第28話 夏実の記憶、祖父との対局

 あたしが小学校を卒業する少し前に、おじいちゃんは病気で倒れた。一ヶ月ほどで病院を退院してきたけれど、以前のように元気に動き回れなくなり、部屋で寝ていることが多くなった。


 だからあたしはおじいちゃんの部屋に行って、ゆっくりと囲碁を打ち始める。体調が悪くてもおじいちゃんはとても強くて、しょっちゅう負けてばかり。まだまだ学ぶことが沢山あり、いつまでもこの生活が続くとそう信じていた。





 庭に満開の桜の花が咲き乱れ、暖かな春の光が窓から差し込むある日、夏実は祖父の部屋に呼び出される。祖父は珍しく布団から起き出し、碁盤の前に正座し背筋を伸ばして凛として座っていた。


「おじいちゃん、起きてきて大丈夫なの?」夏実が心配そうに尋ねる。


「いいからお前も座れ、対局だ」祖父が告げる。夏実は戸惑いながらも、祖父の向かい側に座り、対局の準備を始める。


 ニギリで先手後手を決め、対局時計を準備して互いに持ち時間を設定する。


 いつもの指導碁や楽しむための対局とは違い、本格的で真剣な対局をするのだと感じさせた。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 深々と挨拶をして始まる。祖父が先手を取った。


 最初の一手がなかなか打たれない。祖父は何かを考え込んでいるようだ。その間にも対局時計は動き、祖父の持ち時間を刻々と減らしている。


 夏実は困惑する。最初の一手が打たれる場所はそれほど種類が多くなく、多少迷いがあったとしても持ち時間をこんな風に、無駄に費やすことはまずありえないからだ。


 やはり体調が悪いのではないだろうか、そう思って祖父の顔を見ると真剣に碁盤を睨みつけていた。今まで見たこともないような気迫のこもった表情だった。夏実は声をかけるのをためらう。


 たっぷりと五分近く考えた後、祖父が一手目を打つ。碁石と碁盤がぶつかり合う、乾いた音が部屋に響く。初手、天元。夏実はその手に驚く。


 天元とは盤面の中央にあたる位置のことを指す。


 初手に打つ場所は碁盤の角のいずれかを押さえるのが定石となっているので、最初から真ん中に置くのは滅多に見られない手だった。


 夏実も気合いを入れ直す。どんなつもりで打ったのかは分からないが、気合の入り方といい、何かこの一局に思うものがあることが感じられた。


 この対局、生半可な覚悟では打てないと思う。自分の全てをぶつけるつもりで打たなければならないと集中する。


 この対局は荒れた碁になった。いつもの指導するような優しく、正しい道を指し示してくれるような囲碁ではなく、祖父が全力で勝負を挑んできてくれるのが、夏実には分かった。そのことが恐ろしくもあり、嬉しくもあった。


 祖父に一人前として扱われているような、そんな気がしたからだ。引き離されないように、必死に食らいついていく。


 初めて見る、祖父の知らない一面だった。こんなにも激しく、熱い思いがあったのかと驚く。分かりあえていたようで、まだまだ知らないことがこんなにもあったのだと、感心するような気持が生まれる。


 祖父の呼吸が、ぜえぜえと荒くなる。夏実が心配になって声をかけるが、余計な心配はするなと返される。


 打たれる手の一つ一つが、命を賭けているような重みがある。それに対抗するため夏実も、自分が出来る精一杯まで考えて、考えて打つ。ここで情けない囲碁を打ちたくはないと、そう直感する。


 自分の囲碁が、祖父と比べてとても軽く感じられるのが悲しかった。もちろん、積み重ねてきた経験があまりにも違い、比べるのもおこがましいことなのだが、祖父に十分に応えられていないのが情けなくなる。


 祖父が嫌な感じの重苦しい咳をする。口元を押さえた手には、血がべっとりとついていた。


「おじいちゃん!」夏実が悲鳴を上げる。


 このままでは祖父が死んでしまう、とにかくお医者さんを呼んでこなくては、と立ち上がろうとする。


「心配……、するな……」祖父が、かすかな声で立ち上がりかけた夏実を制止する。


「俺の番だったな」祖父が手に着いた血をぬぐって、次の一手を打つ。震えながらも、しっかりとした手を打った。


「誰か呼んでこないと、おじいちゃんが死んじゃうよ」対局を中断しようとする夏実を、祖父が一喝する。


「いいから最後まで打て! 次は・・・・・・ねえんだ」怒鳴った表情が鬼気迫るものになっていた。夏実はその迫力に押されて、立ち上がれずにいた。


 一刻も早く終わらせて誰かを呼びに行く、そう決めて震える手で石を置き、対局時計を押す。


 祖父は盤面を睨みつけていて、必死に考えているのが見て取れる。夏実はその姿を見て、自分の体のことも覚悟のうえで打っているのだと、そう思った。


 次の一手がなかなか打たれない中、対局時計が祖父の持ち時間が切れたことを告げて、秒読みに入る。


 秒読みとは、持ち時間がなくなった場合すぐに負けにするのではなく、一手ごとに三十秒以内に打つなど、一定時間以内に打てれば対局を続けられるという方式のことで、その一定時間内に打てなかった場合に採用される。


