第15話 モルシ-ジャ(血入り腸詰)

 カルメンから、メッセ-ジが届いた。今度の休日、母親と一緒にバ-ゲンセールに行きたいから、我々の息子ハジメを預かってくれという。私はその日の朝、言われたとおりにハジメを迎えに行った。私が家を出て別居を始めてから、カルメンはハジメと2人暮しをしている。はずであった。


 マンションの前に着いてインタ-フォンを押そうとしたら、ちょうど中から住民が出てくるところであった。子供連れの家族である。荷物が多いので私が扉を支えてやった。すると今度は、エレベ-タ-から降りてきたお婆さんが、扉を開けっ放しにして待ってくれている。こうして私は、図らずして昔住んでいた我が家の階に着いてしまったのだった。

 扉の前に立つと、家の中から大音量のアラブの民謡のような音楽が聞こえきた。階をまちがえたかな?と思って階と扉の表示を見たが、間違いなくこの家である。何か変だぞ、と訝しがりながら呼び鈴を押すと、フロ-リングの床の上を走る小型犬の足音が近づいてきた。犬を飼い始めた事はカルメンから聞いていたから、呼び鈴を押す家を間違えたわけではなさそうである。犬は、扉の向こうで足踏みをしながらワンワン吠えている。その後、ヨチヨチ歩きのハジメが迎えに来てくれるかと思いきや、近づいて来たのはだるそうに足を引きずる大人の足音であった。

 

 「どなた?」

 

 あくびをかみ殺した男の声であった。その上、妙なイントネ-ションのスペイン語である。やはり家を間違えたのであろうか?


 「ここは、カルメン・フェルナンデスの家ですか?」と聞くと、中から扉が開いた。出てきたのは、私より一回りくらいは年下に見える若い男であった。

 

 「カルメン、今、シャワ-。あなた、だれ?」

 

 お前こそ誰だよ?と言いそうになったが、相手は筋肉隆々で強そうだったので口をつぐんだ。こんな自分のムキムキぶりを強調するタンクトップを着る奴に、「別居中の夫です」、なんて自己紹介する必要もないだろう。

 

 「ハジメは?」

 

 「何?」

 

 「カルメンと僕の子供だよ。迎えに来たんだ」

 

 この男は、あまりスペイン語を話さないようであった。彼なりに何か説明しようとするのだが、何を言いたいのかよく分からなかった。家にいるのか、いないのか、寝ているのかトイレなのか?と身振り手振りで聞いたが、うまく話が通じない。もしかしたらこの男は押し入り強盗で、私の家族になにかしでかしたのではないか、と不安がよぎりかけた頃、カルメンが玄関に出てきた。バスロ-ブの合わせ目から白い太ももがちらりと見えた。

 

 「あら、私のメッセ-ジ見なかったの?」

 

 「メッセージ?」

 

 「そうよ。さっき送ったのに。「急用ができたので買い物はキャンセル。ハジメはおばあちゃんの家に行きました」って。来る必要なんてなかったのに」

 

 「急用ねぇ、、、」

 

 「何よ?」

 

 「30分まえにメッセージもらっても僕はもう家を出て移動中だったから、メッセージなんか気づかないよ。僕に来て欲しくない状況になったのなら電話してくれればいいじゃないか」

 

 「あなたって、相変わらずいやみな言い方をするのね。いいわ、もうあなたと話をする気なんかなかったけど、親切心で良い事を教えてあげる。私、この人と日本食レストランを始めることにしたの。で、『寿司』という屋号を商標登録したから、スペイン国内ではもう『寿司』という文字を店名に使う事は出来なくなったのよ。だから、あなたのいる店も早く名前を変えてね。その内裁判所から通知が来るでしょうけど」

 

 「何だって!寿司は日本の食い物じゃないか。どうしてスペイン人のお前が『寿司』という文字を使えて日本人の僕が使えなくなるんだ?」

 

 「しょうがないじゃない。ここはスペインで、私達はこの国の法律に従わなければいけないんだから。それじゃあ、私は出かける準備をするから。さようなら」

 

