第18話 シャリ

 どのくらい眠っただろうか。

 耳元の叫び声で飛び起きた。目を開けると、今度は肩とほっぺたをワシヅカミにされた。一体何が起きたのか?すぐには理解できなかった。あたりはまだ薄暗かった。


 叫び声を上げていたのは、隣で寝ていた燐子である。私の肩とほっぺたに爪を立ててしがみついているのも燐子であった。天と地がひっくり返ったような騒ぎであった。私の寝ぼけた顔がよほど癪に障るのか、燐子は恐ろしい形相で私に食って掛かった。


 「私が恐ろしい目に遭っているのに、よく平気で寝ていられるわね。よだれなんか垂らししたりして」


 「何があったって言うんだ?そんなに取り乱して」


 どうせ蜘蛛かゲジゲジみたいに気味の悪い虫が出た位で大騒ぎしているのだろう、と思ったが燐子の答えは意外であった。


 「幽霊が出たの」


 「幽霊?」


 「本当よ。私のおなかの上に御婆さんがいたの。こんな風に、くら~い顔して」


 燐子はその婆さんの暗い顔を真似てみせた。それは、私を笑わせるためにわざとそんな顔をしているのかと思うほど面白い顔であった。(日本の古典的な怪談やお化け屋敷には必ず出てくる類の無表情さを真似ているのであろうが、鼻がむずむずしてクシャミをこらえている人のようだった)しかし、幽霊の真似を終えた燐子の表情は真剣そのものであった。

 

 眠りに落ちるか落ちないかのまどろみの中、壁伝いに黒い影がス-っと近づいて来るのが見えた。と燐子は話しはじめた。

 その影を見た直後、いきなり背中に氷水をかけられたような寒気を感じた。背中を丸めて毛布に包まろうとしたが、体が金縛りにあって動かない。そうかと思うと動悸が激しくなって耳元でゴ-っという濁流のような音が聞こえ出した。影はいつの間にか燐子のおなかの上に漂っている。私を起こそうとしたが、手が動かせないし声も出ない。やがて影は入道雲のように形を変え、人が正座しているような影になった。そこに老婆の顔がぼんやりと現れた。


 「私に向かって「息子をよろしくお願いします」って言ったのよ、そのお婆さん。そしてその後、アレっていう顔をして「あんただれ?」って私の顔を覗き込んだの。ほんと怖かった」


 「「息子をよろしく」って、君は幽霊が僕の母だったと言うのか?でも僕のお袋は航空券の買い方も知らないんだぜ。そんな人がこんな遠い国の、しかも山奥のホテルなんかにたどり着けるものなのだろうか?」


 「そんな事知らないわ!幽霊になったら飛行機に乗る必要がないんじゃないの?」


 嫌な予感がした。幸い宿の主人は朝早くから起きていたので、念のために電話を借りて(私の携帯電話は市場のトイレで死んでしまっていた)、母の家に電話をすることに下。しかし、何度かけても留守電である。ますます嫌な予感がしたので、母の兄である忠義おじさんの携帯電話にかけることにした。


 「キタオ、一体今までどこにいたんだ?店をほったらかしにして!さっきからお前の家にも何度か電話をしているんだが、嫁か?全然日本語が通じなかったぞ。ちゃんと日本語を教えておかなきゃダメじゃないか」


 おじさんの話は、いつも説教から始まる。普段なら、「はぁ」、とか「そうですねぇ」なんて調子を合わせたりするのだが、忠義おじさんの声がいつもと違う気がして悪い予感がますます強くなった。


 「すいません。今は事情があって家に居ないんです。で、電話を貰ったとおっしゃいましたが、何かあったんですか?」


 「何かあったんですか、なんてのんきな事を言っている場合じゃない。いいかキタオ、何も聞かずに今すぐに帰って来い。会ってから話す」


 「おじさん。ご存知かとは思いますが、僕は日本国内にはいないんです。ヨーロッパのスペインにいるんですよ。電車や車で1,2時間で駆けつけられる場所にいるわけではないんです。ちゃんと事情を説明してください」


 返答までに間があった。受話器から、かすかにおじさんのうなるような、言葉に詰まったような気配が聞こえた。おじさんの眉間にしわを寄せている顔が思い浮かんだ。


 「不運が重なったんだ。いいかキタオ、気を落とさずに聞くんだぞ。お前のお袋さんが亡くなったんだ。詳しい事は会ったときに話す。とにかく葬式に間に合うように一刻も早く帰って来なさい」


