第6話 本当の醤油

昼の仕事を終えて妻のカルメンと家に帰ると、門の前で田中さんがしかめっ面をして待っていた。田中さんは、私達が借りていたアパ-トの家主である。話がある、と言って私の家に来ることになっていたのだ。

 「キタちゃん、遅いよ。午後5時半に会う約束だったでしょ?」

 

 田中さんは、もともとヒヨコの雌雄鑑定士としてバルセロナに移住した最初の日本人である。現在は街の中にいくつかのアパ-トを所有し、その家賃収入で悠々自適な隠居生活を送っている爺さんだ。出身は京都、といつも言っているが、本当はブラジルの二世である。京都で生まれたのは彼の両親で、昭和の初めに日本を出てブラジルに渡りサンパウロの郊外で牧場を営んでいたのだった。小さい頃から両親の仕事を手伝い大変な苦労を味わった、という話は毎回会うたびに聞かされている。カルメンは、説教好きでおせっかいな田中さんをあまり好きではない。私もあまり好きな方ではないが、それはあまり顔には出さないようにしている。しかし、カルメンは露骨に嫌な顔をするので、一緒にいる私はいつもヒヤヒヤしてしまう。カルメンは挨拶もそこそこに、さっさと家の中に入って行ってしまった。

 「あんた、自分の店を始めようって人なんだからさ、もっと責任感をというか、自覚を持ってさ、約束の時間くらいは守らなきゃ」

 

 いつ、どんなシチュエ-ションでそんな話をしたか覚えていないが、田中さんからそろそろ独立して自分達の店を持ちたいんじゃないの?と聞かれたことがあった。「そうですねぇ」、と言うと、知人に良い物件があるか聞いてみようか、と言われたので、その場の雰囲気というか流れで、お願いしますと頼んでしまったのだ。そのせいであろう。田中さんはお前の頼みごとを聞いてやっているのだ、というような恩着せがましい態度で接してくる。

 とはいえ、今回の話は悪い話ではなかった。彼の長年の知り合いである中国人のコウさんが店をTRASPASO(トラスパソ)に出しているらしいのだが、場所は良いし家賃も私の予算内だった。TRASPASOというのは、店の営業権利を売買することである。最初にその権利金を払い、後は月々の家賃を支払うシステムで大抵は10年契約である。もちろん、商売が上手く行かない場合、家主の許可を得れば転売も出来る。場所はボルネという旧市街の一画であった。若者向けの飲食店が多く、夜もにぎやかな地区である。

 

 それじゃあ、近いうちにコウさんの店に行ってきます、と礼を言って別れようとしたが、田中さんはちょっとそこのバ-で一杯やろう、と私を放してくれない。

 「どうせ夜の営業が始まるまで時間があるんだろう?一試合ビリヤ-ドをやろう。この前上手い人に教えてもらったから、今日は負けないよ」

 数年前に奥さんを亡くしている田中さんは、とても寂しがり屋なのだ。


***


 「コウさんの店には何時に行っても構わないよ。アポも要らない。ただ、私から聞いて来たって言ってくれればいいから」 

  と田中さんには言われたが、それはあまりにも失礼な気がしたので翌朝電話して相手の都合を聞くことにした。するとコウさんは、たくさんの人がこの店に興味をもっているから今すぐに来たほうが良い、と言う。私はカルメンと二人でタクシ-に乗って出かけることにした。しとしとと雨が降る秋寒の日であった。

 

 コウさんの店では、入り口に置いてある客用の椅子に子供が2人並んで座っていた。チューロス(練った小麦粉を油で揚げ砂糖をまぶした菓子)をホットチョコレートに浸して食べている。2人とも、混血児なのだろう。東洋人独特の切れ長の目と、西洋人らしいウエーブのかかったこげ茶色の髪をしている。大人になったら、エキゾチックな顔立ちになるのだろう。地面に届かない足をぶらぶらさせながら、大事そうにそのお菓子を食べている姿が愛らしかった。

 「こんにちわ。おいしそうだね」

 とカルメンが言うと、子供たちは警戒した目で私達を見た。私が「おじさんに少しくれるかい?」と聞くと、2人そろって首を振った。ここに来た用件を伝えると、お兄さんらしき子が奥にコウさんを呼びに行ってくれた。その間、弟はじっと私達から目を離さないで警戒している。おやつも中断したままだ。

 

 「学校には行かないの?」

 するとその弟らしき子は、唇の端にチョコレ-トをつけたまま答えた。

 「行かない。今日は雨が降ってるから」

 「雨が降っていると学校に行かないの?」

 「そう。雨の日は学校には行かない」

 

