第3話 レムカの朝②

 朝が終わったといってもまだ日はそう高くない。真上に来るまではあと数時間は必要だろう。それでも朝の一番忙しい時間を抜けたのは事実だ。ようやく朝食にありつける。

 母さんが賄いで作ってくれたサンドイッチにかぶりつく。かりっとこんがり焼かれたベーコンと一噛みするととろけだす半熟の卵が朝の忙しさの中でさえ主張を止めなかった腹の虫を黙らせてくれる。しゃきしゃきのレタスもいいアクセントになっている。母さんの料理を食べたいがために毎朝ここに通うお客さんの気持ちも分かるというものだ。

 しかしあまりゆっくりしているわけにも行かない。朝食の時間帯が終わったとは言え次にはランチタイムが始まる。まだ時間があると高をくくっているとすぐに人が多くないうちにと早めの昼食を取りに来る人たちがきてしまう。


「母さん、今日のランチは?」

「そうだねえ、グラタンにしようかしら」

「わかった」

 まだ熱をもったままのコーヒーを一気に飲み干す。さて、働かないと。



 宿屋から市場まではそう遠くない。市場がある中心地は宿屋がある村の入口、つまり村の一番西からものの数分で着く距離にある。

 丘の上にある宿屋からそれほど急ではない、けれども走れば足が勝手に前に出てしまうくらいの坂を曲がりくねった道のとおりに歩いていく。道のそばにはゆるやかな流れの小川がまるでハミングするように村の真ん中に向かって流れている。二三か月前に降った雪が山の山頂にはまだ残っている。決してこの村は寒いわけではない。むしろ国の中でも寒暖の差が少なく温暖な気候だ。もちろん冬には雪が灰色の厳しい顔をした空からちらちらと降るし、夏になれば元気すぎる日差しがぼくらを責め立てるかのように照らしてくるがそれでも比較的安定した気候だと思う。特に今の時期などは過ごしやすい。まだ太陽も冬のぐうたら暮らしから抜けきれていないのか、眠気を誘う怠けた心地よい陽気が満ちている。こんな暖かな日差しの中で、山からの冷たい雪解け水の中を泳ぐのが気持ちよくてたまらないのか小川でひらひらと揺れる魚たちは追いかけっこをしている。舗装されていないむき出しの街道から見える若々しい緑をたたえた草原にはアネモネの花が辺り一面に咲き誇っている。赤や紫、白に黄色と思い思いにその体を美しく染め上げた花弁の隙間を踊るように何匹かの蝶が優雅に飛んでいるのが見える。


 春はだから好きなんだ。夏のように強烈に訴えてくるわけではないが、冷たい冬を抜けて芽吹き始めた命が自分はここにいるんだと歌っている。何かが始まりそうな、わけもなくスキップしたくなるようなそんなこの季節がぼくは好きだ。


 村の中心に近づくに連れてアネモネばかりだった草原のなかに石造りのこじんまりとした家がちらほらと見え始める。畑の中でふわりとした光に照らされながら額についた汗も気にせずに服を土で汚す人たちの姿も見える。物心ついた時からまるで村の守り神のように荘厳と立ち続けるクスノキを右に曲がって、門というには少々頼りない木製のアーチをくぐるとそこが村の中心地だ。


 中心地と言ってもやはりそこは国境の三方を山に囲まれた小さな村だ。特別なものはなにもない。王都にあるような思わず祈りをささげてしまうような白壁の聖堂もないし、最西端の港町のような活気にあふれているわけどもない。優しい微笑みを浮かべていらっしゃる女神さまの像をぐるりと囲む広場に立ち並ぶ屋台はどれも年季が入っている。軒先に掲げられたのれんは何年前に塗られたのか分からないほどに塗料が剥げてしまっている。村の全員が顔なじみで店の名前などわからなくとも特に困ったことはないからそれでいいのだろうが、新調しようという気は皆さらさらないらしい。


 市場と化している女神さまの広場にぼくの目的地はある。広場を縦断するように流れる小川にかかる橋を渡ってすぐ右手。店先にはまだ土のついたとれたてのジャガイモが顔を出している。