 カルメンはそう言って、筋肉青年と私を残して奥に引っ込んでしまった。私も帰ろうとしてエレベーターのボタンを押そうとした時に手土産を持ってきていることに気がついた。カルメンと元?義母の好きだった餃子と抹茶ロールケーキを持ってきてやったのだが、頭にきたので持って帰ることにした。

 エレベ-タ-は、まだこの階に止まっていた。扉を閉めようと取っ手に触れると、電気が漏電しているらしくビリビリと指先に電流が走った。驚いた私は、抹茶ロールと餃子が入った紙袋を床に落としてしまった。筋肉青年が落ちた袋を拾い上げてくれたが、餃子の匂いに顔をしかめている。

 

 「それ、なに?」

 

 「餃子という食べ物だよ」

 

 「豚肉が入っているのか?」

 

 「豚肉と鶏肉がミックスで入ってる」

 

 「じゃあいらない」

 

 「君にあげる、とは一言も言っていない」

 

 「そっちは何?」

 

 青年は甘いものが好きなのか、目ざとく私のロールケーキに目を付けた。

 

 「これはとてもおいしい日本のデザートだけど、これも君にあげる気はない。ハッ、ハッ、ハッ」

 

 ざまあみやがれ、と彼に背を向けた私だったが、不覚にも再びエレベーターの扉に手を触れてしまった。指先にビビビと電流が走った為にまたもや紙袋を落としてしまったのである。青年は、もう拾ってくれようともしなかった。そのかわり、ニヤニヤと私を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。

 予定していた休日の用事がなくなり、ヒマになった私はランブラス通りでパフォ-マンスをする、と言っていた燐子に差し入れを持って応援に行ってやろうと考えた。バスに乗ると、私が持ち込んだ餃子の匂いが忽ち車内に充満し、まわりの乗客から白い目で見られた。二度も地面に落ちたため、餃子を入れた容器が壊れてしまったのだった。


 ***


 ランブラス通りは、たくさんの人で賑わっていた。燐子はリセウ劇場の前あたりに持参した荷物を降ろし、準備を始めていた。「やあ、差し入れを持って来たよ」と言うと無言で睨まれた。あれだけ「いつ見に来るのよ?」としつこく誘っていたくせに、いざ訪ねて来たら「何しに来たの?」とでも言いたげな嫌そうな顔である。今日は多くの人から嫌な顔をされる日であった。


 燐子のパフォ-マンスとは、いわゆるダンスと一人芝居である。持参したステレオからは、何度か聴かされた曲が流れてきた。燐子は、早朝だろうが真夜中だろうがひらめきがあった時に大音量でこの曲を流し、振り付けを直したり曲を編集したりするのだった。


 燐子は上着を脱ぎ、パフォ-マンスの衣装になった。

 最初のシーンに身につけるのは真っ赤な振袖である。とはいっても日本の観光地で外人向けに売っているような安っぽいナイロン製で、暖炉なんかの薪がはぜたりしたら、ちりちりと燃えあがりそうな代物であった。絵柄に派手な色使いの金魚が描かれていて、きらきらと輝いている。遊歩道を行く人々の目を引くには十分な効果があるように見えた。これを着ているときに演じられるのは、純真無垢な日本の幼女、ということであった。燐子はおかっぱ頭のかつらをかぶり、両ほっぺには赤くて丸いシ-ルを貼っていた。

 

 燐子は、日本の童謡に合わせて踊りはじめる。というよりも、ポックリをはいた足でカタカタという音をたてながら、からくり人形のように歩き始める。 遠巻きに見ていた人々は、燐子が近づいてくる度に後ろに退いていた。これは、前歯を欠いた燐子の笑顔が眩しすぎるだけでなく、彼女が両手で持って来る竹で編んだザルが原因であった。ザルには燐子自ら置いた枕銭があるのである。


 「何だよ、いきなり見物料の徴収かよ」


 「ずうずうしい!」


 露骨に文句を言いながらその場を離れる若者もいたが、どんな罵詈雑言を浴びても、燐子は笑顔を絶やさない。自分のパフォ-マンスには、見物料を払う価値がある。見て絶対後悔しない、と言っている彼女にはよほどの自信があるのだった。


 最初にスピ-カ-から流れるのは、童謡の『ちょうちょ』である。この曲はもともとはスペイン民謡だ、と燐子は言っていたが、真偽の程は疑わしい。なぜなら、スペインに住んでいても、この曲が流れるのを聞いた事がないからである。

