第9話 ムシコ


 ダニエルという名の青年が『寿司・BARカルメン』で働くことになった。私達の息子ハジメの育児に専念するため、カルメンは自分に代われる「責任感のある人」を雇おうと言い出したためである。

 「大学で経営学を学んだんですって」

 カルメンに言わせると、私はザル勘定で気まぐれに無駄なお金を使ってしまうことがあるらしい。私に言わせればカルメンの健康器具、(使ったのは最初だけ。せまい家の中ではとても邪魔な存在になっていた)、やダイエット食、(「こんな家畜の餌みたいな食事ばかりじゃ頭がおかしくなっちゃうわ!」、と結局はリバウンドしてしまうので効果があったためしがない)、などに使うお金のほうがよっぽど無駄な金遣いではないかと思う。

 ダニエルは数字が苦手な私の代わりに帳簿をつけたり、節税のアドバイスもしてくれるから会計士に払っていた経費が節約できる。その上学生時代にはレストランでアルバイト経験もあるから、接客もそつがないという話であった。見たこともない若造に店の帳簿を見せることに抵抗はあったが、無駄な経費が削減でき、しかもカルメンが安心できるなら、と渋々同意したのだった。


 後で判明したことだが、ダニエルのお母さんは昔女優として活躍していた人らしい。スペイン人の知人に聞くと、大体の人は「あぁ、あの人ね。知っているよ」と言う。特に年配の人はがほとんどの人が知っていたから、そこそこ有名な女優さんだったのであろう。どうしてそんな有名人の息子が私達の店などで働く事になったかというと、カルメンが友達から紹介されたからであった。どういう繋がりでそうなったのかは分からない。ただ、カルメンが有名人に弱いのは事実である。『寿司・BARカルメン』には、ときおりテレビに出ている俳優やら歌手が来る事があった。その度にカルメンは、サインをせがんだり一緒に写真を撮らせてくれ、と仕事をそっちのけにして舞い上がっていた。そんな彼女は、ろくに履歴書も見ずにダニエル青年を店に呼び込んだのである。


***

 

 「あんた誰?」

 朝、店に入ると勝手にパソコンをいじっている奴がいた。彼がダニエルだった。

 「やぁ、はじめまして。君がキタオ?僕はダニエル。ダニって呼んでね。よろしく」

 私より一回り以上年下の青年の手は大きくて、私の手を握りつぶすのではないかと思うくらい握力が強かった。

 「キタオの名字はコンドーっていうんだね。カタルーニャ語でコンドームという意味だけど、知ってる?」


 初対面の若造にいきなりそんな事を言われて笑える奴なんているのだろうか?私はムッとしたけれど、ここは相手の挑発に乗ることなく大人の対応をしようと感情を抑えた。そして放っておいたらどのくらい図に乗るのか試してやろうと考えた。

 「ああ、知っているよ。キタオがquitao(キタ-オ)、つまり外したっていう意味があることもね。つまりコンドーム外したって意味なんだろう?」 

 「そうそう。さすがスペインに長年住んでいるだけあって良くご存じで」

 「でも君はキタオがどういう意味かは知らないだろう。日本人は、君たち西洋人のように聖人の名前を子供につける事などしない。それぞれの名前にはちゃんと親の願いが込められているんだ」

 「ふぅん、でキタオっていうのはどういう意味なんだ?」

 「喜び多き男って意味さ」

 「コンド-ムを外した喜び多き男!それはいい!」


 ダニエルは、けらけらと笑い転げた。どこまでも慎みのない奴である。女優の息子としてちやほやされて育ったために、自分には何を言っても許される特権があるとでも思っているのであろうか?