 にわかには、信じられない話であった。おじさんに何を聞いても「会ったときに話す」とだけ繰り返して何も説明してくれない。しかし、おじさんはクソがつくくらい真面目で決して嘘をつくような人ではないから、本当に母は死んだのだろう。とにかく一刻も早く日本に帰らなければなるまい。とりあえず飛行機のチケットを確保する必要があった。


 旅行を中止しなければいけなくなった事情を説明すると、燐子は怒り出した。


 「私を置いてひとりで行ってしまうの?」


 「まさか!こんな山奥に君をひとりで置き去りにしたりしないよ。バルセロナまで一緒に帰ろう。僕はそのまま空港に直行だ。葬式を終えたら、すぐに帰って来るよ」


 「私、そんなの嫌だわ」


 「何だよ、そんなのって?」


 燐子はぷいと背を向けてしまった。そして子供のような駄々をこね始めた。

 

 「私はここに残ってまたあの温泉に行きたいの。そして一晩中あの暖かいお湯が出る蛇口の下で夜空を眺めていたいの」


 「無理を言うなよ。また来ればいいじゃないか」


 「じゃあ、私もあなたと一緒にお母さんのお葬式に出る」


 「それこそ無茶だ。そんな事できるはずがない」


 「どうして無茶なの?私を親戚に紹介するのが恥ずかしいの?」


 「そうじゃない。ただ、物事には順序ってものがあるだろう。カルメンと別居している事もまだ言っていないのに、いきなり別の女性と母の葬式に出られる訳ないじゃないか」


 「バカみたい。男っていつも自分の体裁ばっかり考えているのね!」


 燐子はそう叫んだ後、黙ってしまった。もう何を聞いても返事すらしない。ふくれっ面をして窓の外を見つめているばかりであった。

 いつの間にか、窓の外は明るくなっていた。森を朝日が照らしており、その上空を早起きの鳥たちが飛び交っていた。透き通った空気の中を縦横無尽に駆け巡る彼らの囀りが窓の隙間からもれてくる。その窓を開けようと手を伸ばすと、燐子が私の手を乱暴に払いのけた。私に抱き寄せられると勘違いしたのだろう。

 燐子は私を試していた。無理難題を突きつけて、自分を取るのか、捨てるのか、と今この場で詰め寄っている。

 

 「僕は君の気まぐれとわがままに、いつまでも振り回されなければいけないのか?」


 腹が立った私は、ついにそんな言葉を吐いてしまった。

 

 「もう一度電話を借りてくる」


 こういうときは、頭を冷やしたほうがいい。冷静さを欠いている今はもっとひどい言葉さえ吐いてしまいそうであった。


 部屋を出る前に振り返ると、燐子は背筋をピンと伸ばして窓の外を見たままであった。精一杯虚勢を張ったようなそのシルエットが、朝の光に浮かびあがっていた。

 .

 「すぐに戻る」


 そんな一言が燐子のなぐさめになるであろう、などという私のうぬぼれは、数分後に打ち砕かれる事になった。飛行機のチケットを手配している間に燐子の姿は部屋から消えてしまっていたのであった。仕方がないので、私は予約していた日数分のお金を部屋のテ-ブルに置いてからバルセロナのエル・プラット空港に向かうことにした。腹立たしかったが、燐子はわずかな持ち合わせしか持っていないことを知っていたからである。


 ***


 葬儀場は、だだっ広いゴルフ場をさらに山に向かって進んだ、のどかな田園風景の中にある。大きな観音像が目印である事は覚えていたが、その観音像は折り連なる山々に隠れてなかなかその姿を現さなかった。曲がりくねった山道を走り終え薄暗いトンネルをくぐると、平地が広がっている。山を切り開いて造成した広大な墓地である。その墓地の上を真っ黒なカラスが数羽飛んでいた。薄目を開けた観音様がそれらを見おろすように立っていた。


 父が死ぬ前に買ったお墓はその墓地の中にある。日本に帰って来た時は必ず墓参りに来るのだが、迷わずに父の墓にたどり着けた事は一度もない。あまりにも墓地が広く、似たような墓石ばかりなのでいつも迷ってしまうのだ。