「おうトーリ。今日の魚はうまかったな」

 レジを挟んでヴァルトおじさんが朝食の時と変わらぬ陽気な笑い顔を向けてくる。

「昨日行商の人たちが来て新鮮な川魚を売ってくれたんだ。あんまりここら辺じゃ魚は取れないから次に出せるのはいつになるかわからないけどね」

「まあしゃあねえな。ここの周りは山ばっかだもんな」


 温暖な気候なので作物もよく育ち、山の麓では羊や牛も買われており美味しい肉も手に入るのだがいかんせん魚だけはそうもいかない。雪解け水が地下を通って流れているので井戸に水がなくなることはないが大きな川は流れていない。村を横断するように走っている小川も川幅を広げる前に唯一山に囲まれていない南の森の方へ流れて行ってしまう。山の幸が豊かなこの村だけどどうしても水産物だけはあまりお目にかかれないものになってしまうのだ。


「で、今日はなんか仕入れか?」

「ジャガイモをもらいたいなと思って。昼はグラタンにするつもりだからさ」

「グラタンか、そら旨そうだな」


 まだお昼には随分と早いというのにヴァルトおじさんはすっかりグラタンのことで頭がいっぱいのようだ。よだれを飲み込んだのかのどぼとけが上下するのが目に入った。

 突然気持ちのいい音がしてヴァルトおじさんの頭を平手うちが襲った。


「あんた、まだ昼には早いだろ。ぼんやりしてないでしっかり仕事しな」

「ちょ、分かったから急に叩くないよ!」

 いつみてもテレサおばさんの平手打ちはきれいに後頭部を捉える。もはやほれぼれとするくらいだ。


「おや、トーリ来てたのかい」

「おはよう、テレサおばさん」

 ぼくが挨拶している最中もヴァルトおじさんはずっと頭をさすっていた。よほどきれいに手のひらがあたったのだろう。いい音したもんな。

 いつも大変だねえなんて言いながらおばさんはジャガイモを一個おまけしてくれた。


「まだ学校を卒業してから一年くらいだろう?仕事は慣れたかい?」

「まあね。昔から休日には母さんを手伝って家で働いてたからね」

「トーリは小さい頃から働き者だったものねえ。うちのバカ亭主とは違って」


 もう一つ小気味のいい音が響く。おじさんはほんとに尻に敷かれっぱなしだ。この二人にはぼくがまだ小さい頃からお世話になっているがおじさんがおばさんに何かで勝っているのをみたことがない。噂によればおじさんからおばさんにプロポーズしたそうで、それを村で一番かわいいと言われていたおばさんが受けたのだそうだ。その当時は村のみんながまさかあいつとなんてざわめいたそうだ。可憐なおばさんはいまのどっしりとしたいかにも肝っ玉母さんといった姿からは想像できないけど。


「けど高等学校にはほんとに行かなくてよかったのかい?勉強はできてたんだろう?」

「うん、まあそうなんだけどさ。あんまり興味なかったから」

 ぼくは高等学校に進まなかった。今の時代高等学校に進む人はそれほど多くないとは言え全体の三割程度は進学する。庶民からでも官僚として働くチャンスをつかめるとあって成績が優秀な人たちは高等学校に進学する。ぼくは18歳になったし、もう勉強はいいかなと思い進学はしなかった。先生は進めてくれていたけどなにかが違う気がしたのだ。比較的学校内でも勉強はできる方だったが官僚になりたいという気は全くなかった。

 いや違う。興味がなかったのも事実だけどそれ以上にここじゃないと思ったのだ。なぜだかわからないけどここじゃないとそう思ったのだ。だからぼくは高等学校に行かなかったのだ。けれどそれは今でも胸の中でくすぶっている。

 ここじゃない。ぼくの居場所はこの村で、とても今の暮らしに満足しているのになぜだかその思いは僕から離れていってはくれない。


「まあいいじゃねえか。そのおかげで俺たちがおいしい料理を食べられてるんだからよ!」

 な、と言ってヴァルトおじさんがぼくの顔をのぞいてきた。

 ぼくは暗い顔をしていたのだろう。心配させてしまったかな。春の陽気にこんな顔は似合わない。感謝を込めて精一杯の笑顔を返した。



 市場からの帰り道は結構つらい。来るときは下り坂なので楽にこれるのだが帰りは上り坂だ。いくらそれほど急ではないとは言え、延々と上り坂と格闘するのはこたえるものがある。それにジャガイモと玉ねぎ、それにチーズが入った麻袋もぼくの体力を容赦なく奪っていく。おまけしてもらったとは言え買いすぎたかもしれない。そろそろ力がなくなってきた指をもう一度握りなおす。あと家までは半分くらいだろうか。



 けれどぼくのそんな考えはすぐに消えた。しびれ始めた足の疲れやこれから歩かなければいけない距離を思ってげんなりした心はどこかはるか後方に置き去りにされた。

 その時はアネモネが薫るように揺れていた。

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