 彼が笑う顔を見て、これはどこかで見た顔だと思ったら、昔私のお金を持って逃げた五十嵐さんに何となく雰囲気が似ていることに気付いた。五十嵐さんより背が高く体格もがっしりしていて彫りの深い顔立ちをしているけど、どこか人を見下しているような笑い方が良く似ているのである。視線といい、小賢しそうな眉毛もそっくりであった。こういう顔や表情の類似は、血縁関係の有る無しに関わりなく、またスペイン人、日本人という国籍にも関係なく、同じ性格をもった人間に共通の顔なのであろう。Los ojos son el espejo del alma.(目は心の鏡=目は口ほどにものを言い) とスペインの格言も言っている。とにかく彼の第一印象は最悪であった。私は、お返しにひとこと言ってやることにした。


 「ところで、君のダニっていう名前は日本語で絨毯などに巣くう害虫のダニを意味するって知っていたかい?」

 「そんなバカな!」

 今度は私がニヤニヤする番であった。御曹司はショックを隠そうともしない。見掛けに反して純朴な奴だ。

 「それじゃあ、日本人にこの刺青を見られたら笑われるじゃないか。来年の夏休みは日本に旅行に行こうと思っていたのに!」

 「どれどれ?」

 ダニエルは回れ右をして首の下にある刺青を私に見せた。

 「ここに僕の名前が彫ってあるだろう?」


 確かに≪ダニ≫と青黒い文字が2つ並んでいる。日本人がこの2文字を見たら、この青年は害虫のダニを駆除する専門業者の人と思うだろう。気になるのなら、≪ダニ≫の後に≪エル≫を彫れば済むことだ。と教えてやったが、彼は今すぐどうにかしたいというのでマジックで≪エル≫と付け足すことにした。彼の背中はとても文字を書きにくかった。もじゃもじゃに生えている体毛がマジックペンの行く手をことごとく阻むからであった。


 ダニエルの第一印象は、小生意気なくそガキであったが、一緒に働きだすと意外に良い奴で、しかも働き者であることが判明した。彼はとてもきれい好きで、それまで誰もが乱暴に扱っていたゴミ箱を丸洗いしてきれいにしてくれたのには驚いた。数字にも明るく、各仕入れ業者の価格を比較して、私たちが常に良い品物を安い価格で仕入れられるようにしてくれた。私は、そんな彼に次第に好感を持つようになった。時々見せるなれなれしさや挑発的な言い方は、「若さゆえの無邪気さ」と捕らえて寛大に対応できるようになった。給料の前借りを要求してくることが何度かあったが、それは親から小遣いをもらわずにつつましく暮らしているからであろう、と解釈した。だから、特に気に留めることもなかったのである。

 カルメンに言われるまでは。


 「ねぇ、キタオ。最近なんだか売り上げが落ちているんじゃない?」

 「そうかなぁ?客は今まで通り来ていると思うけど」

 「もしかして、ダニエルがちょろまかしているんじゃないかしら」

 「でも、売り上げ伝票と現金はいつも合っているんだろう?それに、有名女優の息子だったらお金に困るなんてことは無いんじゃないの?」

 「その話ホントウかしら?確かにあの子は有名女優のお母さんと同じ苗字だけど、普通、母親なら自分の息子が働くレストランに一度くらい食事に来るものじゃないかしら?」

 「まぁ、とりあえず気をつけておくよ」


 カルメンに言われると、気になることがあった。確かに売り上げとレジのお金は大体合っている。レジの誤差は以前と同じように数ユ-ロという範囲だ。気になったのは、コンピュ-タの来客リストにあった客の名前が消されていたことがあったからである。ちゃんと予約どおりに店に来たはずの客の名前が、キャンセルになっていたり、No show(来店せず)になっていた事があった事を思い出した。ダニエルは、客が来なかったことにしてレジを打たずに懐に入れていたのだろうか?それにしても、そんな事を繰り返していれば、発覚するのは時間の問題である。そんな危険と引き換えに売り上げをちょろまかしたいと思うほど、ダニエルは困窮しているのだろうか?私にはそのように思えなかった。信じたくもなかった。 


