第17話 遭遇③

こいつはさっき出会ったやつとは違うやつだ。そう一目で分かった。

 先ほどのサイクロプスは木の中ほどまでしかなかったが、このサイクロプスは低いコナラの木のてっぺんまで頭が届きそうだ。おそらく十メートル近くあるのではないだろうか。

 持っている武器も棍棒ではなく石斧だ。石斧というよりも巨大な石を木の幹に乱暴に括り付けただけの鈍器ともいえる。けれど、棍棒にせよ石斧にせよ当たれば確実に死ぬという点では大差ない。相手はぼくなど簡単に屠れるのだ。


 最悪だ。

 その言葉しか出てこない。

 村まではもう少しなのに。なんでこんなところで二体目が出てくるんだよ。

 思っても仕方がないことだなんて百も承知だ。けれど悪態をつかずにはいられない。どうしてこう世の中というやつは不条理なんだ。

 もう少しでゴールだと目の前に餌をちらつかせるくせして、いざその餌に手が触れるとなった瞬間に取り上げてしまう。

 光は残らず、後にあるのは絶望だけ。

 全く持って平等じゃないし、不公平の塊だ。

 こんな、こんなことってないじゃないか。


 この森は幼いころから何度も来ている。だから自分が今どこにいるかはある程度分かる。村まではあと本当にもう少しなんだ。ここから村まではあと数分なんだ。

 その数分が今ではひどく遠いものに思える。さっきまでの助かりそうだとほんの少しだけ浮かれていた気持ちは、割れたガラスの欠片を踏み抜いたように粉々になってしまった。


 どうしよう。

 その言葉が頭の中を占領していて、なにも考えられない。

 見つからない。助かる道が。


「私を置いて行って」


 静寂を破ったのは彼女の声だった。それは決意に満ち溢れていて、決定事項をただ述べているだけだった。


「そんなことできる訳じゃないですか!」

「なら他にどうするの」


 彼女はなおも続けて言う。吐息だけが耳に当たる。

 彼女の顔は見えない。


「私を背負ってる以上走れないでしょ。私はこんな足だから走れないし、私が引き付けておけばその間に君は逃げられるかもしれないじゃない」


 それはたしかにもっともで。けれどそれは春の次に冬が来てはいけないように絶対に許してはいけないことだった。

 けれど彼女はそんな僕の心を透かして見ているように念を押す。


「これしかないのよ」


 その声は落ち着いているようだった。納得して、何度も確認して、そしてその上で口に出したのだと言っているようだった。

 けれど、ぼくは知っている。彼女がこんな声を出すときは自分を押し殺している時だと。

 初めて聞いた声色だけど、そう知っている。

 なぜとかそんなことはどうでもいい。

 ただ今大切なのは、彼女の本心はきっと違うということだ。

 彼女が望んでいないことをぼくがするはずなんてないじゃないか。


「絶対にだめです」


 さっきのように慌てた声は出さない。彼女を助けないと、生きて村に返さないと。そう思った瞬間に焦りはなくなった。頭は晴れた。


「じゃあ、どうするのよ。逃げ道なんてないわよ。こんなお荷物を背負って逃げ切れるわけないのよ!」


 今度は彼女が声を荒げてしまった。でも彼女のこんな声を初めて聞いた気がする。ぼくはそれがなんだか嬉しかった。

 こんな絶体絶命の、万に一つも助かる可能性がないような状況なのに変だな。

 大丈夫だ。そう思える。本当に不思議だ。


「大丈夫です。何とかなります」


 心の底からそう思っている。彼女がいれば大丈夫な気がしてくる。


「ぼくに考えがあります。しっかり捕まっておいてください」


「信じるよ」


 少しの沈黙の後に彼女はそう言った。ぼくの服越しに彼女の体温が伝わる。肩を抱きしめる彼女の力が強くなる。力が、わいてくる。

 大丈夫。もう一度心の中で呟く。


 大きく息を吐き、肺の中を空っぽにする。そうしてからなくなった分以上の酸素を取り込む。頭を回せ。考えろ。生き抜くために。彼女の笑顔をもう一度見るために。


 サイクロプスの動きはそう早くない。一番怖いのはその力だ。石斧に直接当たらないとしても、風圧や地鳴りで足を取られれば、それだけでアウトだ。転んで起き上がろうとしている間にもう一撃与えられて、木っ端みじんになってしまう。

 けれど、逆に言えば動きは遅いのだ。

 これほど近づかれはしたものの、サイクロプスの動きがゆっくりだからこそこうして打開策を考える時間があるのだ。

 本気で避けることだけに集中したのなら、なんとか攻撃を避けることくらいは出来るのではないだろうか。ミズノさんを背負っている状態でどこまで動けるかは分からないが、一撃だけなら避けられるはずだ。