 聴衆は童謡の出だしを聞いた瞬間に驚いた顔をしていた。「ちょうちょ」、とはスペイン語で女性の陰部のことだ。この歌を聞いた若者は吹き出していたし、ご婦人達は赤面しいた。それでも、この歌の一番を何度か繰り返して流すうちに燐子を囲む見物人も徐々に増えてくるのであった。


 この次に流れてくる曲も、やはり日本の童謡だ。『かごめかごめ』である。


 その前奏にあわせて、まるで何人かの子供たちと輪になっているかのように両手を広げながら、ランブラスの床に描かれたミロのタイルの輪郭に沿って燐子は歩きだす。インタ-ネットもテレビゲームも無かった時代の日本の子供たちが興じた遊びを再現してみせているのだ。


 ♪かーごめ、かごめ♪という出だしを燐子が歌いだすと、子供達がニヤニヤと顔を見合わせて、メカゴ、メカゴとはやし立てる。この歌詞を何度も繰り返していると、スペイン語で「me cago (私はうんこをする)」という意味に聞こえるからである。

 実は燐子もその事を既に知っている。しかし、何も分からないフリをして笑顔を振りまき続けている。欧米人とちがい、はっきりと外国人と区別のつく日本人顔の燐子は、「この国の言語を知らないで勘違いしている善良な外国人」という人間を演じていた。そんな燐子に、通行人たちほのぼのとした笑みを投げかけている。


 ところが、「後ろの正面だあれ」と後ろを振り向いた瞬間、のどかな状況は一変する。ステレオから落雷の様な衝撃的な効果音が流れ出し、燐子はおかっぱ頭のかつらをはずして髪の毛をくしゃくしゃにかき乱しはじめる。ポックリを脱いではだしになった彼女は、狂ったように振袖を脱ぎ捨てて(と言っても大事な衣装だから盗まれないように自分が持ってきた段ボ-ルの箱にちゃんとしまってから)白装束になるのだった。


 燐子からこのシ-ンの練習見せられた時に、「なぜわらべ歌を歌っていた子供が急に白装束に変わるのか」、と質問したことがある。

 すると、燐子は良くぞ聞いてくれました、とばかりに胸を張り、「人は生れ落ちた瞬間から死に向かって進んでいるのよ。多くの人はそんな事実を忘れようとしているけれど、死はすべての人に訪れる。私の演じる女の子は、誰に教えられたという訳ではないのにふとそのことに気づくの。白装束はその象徴なの」と説明してくれた。分かるような分からないような説明であった。

 

 けれども、路上の演技が始まる前に見物料を請求されて腹を立てた人々はもちろん、「ちょうちょ」と「かごめ、かごめ」に苦笑した観衆は、誰一人として燐子の纏う白いキモノの意味を汲み取っているようには見えなかった。その代わりに燐子の演技や表情に肘を突付いて笑いあい、そのうちにもっと面白いリアクションが見られるだろうと頬の筋肉を緩めて爆笑する準備をしているのであった。

 

 燐子のパフォ-マンスには通行人の足を止めさせる滑稽さがあった。その点では興行的に成功しているかに見える。ただ、燐子の求めていた観客のリアクションは苦笑いや嘲笑ではなく、感動の拍手と涙であった。芸術家の思惑が大衆に理解されない身近な例である。


 白装束になった燐子は、スピ-カ-から大音量で流れる音楽、というか雑音のような効果音に合わせて激しく動きはじめる。

 髪を振り乱し、目を剥きながら所狭しと動きまわる燐子の四肢が次第に熱を帯びて行く。額には青筋が立ち始めた。常軌を逸してしまったような彼女の動きや表情は、母親に手を引かれた子供を泣かせてしまうほどの迫力になった。ちなみにこれらのバラバラで支離滅裂な動作や表情は、成長した女の子が激しく自我を求め出す様を表現しているらしい。  

