


 そう言いながら、高木さんは箸で一口分の白米を取り分けた。






「これが最後の一口ですよー」


 スプーンに乗ったゼリーが僕の口に運ばれる。

 結局、僕は昼食を完食した。食欲がないとはなんだったのか。

 いや、食べる気力がないのは確かだった。箸、フォーク、スプーンを細かく使い分け、少しずつ運んだ高木さんの努力が無ければ、本当に一口も食べなかっただろう。


「では、次は何をしますか?」


 トレイを手に持ち、ベッドテーブルを片付け、高木さんはすっくと立ちあがる。


「何を……って?」

「せっかく二人でいるのですから、本を読む以外にも、出来ることがあるでしょう?」


 ワゴンにトレイを乗せ、高木さんは僕の隣に戻ってくる。

 そういえば、篠宮さんを連れてきたとき、似たようなことを言ってたっけ。本を読んでも感想を言う相手がいないとか、なら別の事をすればいいとか。


「……篠宮さんの代わり、のつもりですか?」

「はい。私にできることなら、何でも言ってくださいねー」


 高木さんは、また、別の誰かに成り代わろうとしている。

 人に代わりなんていない。高木さんは篠宮さんにも、神原さんにもなれないのに。


「……高木さん」

「はい、なんですか?」

「ワゴン、返しに行かなくていいんですか?」

「…………」


 高木さんは斜め後ろに振り向く。

 一人分のトレイをのせたワゴンが鎮座している。


「失念していました」


 高木さんは神原さんと比べると、やはり少し抜けているところがある。


「僕、寝ます。疲れてるので。だから、その間に行ってきてください」

「いいんですか?」

「その間に、他に出来ることもしておいてください。トイレとか、お風呂……はまだ使えないかもしれないですけど」

「……はい。お気遣い、どうもありがとうございます」


 高木さんは少し逡巡してから、僕の提案を素直に受け入れた。

 高木さんは、基本的には物腰が柔らかく、どちらかと言えば聞き分けがいい。


「では、寝るまでは傍に居させてもらいますね。子守歌でも歌いましょうか?」

「いえ、大丈夫です」


 もやもやと曇った心はまだ晴れない。

 ただ、一つだけ分かったことがある。

 高木さんは僕の敵ではない。


 表面上は。


 食事でほどよく温まった体に掛布団を羽織り、目を閉じる。

 僕の意識がベッドの奥に深く沈んでいく。


 ずっと目を瞑っていたい。

 ずっと夢を見ていたい。

 そんな子供のようなことを、ぼんやりと考えていた。







 真っ暗だ。

 目を凝らしても、何も見えない。

 僕は立っている。

 立っているから、とりあえず歩いてみる。

 歩く。

 歩く。

 どれだけ歩いても、延々と続く闇の中から一向に抜け出せない。本当に進んでいるのか怪しくなる。僕がどこにいるのか、本当にここに立っているのかさえ、自信が無くなってくる。僕なんて、どこに立っていようが、一緒だと思う。


