第30話 浴室でのコミュニケーション

 暖かい湯に浸かっていると、濡れて凍えた身体と、心までがほぐれていくような気がする。


 浴場は他に使っている人もおらず、貸し切りの状態になっていた。


 昔のことを思い出していた。祖父の姿と沙也加先輩の姿が重なって見え、同時に記憶がフラッシュバックしてくる。


 気が付くと敷地の中を彷徨っていた。雨が降っているのも気にならず、ただどうしてこうなったのだろうかを考え続けていた。


 浴室の扉が開き、優子が入ってくる。


「夏実ちゃん、大丈夫?」


「うん、大丈夫。身体を洗ってから入ったし」夏実の答えに優子が声を上げて笑う。そういう意味で言ったわけではないことに気づき、自分でも可笑しくなって夏実が笑いだす。


「そうじゃなくって、何か様子が変だったから」


「ごめんね、何でもないから」夏実がぎこちなく答える。


「そうなんだ……」優子はそれ以上追求せずに、黙って身体を洗い始める。


「あのさ、話してもいいかな?」夏実が黙っていられずに、自分から話し始める。うん、いいよと優子が返事をする。


「あたし、沙也加先輩を怒らせちゃったみたい」不安そうなか細い声になる。


「またしつこくしちゃったの?」優子が身体を流して、湯船に入ってくる。


「あのね、先輩に対局はしてもらえたんだけど、コミュニケーションがうまくいかなかったのか、楽しい囲碁にならかったって、そう言ったら怒られて……」またしても思い出してしょんぼりとする。


「うーん、なかなか難しい先輩だからね」


「あたしは先輩のことが大好きで、あたしのことも好きになって欲しいのに、でも先輩はそうじゃなくて」夏実がたどたどしく説明している様子を見て、優子が軽く笑う。


「何だか恋愛相談受けているみたいだね。女子校で百合なんてのは王道だね」優子がにやけながら妄想する。


「百合? 花のこと?」夏実が優子の発言を聞いて不思議そうに首をかしげる。


「それこそ何でもない、何でもない」優子が慌てて誤魔化す。


「コミュニケーションがうまくいかないことって、よくあるよね」優子がしみじみと語る。


「よくあることなの?」夏実が驚く。


 自分の目から見ると、周りのみんなはうまくやっているように見えて、自分だけがこんなにも失敗しているように感じられる。


「誰だって他の人とやり取りをする中で、誤解したりすれ違ったりそんなことばっかりだよ。悩んでいない人なんていないと思う」


 そういうものなのだろうか、と夏実は思う。


 前の学校では人が少なかったから、努力するまでもなく、みんなと分かりあえていた気がした。けれども他人と意志を疎通するということは、難しいことなのだと改めて気づかされる。


 誰かのことを完全に理解したり、分かってもらったり、そういうことは出来ないとしても、こうして話を聞いてもらえるだけで心がずいぶんと楽になるのを感じる。


 たとえ不完全で未熟なものであっても、その対話には意味があるのだと夏実は思う。だから人は伝え続けることを諦めないのだと。


「あ、そうだ。麗奈ちゃんに戻ってきたこと話しておかないと」優子が約束していたことを思い出す。


「麗奈ちゃん、怒ってた?」夏実が心配そうに尋ねる。


「心配してたよ、何かあったんじゃないかって。後で謝りにいかないとね」優子が微笑みながら言う。


「うん、私伝えに行く」夏実は勢いよく立ち上がる。


 あたしも諦めたくはなかった。たとえ言葉が届かずに伝わらなかったとしても、届けようとする意思だけは伝わる。その行為は無駄ではないと。

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