 やがて、コウさんが店の奥からやって来て、満面の笑顔を浮かべながら握手を求めてきた。田中さんと同年代と言うことであったが、そのつやつやの表情と黒々とした髪のせいか、ずいぶんと若く見えた。物腰もずいぶんと丁寧である。

 「良く来てくださいました。早速ご案内しましょう」

 

 コウさんは、こんな掘り出し物はない、と力説しながら店内を案内してくれた。コウさんが何度も繰り返すように、確かに良い場所にある物件である。店の大きさの割りに家賃も手ごろだ。しかし店は古く、あちこちがかなり痛んでいた。工事費がかさみそうである。特に厨房はひどいもので、このままでは保健所の検査などとても通りそうにない。屋根の一部が剥がれ落ちて天井のはりや配線が見えていた。黒い油のしみが滲み出ている床には滑り止めの為か、ばらしたダンボ-ルが敷いてあった。コウさんからの説明を受けている間、カルメンは眉間にしわを寄せながら私に耳打ちした。


  「ひどい店ね。何、この匂い?とても臭いわ」

 カルメンがぶつくさ言いながら冷蔵庫の蓋に手をかけたら、

 「あ!そこは開けちゃダメ」

 と、コウさん飛んできた。その慌てぶりをカルメンは面白がって、

 「きっと猫の肉が入っているのよ」と意地悪い笑みを浮かべて耳打ちしてきた。私は、馬鹿な事を言うなと彼女を戒めた。

 

 しかし、厨房の匂いは私も気になっていた。きっと下水の匂いであろう。下水管の工事をしないといけないなら、かなり工事費がかさむであろう。

 「この醤油は置いていきます。よかったら使ってください」

 厨房の隅に18リットル入りの醤油容器が積まれていた。中国製の醤油である。中華料理屋に行くと良くテ-ブルの上に小瓶が置かれているおなじみのメ-カ-であった。この醤油は、色がどす黒くて少し垂らしただけで料理が真っ黒になってしまう。その割りに塩気は薄いのだが、独特の匂いと後味の悪さが残るのであった。もちろん、誠意でコウさんがそう言ってくれている手前、そんな率直な印象など言えるものではない。しかし、カルメンの考えは違っていた。

 「私達は日本製の醤油を使うから要らないわ。この醤油ってあなたが不味いって言ってた醤油よね、キタオ?」

 「醤油の発祥は中国です!」

 コウさんはわなわなと唇を震わせて反論した。こめかみに稲妻のような血管が浮き出している。

 「だから、これが本来の醤油の味なのです」

 

 カルメンの余計な一言で、私は中国料理が日本を始め世界中の料理にどれだけ大きな影響を与えているか、というコウさんの講義を長々と聞かされる羽目になってしまった。

 「で、どうなんですか?契約したいですか?」

コウさんは、今すぐ決めて欲しそうである。しかし、権利譲渡金とざっと目に付く修理代を考えると、それは結構な額になりそうであった。残念ながら無理そうです。と断ると、

 「じゃあ、いくらなら出せますか?」

 「私達の予算は工事代を含めてこれだけなんです」

 と予算を示すと、コウさんは黙りこんでしまった。もう何を聞いてもうんともすんともいわない。そのまま何十分でも、うなったり黙っているつもりらしかった。これではいつまで経っても埒が明きそうにない。そろそろ潮時かと思い、「それじゃあ失礼します」、と席を立ちかけた時、コウさんが椅子に座った。私達にも座れと合図した。

 

 「君達は TIANANMENの虐殺を聞いたことがあるか?」

 「何ですって?」

 コウさんは紙を引き寄せて文字を書いた。「六四天安门事件」。中国語の発音は日本語とずいぶん違うけれど、漢字で書いてくれると大体の意味が理解できる。天安門事件は世界中に衝撃を与えた大事件である。もちろん私も覚えている 。

 「あれは確か1980年代に起きた事件ですよね?」

 「1989年。私たち一家はあの事件の直後に北京から逃げ出して来たんだ。私は中国の小学校で数学を教えていたんだが、すべてを投げ打ってスペインに逃れて来た。事件の後は密告が横行していたからね」

 「どうしてスペインに来られたんですか?ヨーロッパだったらイギリスとかフランスとかドイツに行こうなんて考えなかったんですか?」

 「いいや、はじめからスペインにしようと決めていたよ。スペイン人は信頼できると思ったからなんだ。天安門事件が起きた時、中国政府はマスコミ統制を行った。外国の記者たちを真っ先に現場から立ち退かせたんだ。そんな中、スペインのテレビ局だけが最後まで居残り続けた。当局の圧力に屈することなく、真実を世界中に伝え続けたんだ」