 ただし、そのように前もって説明されていなければ、まったく意味不明である。見物人は、一体この女に何が起きてしまったのだ、と不思議に思うに違いない。ありったけの想像力を働かしても、テンパッて気がふれてしまった気の毒な女性にしか見えないのが残念であった。料理しようとする直前に逃げられた七面鳥を血眼で捜している孤島に流れ着いた漂流者か、もしくは就寝中に空き巣の侵入に気づいた主婦が応戦のために使う武器を探しているような、どこか所帯じみた落ち着きの無さだけが目立ってしまっているのである。


 雑音のオムニバスがフラメンコのギタ-に変わると、それまで馬鹿にしたような薄笑いを浮かべていた観客が興味を示し始めた。「何だ、これからフラメンコが演じられるのか?」、とか「これからが本番なんだな」などと胸をなでおろしている。やっと気味の悪い見世物を見なくて済む、と救われた気分になったのだろう。

 

 無理だと分かっていても、私は心の中で燐子の一発逆転を願った。もしここで、燐子が見物人があっと言うようなバイレ(舞踊)を披露することができたなら、拍手喝采をあびることができたなら、今までの見苦しい燐子のパフォ-マンスも帳消しになるであろう。竹ザルも小銭で満たされるにちがいない。

 しかし残念ながら、と言うかやっぱり観衆の期待は見事に裏切られることになる。燐子のフラメンコはとても正視できない恥ずかしいものなのだ。わずかに興味をそそられていた見物人も、鳥肌を立てながら目をそらしてしまった。フラメンコをバカにされたと怒っている人もいた。


 『日本の心を取り入れたフラメンコ』と胸を張った燐子だが、実はフラメンコを見にタブラオへ足を運んだこともなかったのである。


 彼女の言う『誰も試みたことの無い異文化の融合』は、踊りと言うよりも、そのやたらとくねくねとさせる手つき(情熱の表現らしい)や、とんがらせた口の形から、海底に潜む軟体動物の巣の奪い合い、もしくはガラパゴス諸島あたりにいる爬虫類の求愛ダンスにしか見えないのであった。もしも音楽がなければ、その怪しげな振り付けは誰もフラメンコだとは気づくまい。


 「人から物事を習うなんて、子供の時のそろばん塾で十分。私は自分の魂の趣くままに踊りたいの」


 と言う燐子の志は立派だが、彼女の出し物は素人目に見ても到底お金をもらえるようなレベルには達していない。それは見る人々をハラハラさせ、神経を逆なでし、悲しい気分にさせてしまう痛々しいパフォ-マンスであった。


 それでも自分の劇を演じきって完全燃焼した燐子は、満足気であった。

 路上の舞台では、燐子演じる一人の女が北枕で横たわっている。ドラマチックで波乱万丈の人生の末、主人公はついに臨終の床につく、という設定だった。それは精一杯自分の人生を生き抜いた末の悔いのない死であった。燐子の口元には満足そうな微笑を浮かんでいる。

 

 燐子のパフォーマンスでもうひとつ残念なのは、死んだはずの白装束の女がこっそりと薄目を開けて、ちらちらと竹ザルを盗み見していることである。燐子は、竹ザルにお金を入れにくる人がどの位いるか気になって仕方が無い。大事な売上金を盗まれはしまいかという心配もあるのだ。人が竹ザルに近づくたびに、燐子はその影を横目で追っている。そして小銭も入れずに素通りされると露骨にチッと舌打ちをするのであった。


 突然、ランブラス通りにけたたましい笛の音が鳴り響いた。

 上り車線に2頭の馬にまたがった交通警官が燐子を見おろしている。馬の後ろには車の長い渋滞が出来ていた。

 交通警官は二人ともサングラスをかけている。そのトンボのようなレンズが寝そべっている燐子に向けられていた。


 「お前は一体誰に許可を貰ってここに寝そべっているんだ?」


 と警官はゼスチャ-によって燐子の行動を戒めている。


 燐子は寝そべったまま、表情をこわばらせていた。警官を乗せ、足踏みをしている馬をじっと見ている。農耕馬のようなたくましい腰周りと午後の日差しに輝く栗毛の美しさに目を奪われているように見えた。


 「早く、早く!」


 燐子を立たせて一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、燐子は未練がましくじっと竹ザルを覗いていた。その中には自分の置いた枕銭の他にまだ数えるほどの小銭しか入っていなかったのである。