 それからしばらくは、自分の店に居ながら居心地の悪さを感じながら過ごすことになった。何年も働いていると、店に入ると同時に何か異常があると肌で感じるようになる。匂いや湿気の多さ、また異常な音など、店内に異変があるときは何らかのサインがあるものだ。

 それまでは、ダニエルを信頼していたから特に気にすることもなかったが、疑ってかかるととたんに細かい異変に気づくようになった。ある朝、レジが置かれている小部屋にタバコの匂いが残っていた。しかも、部屋内の配置がどこか違っている。レジを開けると、昨夜数えたはずのセンティモ硬貨数が少し減っていた。店に防犯カメラは設置されていない。しかし、契約している警備会社に電話をしてアラーム解除の履歴を調べてもらうと、明け方に一度解除されていた事が判明した。解除されたのは、ダニエルに教えた番号であった。私は警備会社に、もしも彼の番号で誰もいないはずの明け方にアラームが解除されたら連絡してくれるよう頼んだ。

 

***


 『寿司BAR・カルメン』を閉めて3時間ほど経った後であろうか。警備会社から連絡を受けた私が店に駆けつけると、閉めたはずのシャッタ-が半開きになっていた。店内には明かりがこうこうと灯っている。空き巣に入られるのは嫌だが、この時だけは中にいる人間が空き巣であったほうがましだと思った。しかし、シャッタ-をくぐって目にしたのは、危惧したとおりダニエルであった。それともう一人、目つきの悪い男がいた。ダニエルは、私の顔を見てひどくうろたえた。目つきの悪い男は、俺は無関係とばかりに目をそらして、挨拶もしない。

 「何しているんだい、ダニエル?こんな時間に店に来て」

 「家の鍵を忘れちゃってね。店に忘れたんじゃないかと思って探しに来たんだ」

 「そうかい、そりゃ大変だ。俺も手伝うよ」

 ところがこの二人は、一向に鍵など探す気配が無い。しゃがみこんで床下を見たり、戸棚の扉を開けたりということすらしない。眉間にしわを寄せながら、小声でひそひそと話をするだけであった。そして私がいつまでも帰らないでいると、二人はそそくさと退散していった。


 翌日、ダニエルは仕事を無断欠勤した。そして、それからは音信不通になった。

 

 ダニエルの母親が『寿司BAR・CARMEN』にやって来たのは、それから2,3日後のある朝のことであった。ダニエルのお母さんとは、あの夜以来何度か電話で話をしたことがあったが、会うのは初めてであった。私は朝の仕込みを終え、一段落したところであった。

 電話の声からはおっかないおばさんをイメ-ジしていたので、泣きべそをかきながらやって来た本人に会ったときはとても驚いた。私の顔は知らないはずであったが、すがりつくように駆け寄ってきた。仕込みを片付けて遅い朝食を取ろうとしていた私は、おあずけをくらった形になった。


 「息子から連絡はありましたか?」

 「いいえ、あなたに電話をしたあの日から、二度と姿を見せていないです。今までちょろまかしていた売上金も返しに来ません」

 「あの子がどこにいるか、何か心当たりはありませんか?電話をしてもつながらないんです」

 母親は、どうしたら良いかわからずにおろおろしている。母親は携帯電話を取り出したり、思いついた事を次々に質問してきた。「溺れる者はわらをもつかむ」、といった様子である。見ている私も気の毒になった。

 「調べた結果わかったのですが、彼が盗んだお金は、ほぼ彼の退職金と同額です。チャラにしましょう。私達は、彼を訴えるつもりはありません」

 すると母親は、わっと泣き出した。

 「あの子、根は優しくてとてもいい子なんです。ボランティアで養護学校の手伝いもしていたんですよ。ただ、悪い友達を持ったためにいけない薬なんかに手を出してしまったんです」

 「どうしたんだ、カリ-ニョ?」

 