 「ここは駐車禁止だ。あちらの来客用の駐車場に行け」


 レンタカ-を正面玄関の前に停めて車を降りようとすると、黒いネクタイを締めた忠義おじさんが小走りでやって来た。とても80歳を超えている様には見えない敏捷さである。私は頭を下げておじさんに挨拶をしたが、おじさんからは「久し振り」、も「ご愁傷様」も無しであった。いきなりお小言である。


 「ずいぶんと遅いじゃないか。おや!お前目が真っ赤だな。まさかおまえ、酒気帯びで車を運転してきたんじゃないだろうな?」


 「まさか。目が充血しているのは昨夜から眠っていないからですよ。その上飛行機は旅行中の学生が一杯いて、とてもうるさかったんですから」


 「まあいい。ところで、お母さんはたった今、火葬炉に入られたところだ。拾骨まであと30分くらいあるから、慌てずに指定された場所に車を停めてきなさい」


 「え?もう火葬されちゃったんですか?」


 「時間が指定されているのだから仕方がないだろう。順番を待っている人はたくさんいるんだから」


 母の葬式に来た人達は、母の遺体が火葬炉に入れられている間に昼食を取っているらしかった。おじさんは、参列者達を食堂に案内した後、食事も取らずにここのロビ-で私の到着を待っていてくれたらしい。


 「お前、飯は食ったのか?もし何も食っていないなら、食堂にお前の分も頼んでおいたけど、、、」


 「いえ、機内食がありましたから、お腹は減っていません。それよりも、母の身に一体何が起きたのか、話して頂けますか?」


 「もちろんだとも。その為にここでお前を待っていたんだ」


 おじさんによると、母は大地震が起きた時、神戸に行っていたらしい。テレビで家族を亡くした人たちの報道を見て、じっとしていられなくなったのだという。もと看護士の母は何か役に立てる事はないかとボランティアに行ったのだが、余震で倒壊した建物の下敷きになったのだった。死因は圧死というであった。


 「ボランティアに行くなんて、電話した時は何も言っていませんでしたよ」


 「お前に心配をかけまいと黙っていたんだろう。お前がスペインなんかに行っていなければ、思いとどまっただろうに」


 おじさんは私が母の寿命を縮めたような言い方をする。


「おい」


 何ですか?という顔をしてふりかえると、おじさんは私を目で叱りつけるように睨みながら天井を指差している。どうやらスピ-カ-から私達を呼び出すアナウンスが流れているからお前も聞けという事らしかった。それは、拾骨の準備が出来たことを告げる私たち向けのアナウンスであった。


 やがて食事を終えた葬儀の参列者がロビ-に降りて来た。親戚に会うのは久しぶりである。皆知らないうちに随分と老けたという印象を受けた。父方の親戚は母と兄、つまり忠義おじいさんと仲が悪かったので、何十年ぶりかの再会であった。しかし、いまだに遺恨が残っているのか、私や忠義おじさんをなんとなく避けているようすであった。他には私の知らない人たちもかなりいた。私はおじさんに連れられて、あちらこちらへと挨拶に回った。


 「もっと深く頭をさげろ」


 おじさんはこう言って、私の後頭部を押さえつけた。いつまでも私を子供扱いする人である。


 「それでは、お骨を収めさせていただきます」


 制服を着た係の人が帽子を取ってお辞儀をすると、葬儀の参列者も負けないくらいに深々と頭を下げた。先頭に立って最敬礼しているのは、忠義おじさんである。

 昔おじさんから指導を受けた最敬礼というのは、相手に対して最大級の敬意を払うために行うお辞儀であるから、少々窮屈であろうがきちっと背筋を伸ばして両手の中指をズボンの縫い目に沿わせねばならない。そしてその指先がひざに着くまで頭を下げるのである。ただ頭を下げれば良いというものではない。

 前方に深く折りたたんだ上半身を長時間支えるにはひざ小僧に手のひらを置いた方が楽であるが、「それでは馬とびの馬じゃないか」、とおじさんに良く叱られたものである。

 おじさんは年とともに腰痛がひどくなっている。ひざや指先がプルプルと震えているのはその為であろう。それでもおじさんは、誰よりも長い時間頭を下げていた。先に頭を上げた私達は、深く頭を下げ続けている忠義おじさんを見て再び頭を下げなければならなかった。