 ***


 「ねぇ、どうだった?はっきり言ってよ」


 ランブラス通りを後にした私たちは、港近くのバ-に入った。燐子は一杯のロゼで顔が真っ赤である。てっきり下戸なのかと思ったが、その後はこちらが止めるのも聞かずに杯を重ねて行った。とうに目は据わっている。それにこの女は、酒が入ると絡む癖があるらしかった。


 「さっきから何度も言ってるけどさ。踊りの事はよく分からないんだ」


 「踊りの事はよく分からないんだぁ~、ですって?あなた、私と初めて会った時のことを覚えている?」


 「ああ、大体」


 「あの時あなたに聞いた事も覚えている?」


 「ここの生活は楽しい?って聞かれた気がする」


 「そうよ!そしたらあなたは何て言った?「まあまあです」って言ったのよ!何よ、「まぁまぁ」ですって!ずいぶんいい加減な受け答えをする人だと思ったわ。楽しいか、楽しくないかって、聞いているのに「まあまあです」だって!だから日本人は何を考えているのか分からない、なんて言われるのよ。だけど私の質問にはちゃんと答えてね。私のパフォ-マンスは良かった?悪かった?」


 「悪くは無かったと思うよ。人目は引いていたし、なかなかドラマチックだったし」


 「じゃあ、何で誰もお金を払ってくれないの?」


 「何人かは払ってたじゃないか」


 「そんなの私の仕事に比べたら微々たるものよ。慰めにもなりやしない。カタル-ニャ人てケチだって言われているけど本当ね」


 「あのね、カタル-ニャ人の名誉のために言っておくけど、」


 勝手なもので、時々は自分もカタル-ニャ人の悪口を言っているくせに、来たばかりの日本人にカタル-ニャ人がどうこうと言われるのは腹が立った。 


 「ランブラス通りをぶらぶら歩いている人たちの半分はガイジンだぜ」


 「とにかく、私は世界中の街路で踊ったけど、ここほど金払いの悪い街は初めて。ねぇ、二人でタイに住まない?ここは英語もよく通じないし、男たちはトイレの便座を上げないでおしっこをするし。あまり好きになれないわ」


 これは冗談なのだろうか、それとも真面目な誘いなのだろうか?とりあえず聞こえないフリをしておいたほうが良い、と判断した私は話題を変える事にした。タイ移住の話をぶり返させないために、彼女の舞台に難癖を付けた。

 

 「あえて言わせてもらうなら、フラメンコがよくなかったんじゃないかな。言うなれば、あれは日本で西洋人が握る寿司を食わされるようなものだよ」


  しかし、予想とは逆に(怒り出すと思っていたが)、燐子は泣きだしそうな顔になったので慌てて付け足した。

 

 「うまいまずいの問題じゃなくてさ、雰囲気の問題なんだよ、きっと。せっかく日本人の君がパフォ-マンスするんだから、何かエキゾチックなものを求めているじゃないか?こっちの人は、フラメンコなんかたくさん見ているだろうから」


 「ねえ、今度の週末タブラオに連れて行ってくれる?プロの踊るフラメンコを見てみたいの」


 「ああ、いいよ。連れて行ってあげる。さぁ、僕はそろそろ家に戻らないと。ブルゴス風モルシ-ジャは嫌いなの?まだこんなに残っているじゃないか。もったいない」


 「あなたの持ってきてくれた餃子でお腹が一杯。あなたが食べて」


 燐子は抜けた前歯の隙間からにんにくの匂いがする息を吐き出しながら「もう何も食べられない」と言った。ワインのつまみに注文したモルシ-ジャが、ほとんど手付かずの状態で残っていた。ナイフとフォ-クで切り分ける私の手元を燐子がじっと見つめていた。


 「ねぇ、そのモルシージャって、」


 「何?」


 「さっきのおまわりさんが乗っていた馬を思い出しちゃう。あの時、私は地面に寝そべっていたでしょう?見上げたら馬の股ぐらが見えたの。このモルシ-ジャにびっくりするほど似ていたわ」


 この日以来、モルシ-ジャを見るたびにこの燐子のコメントを思い出すことになる。その為、あれほど好きだったモルシ-ジャが食べられなくしまったのだった。

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