 「そうよ!知らなかったの?」母国の誇り高いエピソ-ドに、カルメンは得意顔で相槌を打った。

 「君は日本人、というただそれだけで他のアジアの国から来た移民よりずっと恵まれた境遇にいる。そのことを忘れてはいけない。君は自分の実力だけで自分の店を持てるようになったと思い込んでいるだろう。違うかい?」

 

 何だか話がややこしく、嫌な流れになりそうな時であった。

 「おじいちゃん、おじいちゃん!」

 店の入り口でおやつを食べていた兄弟が、大声を張り上げながらやって来た。

 「もう雨が上がったよ。学校に行こう」

 「学校に行こう」

 と二人してコウさんにせがんでいる。

 「いや、今日はやめておこう。きっとまた、雨が降りだすよ」

 「おじいちゃん」

 「何だ?」

 「先生が言ってたよ。お前たちは、どうして学校に来ないのか?って」

 コウさんは、孫たちに手を引かれて店の外に出た。雨はすっかり上がって、青空がのぞいている。店の斜め前にはシウダデラ公園の並木が見えた。そのみずみずしい緑の木々を覆うように、空には大きな半円の虹の橋がかかっていた。


***


 その後コウさんは値引きをした額を再提示してくれたものの、結局私達はその店の契約はしないことにした。店舗の持ち主に直接問い合わせた所、コウさんが教えてくれなかった事が色々と発覚したからである。それは、新しい契約者となる私達にとって極めて都合の悪い事ばかりであった。

 例えば、店舗のオーナ-は2年後にその店の権利を息子に譲ると言っていた。つまり、大枚を叩いて営業権利を買っても2年後にはその店を出なくてはならないのである。さらにコウさんの店は大変評判が悪く、お役所からも目をつけられている事が判明した。周囲の住民から、悪臭、室外機の騒音など数々の苦情が寄せられていた他、無断で共有地に北京ダック用の鴨を干したり、無許可で建物の内外装の工事をしていたらしい。それらを改善するように裁判所から改善命令が出ていたのだが、コウさんはことごとく無視し続けていたのだった。

 

 カルメンは、その時のエピソ-ドを思い出すたびに、「あやうく騙されかけた」と腹を立てていた。膨らみかけていた夢がしぼんでしまったのは、私も同じであった。

 そんなある日、新聞の社会面に「指名手配中の中国人の身柄を確保」という見出しがあった。見覚えのあるレストランの扉には、警察の立ち入り禁止テ-プが縦横に貼られていた。

 「ねぇ、これあのコウさんとか言う人の店じゃないかしら」

 「本当だ!でも、写真の中国人はコウさんじゃないぞ」

 「そうかしら、あなた達アジア人はみんな同じ顔に見えるわ。どうしてかしら?」

 「そんな事はどうでもいい。この記事には何て書いてある?」

 身柄を確保された男は、写真に写っているレストランのオ-ナ-の息子であった。つまり、コウさんの息子である。新聞のスペイン語は難解な言葉が多い。カルメンにその記事をわかりやすく説明してもらうと、大体こんな事が書いてあった。


 <スペイン国籍女性で病院職員のメルセ・ラジャデイと連絡が取れなくなった、と同僚が訴え続けていた事件は、数ヵ月後に急展開を見せた。当局が重要参考人として行方を追っていた元夫の中国人フリアン・コウの身柄が確保されたのである。フリアン・コウが父親の経営する中華レストラン内に作られた隠し部屋に潜伏していたことが、住民の通報により発覚。警察は彼が元妻であるメルセが行方をくらませた事情を知っているとみて、引き続きフリアン・コウの取調べを続けている>


 その日、カルメンは勤務先であるレストランの同僚や客達など、会う人々に自分がその店に行ったことを話して回った。レストラン内に漂っていた異臭、冷蔵庫に手をかけたときのコウさんの慌て振りなどを、大げさな尾ひれと自分の憶測をつけ足して聞き手の好奇心を煽っていた。

 「そうよね、キタオ?」

 と、私は何度か同意を求められたが、自分から進んでその話を誰かに聞かせようという気にはなれなかった。コウさんの店で大事そうにおやつを食べていた幼い兄弟。学校にも行かず、大人しく店の前に座っていた彼らの姿を思い出してしまうからであった。もしも、彼らの母親が行方不明のまま帰ってこなかったら。そして、父親が何年も監獄にぶち込まれることになったら、彼らはこの先どれだけ寂しい思いをするだろう。そう考えると不憫な気がしてならなかった。

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