「しじょうくん」


 声が聞こえる。

 夢にまで見た声。


「篠宮さん?」


 声の元へ振り返る。

 相変わらずの真っ暗闇。

 でも、確かに声が聞こえた。

 僕の冷え切った心に熱が灯る。


「しじょうくん」

「篠宮さん!」


 そこに、いる。

 ここがどこか、僕がどこにいるか、そんなことは些細な問題だ。篠宮さんがここにいる。それが確かなら、他にはなにも必要ない。


 真左から、光が差し込む。

 驚いてそちらを向くと、緑のフェンス越しに、登っていく太陽が見える。

 闇が晴れる。夜が明ける。

 ここは屋上だ。


「しじょうくん」

「篠宮さ――」


 全てが平等に照らし出された世界の中で、僕は篠宮さんの方へ視線を戻す。



 篠宮さんはまっすぐ立っている。

 黒い髪に混じる紫の差し色。どんな言葉でも形容できないかわいい顔。紺色の制服。慎ましい胸。短めのスカート。スレンダーな脚。


 僕の方に伸ばした左腕。大きく広げた左手。


「あ……ああ……」


 それだけ。

 左右非対称な、人間にしてはあまりにアンバランスな造形。

 右腕があるはずの場所には、なにもない。


「しじょうくん。たすけて」


 一歩、篠宮さんが踏み出す。

 踏み出す度に、きれいにその先が切断された右肩から、ポンプで押し出されるように、どばっと赤いものが流れ出る。


「いたい」


 びちゃ、びちゃ。

 ぽたり、ぽたり。

 コンクリートの床が真っ赤に染まる。

 ぐちゃっと赤い水溜まりを踏みつけながら、篠宮さんは僕に、助けを求めて左腕を伸ばす。


「いたいよ」


 体が動かない。

 金縛りにあったように、篠宮さんから目が離せない。


「いたい、いたい、いたいいたいいたいよいたいよいたいよいたいよいたいよ!!」


 突っ立ったまま動けない僕の元に、じりじりと、篠宮さんが詰め寄ってくる。


「どうしてたすけてくれないの?」


 叫ぼうとした。

 意味のない言葉をぶちまけようとした。


 声が、出ない。


「いたい、いたい、いたい! いたいよ、いたいよ、いたいよ!!」


 びちゃ、びちゃ。

 ぽたり、ぽたり。

 ぴちゃん。

 コンクリートに透明な液体が一滴落ちる。

 それを皮切りに、篠宮さんの目から、透明なものが次々と溢れ出る。

 だらだらと滝のように涙を流しながら、篠宮さんは僕を悲しそうに見つめる。


「どうしてたすけられないの?」


 篠宮さんの左手が、僕の顎に添えられる。

 篠宮さんの匂い。

 赤く充血した瞳に僕の顔が反射する。


 半透明で、背景の透けた僕の顔。

 本当にここにいるのか定かでない僕の身体。

 どこにいても変わらない、無価値な僕。


「こころが痛い」


 篠宮さんは在るか無いかも分からない僕の顔に、ぐっと近づく。

 そのまま、僕の頬に、そっと唇を近づける。触れたのか、触れられないのか、僕にも分からない。

 篠宮さんの唇が、小さく震えながら、言葉を紡ぐ。


「となりに居たいよ」







「うわあああああああああああっ!!」


 どくん!!!


「はぐううっ!!ごおあっ、ぐ、が、ああっ」


 口元に冷たい感触。

 呼吸器だ。


「四条さん、落ちついて」

「うーっ、ううっ」


 どくん、どくん!


 高木さんは右手で呼吸器を持ちながら、左手を僕の右手に絡める。


「大丈夫です。大丈夫ですよ。私がここに居ます。ひとりぼっちじゃありません」


 どくん。


 高木さんの柔和な笑顔。

 誰もが暖かい気持ちになる、平和な笑顔。


「だから、安心してくださいねー」


 …………。


 6年も僕の世話をしている高木さんは、僕の扱いをよく分かっている。

 僕の発作が治まったのを見て、高木さんは呼気で曇った呼吸器を外した。


「……今、何時ですか」


 妙にリアリティのある夢から逃げるように、現実を探す。

 首を左に回し、時計を見る。

 7時46分38秒。

 今はとにかく、別の事を考えたい。


「もうお夕食の時間ですよー。今すぐ食べますか?先にお風呂に入りますか?」


 ご飯、お風呂と来たら、次は、それとも――と続くのがテンプレート。篠宮さんはともかく、高木さんにそんな趣味はないか。


「それとも、私と何かしますか?」


 ……まあ、たまにはこういうこともある。


「何かって、なんですか?」

「私にできることなら、なんでもしますよ」


 頼めば、『そういうこと』もするのだろうか。

 なんておかしなことを考えてしまうのは、寝起きの頭だからだろうか。


「私も、篠宮さんと同じ女性です。女性にしかできないことも、頼んでいいんですよ?」


 …………は?