 「立派なお骨でございます」


 火葬炉から出された骨は真っ白であった。係りの人はそんな骨を良い骨だと褒めてくれた。骨の組織が年寄りにありがちなスカスカな状態ではなく、密でしっかりしているとのことであった。確かに母は病気らしい病気に罹ったこともないし、これまで入院などした事もない。今回のような事故に遭わなければもっと長生きしたに違いない。


 係りの人は再び脱帽したあと、骨壷からはみ出している遺骨を菜ばしのように長い棒でぎゅうぎゅうと押し込み始めた。手には白い手袋がはめられている。満員電車に乗客を押し込む駅員のように額に汗を浮かべていた。

 骨は擦れあって雨戸がきしむような音を立てた。押されたりポキリと折れながら、骨は骨壷に押し込まれていった。拾骨というのは、骨を押し込む人も押し込まれる骨にとっても大変な作業のように見えた。それならばもう少し大きな骨壷を用意すれば良いではないかと言う人がいるかもしれないが、きっとこの大きさの骨壷に入れないとお墓の下にある収骨スペースに納まりきらないのだろう。

 

 拾骨が一通り済むと、後には箸でつまめない程度の小さな骨しか残っていなかった。もはや骨と言うより塵であった。係の人は刷毛とちりとりを持ち、お釈迦様の骨、すなわち舎利を拾い集めるかのごとく、恭しい手つきでそれらの塵を集め取って骨壷に入れた。そして、ようやく骨壷の蓋が閉められた。

 何十年も生きてきた母の肉体は焼かれ、砕かれた骨は壷に押し込められ、副葬品は灰となって一時間もしないうちに地上から消えてしまった。これで母の姿は永遠にこの世から消えたことになる。残ったのはずいぶん前に取ったと思われる写真を引き伸ばした遺影と、胸に残る思い出だけになった。

 

 母の遺骨を父の墓に納めに行く途中で道に迷ったりしないだろうか、という心配は私の取り越し苦労であった。墓参りと違い、埋葬の時には葬儀場の職員が私たちを先導してくれることになっていたからである。

 両側に墓石が立ち並ぶ小道を歩いて行く途中に一対のカラスがいた。カラス達はのんびりと午後の日差しに体を暖めていたが、喪服を来た我々一行に驚いて飛び立っていった。二羽並んで飛ぶのではなく、一羽が先頭を飛び、連れがその後を追う、といった飛び方であった。片方がカァと鳴くと、後ろを飛ぶもう一羽がカァと答えた。そんな風に声をかけながら、二羽のカラスたちは昔ながらの竹林が残る丘に飛んで行くのであった。そのカァとカァの応酬は、お互いの無事を確認し合い励まし合っているように聞こえる。きっと長年連れ添った夫婦のカラスにちがいないと思った。彼らの真っ黒い羽は緑の風景に映えて、とても美しく見えた。


 ***


 母の葬式を終えてバルセロナのアパ-トに帰ると、家の扉が無くなっていた。家に入る前にアパ-トの下にあるゴミ捨てのコンテナに見覚えのある扉が立てかけてあるのを見かけたのだが、まさかあれが私の家の扉だったとは思わなかった。空き巣に入られたであろう事は予想できたが、一体何のために扉をはずす必要があったのか理解できなかった?よほど太った空巣だったのだろうか?

 

 休暇で家を空けている間に、我が家が不慮の災難に見舞われていた事はこれまでにも幾度かあった。電気を止められて冷蔵庫の中の物がいたんでしまっていたり、上の階から水漏れがあって家中水浸しになっていた事もあった。空き巣に入られた事も一度ではない。家中ひっくり返されたあげく、買ったばかりの圧力鍋と日本のインスタントラ-メンを盗まれた上、床にうんこまでされたこともあった。この国に住むようになってから、一応一通り泥棒の洗礼を受けた気でいたのだが、家の扉を外されたうえに捨てられるなんて仕打ちを受けるのは初めての事であった。

 

 経験上、取られて困るような金目のものなど家に置いていないが、まだ家の中に泥棒がいたりしたら危険だなと思いつつ呼び鈴を鳴らしてみると、聞きおぼえのある声で返事があった。

 

 「鍵はかかっていないわ。どうぞ」

 