 その時、一人の男が半開きのシャッタ-をくぐって入ってきた。長いボサボサの白髪頭に汚らしい革ジャンを着た中年男である。男は泣いているダニエルの母親の肩を抱きながら、私の目の前に置かれたままの朝食をじっと見ている。ダニエルの両親は離婚していると聞いていたから、この男は夫ではなく母親の恋人なのであろう。

 

 「日本人は寿司だけじゃなくて、ヨーグルトなんかも食べるのかい?」

 つまらないことを言う男だ。私は聞こえないフリをした。自分の恋人が泣いているのに、私の食事にかまっている場合ではないだろう、と腹が立った。

 「どうしてこんなに時間がかかったの?」

 「カリ-ニョ、この辺はなかなか駐車できないんだ。トレス・ト-レスまで行ってやっと停められたんだ」

 「そんなところまで行って来たの?別にタダで停められなくても良かったのに。有料駐車場ならこのあたりにいくらでもあるじゃない。それであんたはトレス・ト-レスまで行って歩いて来たの?」

 「まさか!走ってきたよ」

 言い争いならよそでやってくれよ。そう思いながら、空腹を抱えている私は、ヨーグルトに刺さったスプ-ンをくるくるかき回した。かけた蜂蜜をまんべんなく混ぜておいて、彼らがいなくなったらすぐに食べ始められるように用意していると、男がうまそうだね、と言った。

 「うちのばあちゃんもそれが好きだったよ。それムシコって言うんだろう?ヨーグルトに木の実やドライフル-ツをかけてその上に蜂蜜をかけるんだ。このムシコのおかげでばあちゃんは、90歳まで長生きしたんだ。君はちゃんと朝ご飯を食べてきたかい、カリ-ニョ?」

 

 さっきからカリ-ニョ(可愛い子ちゃん)と呼ばれているのは、昔はある程度名前の知られた元女優、ダニエルの母親である。カリ-ニョと呼ばれると子供に戻ったような気になるのか、すねた顔をして首を振っている。すぼめた唇の周りに放射状のしわがくっきりと浮かびあがった。

 

 「悪いけど、この女性にも君と同じこのムシコを作ってくれないだろうか?この人は、息子さんが音信不通になってからというもの、ろくに食事もとらないんだ」

 「いいわよ、いらない!あなたはなんて図々しいことを言うの?ただでさえダニエルがこの人に迷惑をかけているのに!」

 と母親が怒ると、男が言い訳を始めてまた言い争いが始まりそうになる。

 「よかったら、これをどうぞ。まだ手をつけていませんから」

 「とんでもない。もう私たちは失礼しますから」

 ダニエルの母親は、立ち上がって帰ろうとする。男は私の朝食を持って彼女を追いかけた。スプ-ンを口に近づけて無理やり食べさせようとするのだった。するとダニエルの母親は、乱暴に男の手を払いのけた。スプーンとそこに乗っていたムシコは、派手な音を立てて床に飛び散ってしまった。

 「どうして食べないんだ?」

 「食べたくないって言っているでしょ!息子が行方不明なのよ。何も咽を通らないわ!」

 

 ダニエルの母親は、プイと怒って店の外に出て行ってしまった。男は、拾い上げたスプ-ンを一口ぺろりとなめ、そのスプーンを食いかけのムシコの中に突き刺してから後を追った。こうして挨拶も無く入ってきた二人は、さよならも言わずに出て行ってしまった。

 

 店は、再び静かになった。冷蔵庫のモ-タ-だけがかすかにうなっている。私は椅子に座ったまま、しばらくムシコの入った器をながめた。雪のように真っ白だったヨ-グルトが、無慈悲に踏みにじられた雪解け道のような汚い色になっている。アーモンドやクルミや干しブドウといったドライフル-ツと蜂蜜が、男に舐められたスプ-ンにかき回されて酸っぱい匂いを放っている。私はムシコを入れた容器を持って立ち上がると、スプーンごとゴミ箱に投げ捨てた。そしてそのまま店を出て、どこかのカフェテリアに行って朝食を取ることにしたのだった。

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