「冗談は止めてくださいよ。あんまり、面白くないです」

「本気ですよー。例えばそうですね。脱げと言われれば脱ぎますよ」

「じゃあ脱いでください」

「はい」


 僕は百パーセント冗談のつもりだった。

 高木さんは何の躊躇いもなく、桃色のナース服に手をかけた。


「わーっ!? ちょっと! ストップストップ!」

「はい? 遠慮しなくていいんですよ?」

「脱がなくていいです! 僕が悪かったですから!」

「ふふ、四条さんは恥ずかしがり屋さんですねー」


 高木さんが手を離したのを見て、僕は胸を撫で下ろす。危うくまた発作を起こすところだった。


「……おかしいですよ。なんでそこまで身を削るんですか?」


 僕なんかの為に。

 最後の一言は、噛み殺した。


「元を辿れば、私の責任ですからねー」


 高木さんはいつも通り笑っている。

 その裏に隠れているものを、高木さんの言う『覚悟』を、僕は知らない。


「篠宮さんは、少し頭の回転が遅いところはありますが、明るくて、元気で、良い子です。たまたま入院期間と神原さんの出張期間が重なっていたので、四条さんに会わせるにも丁度いいと思っていました。その私の認識の甘さのせいで、四条さんと篠宮さん、二人とも危険に晒してしまいましたね」

「そんなの、結果論じゃないですか」

「はい、結果論ですよー。そして、その結果を事前に予測できなかった私のミスです」


 高木さんは目を伏せる。

 顔を上げ、次に目を開けた時、高木さんは別人になっている。

 今日まで知らなかった、高木さんの裏の顔。

 保母さんのような温和な顔の裏にある、秘書のような清廉な顔。


「看護師が患者を危険に晒すなど言語道断です。医療に携わる者として、患者の行動は予測せねばなりません。怪我での入院でも、環境の変化等で精神面が不安定になる場合も多いのですから。患者が勝手にやった、では済まないのです。予測が出来ないのなら、四条さんの元に篠宮さんを連れてくるべきではなかった」


 強固な意志が、言葉に乗ってバチバチと伝わってくる。

 僕が何を言っても揺らがない、真っ直ぐな芯の強さ。


「私は全霊を以って、犯した罪を償わなければなりません。ですが、命の危険と等価になる償いなど、この世に存在しません。私には、可能な限り、最善を尽くす義務があります」


 高木さんと僕の、明確な差を垣間見る。

 高木さんが持っていて、僕が持っていないもの。

 現実を直視し、正面から向き合う覚悟を。


「……その覚悟は、どこから来るんですか」


 僕にも、高木さんと同じように、できるのだろうか?

 僕なんか、にも。


 高木さんが力を抜く。

 再び作り直した笑顔は、どこかぎこちなく見えた。


「私は神原さんから、あなたの命を預かったんですよ」


 高木さんは、神原さんの事を話すときだけ、本当の感情を表に出してきた。普段の大らかな態度にも、裏の理性的な言動にも、高木さんの本心は見当たらない。いや、あの暖かい高木さんが全てで、神原さん絡みで弾ける方が特異なのだと思っていた。

 僕の腕を掴んだ時の、本気の怒りを見るまでは。

 高木さんだって人間だ、感情がないわけがない。ただ、普段は押し隠しているんだ。神原さん絡みの時だけ、隠しきれずに表に出るんだ。

 この苦笑いに含まれているのはたぶん、罪悪感とか、そういう類のもの。


「私はその任を果たせませんでした。お二人だけでなく、神原さんの分も、償わなくてはいけません。私がどれだけ身を削ったところで、まるで足りませんよ」


 かっこいい。

 まるで子供みたいな感想だ。

 高木さんは僕なんかよりずっと大人で、ずっと多くの事を考えている。とにかく篠宮さんと会うことしか頭になかった、僕なんかより。


 いつからだろう。

 泥沼ラプソディエの話をしている時は、こうじゃなかったはずだ。あの時は確かに、泣いていた篠宮さんが元気を取り戻すことだけを考えていた。

 僕がこんなに身勝手で独りよがりな想いを抱くようになったのは、いつからだ?


 その自己中心的な想いを恋と呼ぶのなら。

 恋なんて、一生知らなければ良かった。

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