 対局によって採用されたり、されなかったりするが勝負には勝っているのに、時間切れで負けるということがなくなる。


 その代わり、対局がいつ終わるかの時間が読みづらくなるため、プロのタイトル戦や、大会での決勝戦など時間がいくらかかってもよい場合に採用されることが多い。


「持ち時間切れ、か。皮肉なもんだな……」祖父が自虐的につぶやく。顔色は蒼白になり、容態の悪さを伺わせる。


 震える手で次の一手を打ち、対局時計のボタンを押す。夏実側のタイマーが進み始める。祖父の毅然とした様子から、時間切れで終わらせるものかという執念のようなものを感じた。


 涙があふれないように必死でこらえる。心配するのも、同情するのも、失礼になると思った。覚悟を決めて打っているのだ。全力で戦わなければいけない、なのに。気づけばしゃくりあげるように泣いていた。


「すまないな、わがままに付き合ってもらって」そう謝った祖父の顔が、不意にいつもの優しいおじいちゃんの顔になる。


 こんなにも辛い囲碁は初めてだった。あたしが不甲斐ないから、おじいちゃんを安心させられなかった。何かを伝えようと必死になって打っているのに、そのメッセージをしっかりと受け取ることができない。


「あだし、最後、まで、打つ、から」言葉が途切れ途切れになる。涙を拭って盤面を見つめる。大好きだと、いままでありがとうと本当に伝えられるのが言葉ではなく、この碁盤を通してのような気がした。


 だからありったけの思いを込めて最後まで打った。


 結果は祖父の勝利に終わる。対局が終わると同時に祖父が倒れ、急いで人を呼びに行く。その後の出来事は断片的にしか記憶がない。


 鳴り響く救急車のサイレンの音とか、悲しんでいる母親の姿とか、そうしたものが次々と浮かぶ。


 誰も、倒れる直前まで囲碁をしていたことを責めなかった。打っている途中で具合が悪くなり、すぐに人を呼んだのだろうと思っていた。祖父が血を吐いてもなお、対局を続けていたのだと、誰かに打ち明けることが出来ずにいる。


 退院してきた時には、すでに手遅れで最後を自宅で迎えたかったのだと聞かされる。祖父は自分の時間が残り少ないことを知っていたのだ。


 その時間を、惜しげもなくあたしとの対局に使ってくれた。それに対して、自分は何をすれば返せるのだろうか。


 お葬式が済んで火葬が終わり、小さな骨だけになって骨壺にしまわれている時も泣けずにいた。周りで起きている出来事にやけに現実感がなくなり、本当にいなくなったのだと思えなかった。


 誰もいなくなった祖父の部屋がやけに広く感じられ、その時にようやく初めて、いなくなったんだと感じられた。あたしは、声を出して静かに泣いた。


 そんな中、祖父の知り合いで、囲碁のプロ棋士の人と話をすることがあった。本気でプロを目指したいのなら、そのための学校に入った方がいいと。


 祖父と交わした約束を思い出す。祖父の代わりにプロになって、見られなかった景色を見るのだと。その言葉を嬉しそうに聞いてくれていた。


 最後の対局で伝えたかったメッセージは何だったのだろうか、祖父の見ていた景色の重さに押しつぶされそうになりながらも、懸命に考え続ける。


 その答えを見つけるには、今のまま普通の生活を送っていたのでは難しくて、そのうちに忘れてしまいそうで怖かった。


 あたしは両親を説得して、リンドウ女学園に転入できるようにしてもらった。転入試験は難しかったが、どうにか入ることに成功する。


 新しい環境での生活は慌ただしく、今のいままで祖父との対局のことを忘れていられた。


 けれども沙也加先輩との対局で思い出す。あたしがおじいちゃんを殺したのだと。プロになるためには、親しい相手であっても囲碁で殺すぐらいの覚悟がなければ勝ち上がってはいけない、そう伝えたかったのだろうか。


 おじいちゃんと共に過ごした、囲碁を楽しむ穏やかな日々は間違っていた、偽物だったのだろうかと悲しくなる。


 自分にはできない。約束を守れそうにないことに、後悔の念が押し寄せる。

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