 拍子抜けするような燐子の声である。あんな後味の悪い分かれ方をしたが、燐子は帰って来ていたのだ。私は努めて明るい声で応えた。相手の出方によっては今までの事を水に流してやろうと考えた。


 「そりゃ開いているのは分かるよ。扉が外れているんだもの。それよりいつ帰って来たんだい?とんだ災難だったじゃないか、空き巣にはいられるなんて」

 

 「空き巣じゃないわよ。私がこの家を引き払っているの」

 

 燐子は台所にいた。しゃがんだ格好でブタンのガスボンベについているアダプタ-を抜こうとしている所であった。

 そしてその横では、見覚えのある毛むくじゃらな男がごっつい手で金のこを引いている。セルダ-ニャのホテルの主人であった。驚いたのはそれだけではない。この男はこともあろうか人の家のガス官を切断しているのであった。

 

 「どうしてそんなものを切ったりするんだ?」

 

 とスペイン語で怒鳴りつけると、ホテルの主人は肩をすくめて、俺もどうしてなのか分からない、というゼスチャ-をした。

 

 「必要なのよ。私が作っているオブジェに」

 

 代わりに燐子が私の疑問に答えてくれた。経った数日間のあいだにずいぶんとスペイン語がうまくなっていたのには驚かされた。


 サロンを見るとすでにそこももぬけの殻であった。ソファもテレビもテーブルも何も無い。あれだけ燐子が趣味が悪い、と毛嫌いしていたレースのテ-ブルクロスさえ無くなっている。がらんとした空間が広がっているだけである。

 私たちの借りたアパ-トは家具つきである。しかし、それらの家具はアパ-トを出て行く際に入居する前と同じ状態で置いていかなければならない。私のおぼえている限り、賃貸契約書に「アパ-トを出るときにはどうぞ部屋にある家具を自由にお持ちください」という事は書かれていなかった。それどころか、もしも備え付けの家具を紛失したり、壊したりしたら弁償しなければならないはずであった。

 その事を告げると、燐子は「知っているわ」、と答えた。つまり、彼女は知っていてわざとしてはいけない事をしているのである。

 

 「これから住む家には家具も何もないんだから、どこかから持って来なければならないじゃないの!」、と燐子の主張はあくまで自己中心的である。

 

 サロンの入り口にあったはずのガラス扉も外されて壁に立てかけてあった。

 

 「どうしてこんな事をするんだ?」

 

 「この扉をはずさないとソファが通らなかったんだもの」

 

 「扉をはずした事を聞いているんじゃない。どうしてこんな常識外れというか人の道を外れたような事をするのかと聞いているんだ。あぁ、壁や床が傷だらけじゃないか。一体君は何を考えているんだ?全く理解できない」

 

 「全く理解できない?そうでしょうね。あなたは今まで、私のことなど何も理解しようとはしなかったんだから!」

 

 燐子は私の目を睨み上げた。

 

 「だって、私と一緒にいる時でも、あなたの気持ちはいつもここにあらずだったもの。元奥さんの思い出をいつまでも引き摺っていたんだわ。私が何も気づかない、とでも思ったの?」


 燐子の目には涙が浮かんでいた。

 

 「あなたは私のそばにいてくれたけど、それは私を愛していたからじゃない。私を「可哀想な女」と思って同情はしてくれてたみたいだけどね。きっとあなたは、奥さんに捨てられた心の隙間を埋めるためならどんな相手でも良かったのよ。あなたは何も分かっていない大バカ野郎だから教えてあげるけど、あなたを繋ぎとめていたのが私に対する哀れみだけなんて、耐え切れないほど悲しいことなのよ」 

 

 誰もいなくなって閑散とした玄関の床に大量の郵便物がばら撒かれていた。チラシとダイレクトメ-ルに混ざって、税務署からの書留が一通あった。いついつまでに連絡をよこせ、とある。電話をすると、私がカルメンに月々支払っている養育費はいくらか、と聞かれた。


「養育費としてあなたが毎月支払っているその額を、カルメンにではなく税務署に納めてください」


 カルメンは今の恋人(あの筋肉青年は、モロッコ人であった)と日本料理店を始めたのだが、彼らは社会保障や税金を滞納しているらしかった。インタ-ネット上の評判では彼らの店の評判がすこぶる悪かったのは知っていた。お役所から警告や督促状が来るようなら、その経営はかなり危機的なのであろう。

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