 その隙に村に向かって走れば、あるいは。

 たぶんこれが今ぼくにできる最善の手段だ。


 考えがあるなんて言ってなんて浅はかな策なんだろう。こんなもの策でもなんでもないのかもしれない。ただの博打だと言われるかもしれない。

 けれど何の力も持たないぼくに出来る最善の手段だ。

 これしかない。絶対に成功させる。


「ゴアアアアアアア!!!!!」


 サイクロプスが雄たけびを上げる。空気が揺れる。木々が軋む。

 いよいよ攻撃してこようというのだろう。目の前の邪魔な存在を消そうとしているのだろう。

 でもそうはさせない。消えてなんかやらない。


 集中しろ。

 息を吸う。酸素が肺に届く。そして全身にいきわたる。

 目を閉じる。自分の心臓が脈を打つ音が聞こえる。背中越しの命も感じる。

 目を開く。光が差し込む。木の葉が揺れる。サイクロプスの足に力が入る。

 見る。ただ見る。サイクロプスのわずかな動きも逃さないために見る。

 サイクロプスが近づく。一歩。また一歩歩み続ける。

 まだだ。まだ動かない。

 見る。見る。音が消える。

 メジロの鳴き声も、遠くから聞こえていた川のせせらぎも、うるさい程に高鳴ってた胸の鼓動も。サイクロプスの足音も、風がそよぐ音も全部消える。全部消えて視界だけが残る。


 そして最後には藤の匂いだけが残る。


 まだ動かない。まだぼくらは間合いの外にいる。

 サイクロプスの腕の筋肉が隆起する。汗の匂いの染みついた剣道場を思い出す。

 サイクロプスが石斧を振り上げる。竹刀の音が聞こえる。

 サイクロプスが一歩足を踏み出す。あいつの間合いに入る。面越しの景色が見えた気がする。


 全部がスローモーションに見える。一秒が何十秒にも、何分にも引き伸ばされる。

 こんなことが昔にもあった気がする。いつだって相手と向き合ったときはこうだった。

 竹刀が振り下ろされるときは周りの全てが見えなくなって相手の動きがゆっくりになる。

 ぼくが思い出しているこの記憶はなんなのだろう。

 こすれる道着の感触も、汗に濡れた竹刀が手に吸い付いてくるのも、面の汗臭さも。知らないはずなのに懐かしい、その全てがぼくの背中を押してくる。ぼくの力になる。自信になる。

 あの切りあいに比べれば、サイクロプスの動きの方が何倍も遅い。

 避けられないはずがない。


 石斧がサイクロプスの真上にくる。あと数秒後には振り下ろされる。

 ぼくは今、立っている位置から五歩後ろに下がる。それと同時に石斧が振り下ろされる。

 ミズノさんの息をのむ声が聞こえる。大丈夫。心の中で彼女に聞こえるように呟く。

 世界はまるで写真を一枚ずつ見せられているみたいに鮮明に、そして断片的に見える。


 石斧が迫ってくる。風を切る轟音がする。それすらもゆっくりと耳に届く。

 そしてそれは目の前まで迫ってきて。あと何歩か歩けば当たってしまうところまで迫ってきて。


「大丈夫。ここは間合いの外だから」


 そのままぼくらの一メートルくらい前に落ちた。

 途端、地面が割れるかと思うくらいの揺れがぼくらを襲う。地面に落ちていた木の葉が風圧で舞い上がる。その下の土もえぐれる。

 吹っ飛ばされてしまいそうな衝撃が来る。けれど身構えていた。だから耐えられる。


「走ります!!」


 声を張り上げると同時に走り出す。右足に力を込める。ミズノさんも振り落とされないようにしがみつく。

 石斧のすぐ横を通る。大回りはしない。サイクロプスの足元を通り抜ける。

 わざわざ無駄な距離を走る必要はない。一番手を出しづらい場所を最短距離で駆け抜ける。

 サイクロプスのまた下を潜り抜ける。

 背中にサイクロプスがもう一度動き始める気配を感じる。

 けれど振り返ってる暇なんてない。

 ただただ足を回す。来るな。もう攻撃してくるな。

 祈る。

 誰かとすれ違う。


「トーリ。よく耐えた」


 その地面から響いてくるようなどっしりとした声を何よりも心強く思った。その鍛え上げられた屈強な身体はぼくに勇気をもたらした。その人は現れるだけでもう助かったんだという安心感を与えてくれた。


「ノルマンさん!」


 涙が声と一緒にあふれ出た。

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