第12話 賭ける思い

 立て続けに三回対局をした後で、辺りもすっかり暗くなってきたため沙也加は碁会所を出ることにした。気をつけて帰るように、と声をかけられながらビルの階段を下っていく。


 沙也加は一つため息をつく。家には帰りたくなかった。帰れば母が男を連れ込んでいるかもしれない。そうした場合は、家を出ていくように暗に促され、居づらくなる。自宅は自分のいるべき居場所ではなかった。


 自分の力で生活ができない限り、居場所なんてどこにもない。そう思っている。

囲碁を始めたのは、小さい頃にテレビを見たのがきっかけだった。まだ十代の半ばに見える少女が大人と対局をして対等に戦っている姿に驚いた。そして、その少女が囲碁のプロとして賞金を手に入れて、大人と同様にお金を稼いでいることを知ってさらに驚く。


 子供というのは大人に養ってもらわなければ何もできない、無力な存在だから冷たくあしらわれる。大人になるまでの長い期間を、そうして耐えながら生きていかなくてはいけない、そう思っていた沙也加にとって別の道があるということは、福音のように思えた。


 囲碁を打つことが、自分の居場所を手に入れるという目的に、もっとも最短距離でたどり着けそうな方法だと確信した沙也加は、どうすればプロになれるのかを一生懸命に調べて、考えた。


 何よりもまず、囲碁を打つ機会を作らなければいけなかった。けれども親はあてにならず、クラスメイトでも囲碁をやっている人はいなかった。


 どうすればよいのか途方に暮れたところで、たまたまビルにあるこの看板を見つけた。碁会所が何をするところなのかを当時は知らなかったが、碁という文字がついている以上、何かしらの関係があるのだと思った。


 けれども、お金がない上に見知らぬ場所にいきなり一人で飛び込んでいく勇気がなかった沙也加が、碁会所の傍をうろついていた所、様子をみていた席亭から優しく声をかけられる。


「囲碁に興味があるんだったら、入ってきなよ」


「だけど、お金ないし……」


「お金なんて、そんなお嬢ちゃんからは取らないよ」冗談を言われたみたいに、明るく笑って沙也加を招き入れる。その笑い声に安堵して、碁会所の中に足を踏み入れる。


 そこは幼い沙也加にとっては、大人の世界を覗き見たような不思議な場所だった。碁盤と大人が並び、向かい合って時には楽しそうに、時には真剣に囲碁を打っていた。


「おう、ちっちゃいお嬢ちゃんがいるな。どしたんだい? まさか席亭さんがさらってきたんじゃあるまいな?」タバコをくわえながら囲碁を打っていた男性が、沙也加に気づいて声をかけてくる。


「バカな冗談はよしとくれ、ほらこの子が怯えちゃってるだろ」


 さらうという言葉に反応した沙也加は、男性から身を隠すように席亭の後ろへとしがみつく。


「あっはっは、なんだい席亭の孫か親類の子かい?」


「違うんだけど、どうやら囲碁に興味があるみたいでね」


「へえ、そいつは変わっているけど将来有望だな。俺がいっちょ相手してやろうか?」


「まだ打っている途中だろう? 初心者だろうが、子供だろうが本気で勝負する人にいきなりは打たせられないよ。ところで、キミは囲碁は打ったことはあるのかい?」席亭が沙也加に尋ねる。


 沙也加はどう答えればいいのか返事に詰まる。囲碁を打ったこともない、と聞けば追い出されるんじゃないかと不安になる。


「打ったことはないのかな? 大丈夫だよ、一からルールを教えてあげるから」優しく言葉をかけられる。


 大人にこんな風に優しくされるのは初めてだった。自分はここにいてもいいのだと、承認されたことが嬉しかった。


 それから碁会所に通わせてもらった。料金を払うことが出来ない、という沙也加に他のお客さんも喜んでいるからサービスだよ、と好意で利用させてもらっていた席亭には頭が上がらない。


 決して上達が早い方ではなかったが、遊び半分や趣味でやっている人たちと比べて沙也加は真剣に打ち続けた。プロになるという、明確な目標が存在しているのもよかったし、他に道はないという覚悟もあった。


 その甲斐もあって小学校を卒業するころには、真剣にプロになることを周りも考え始めるだけの腕前になっていた。プロになるための道のりはいくつかあるが、席亭が沙也加に進めたのは、近くにあるリンドウ女学園の囲碁専攻コースへと通うことだった。


 幸い、経済的な事情を抱えた生徒でも進学が出来るように授業料が免除される制度もあり、沙也加は無事に入学することが出来る。中学校に入ったことを実の親よりも喜んでくれたのは席亭だった。

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