第一話 ブラジャーに関する一考察 4 

 それからがまた大変だった。

まったく、世の中の女性という女性は、どうやって毎朝あれを身につけているのだろうか。


とにかく、背中でフックが留まらない。そもそも手が届かない。

届いても、背中で留め具がどうなっているかわからない。ブラの右端と左端が、背中の中央で、ひたすら宙をむなしくさまよう。


 二度ほど背中が攣った。


 偶然フックが留まるまで、かなりの試行回数を要した。うまくひっかかったときには、感極まって思わず顔を覆ったほどだ。


 学校に着いたときには、もう肩が凝っていた。ブラをつけているためというより、その前の悪戦苦闘のせいだ。


 その日も、体育の授業があった。社会科準備室のドアノブをひっぱたき、中に入り、着替えてそのドアから出てきたときには、瀧は手のひらを拳でばちばち叩いていた。

バスケができるなら、ストレスも少しは解消されるというものだ。先生バスケがしたいですと、思わずつぶやきがもれるほどだ。


 体育館のバスケットコートを縦横無尽にかけまわったあと、ふと男子が使っているコートのほうに目を向けると、彼らの半数ほどがこちらを見ていたのだが、そのほとんど全員が「がっかり」という顔をしていた。額に手を当てて、苦悩の哲学者か何かみたいな顔をして、首を振ってる者までいた。


 外見は三葉になっている、ということをその一瞬だけ完全に忘れて、瀧は拳をぶんまわして大声で言った。


「おまえら、ほんっと、うぜー!」



「まあ、急激に男ウケは良くなったわ。三葉は。このところ」


 勅使河原が唐揚げに箸を突き刺しながら、そう言った。

昼休み、グラウンドの脇にある植樹された一角で、瀧と勅使河原と早耶香でランチをとっていた。


廃棄予定の生徒用机と椅子が積み上げられており、それに腰掛け、グラウンドで行われているミニサッカーを見物しながら三人は弁当を食べた。


昼時は、ここで三人で昼食をとるのが三葉のならわしのようだ。そういうならわしにはつとめて抵抗しないというのが、瀧のここでの基本方針である。


「最近、何日かにいっぺん、人が変わったようになるよねぇ」

「え」


 早耶香の指摘に、瀧は一瞬ぎくりとしたが、すぐに、

(そりゃそうだよなぁ)

 耳の後ろをかきつつ、納得してしまう。


 どうにも、地が出てしまう。というか、「自分は今、三葉なのだ」と強く意識したときにしか、演技ができていないのだ。

人が変わったと言われても、しかたがない。


 それにしても……。

(俺がこいつの中に入ったことで、男ウケが良くなるって、どういうことだ?)


 そういう疑問を、それとなく口にしてみた。


 勅使河原の話すところによれば、「さばさばしていて気持ちよい」「隙が増えた」「つっこみにキレがある」「なんか理解可能になった」「挑発しとるのか」などの理由により、男子のあいだで、三葉の好感度が非常に上がっているのだという。


「何だよそりゃ……」


 瀧はそういって、口の端を曲げたが、しかし「理解可能になった」というのはわかる気がした。中身が男なんだから、それは男には理解可能だろうな。


「距離を詰めようと思って、話しかけにいった連中もおったはずやぞ」

「へぇ、そうなんだ」早耶香が身体をひねって勅使河原のほうを向く。

「何だかしょげかえって戻ってきたけどな。覚えとらんか?」

「あー、そういえば……」


 何やら二、三人連れだって、急に席に近づいてきて、よくわからないことを話しかけに来た連中がいた気がする。


 唐突だったので、

《ああ? 誰だっけ?》

 と素の反応を返したら、すごすごと帰っていった。


 そのことを述べると早耶香は「かわいそぅ……」と半笑いでつぶやいた。

ぜんぜん同情していない。早耶香のそういう「気のなさ」がおかしくて、瀧もつられて笑った。


 笑ってから、ふと考え込んだ。


〝オリジナル〟の宮水三葉は、勅使河原が言ったようなことの、逆だということか。


 さばさばはしていない、ひょっとしたら、じっとりしている、つっこみにキレがない、理解困難で挑発するようなところはない、そんなに男ウケはしない女、宮水三葉。


 何だろう。かすかな違和感を覚える。


「あのさあ」瀧は言う。

「おー」勅使河原が応じる。


「俺、じゃない、私、普段ってどんな感じで生活してんの?」


「……おまえよぅ」

 早耶香が言う。「自分が普段どうしとるかを、人に聞く時点で、どうかしとるやろ」


「いや、そうなんだけどさぁ」

 肩ストラップが当たってむずむずするところを服の上から搔きたいな、という欲求を抑え込みながら、説明しあぐねていると、「ちょっとちょっと」と名取早耶香がブラウスの腰のあたりをつまんで引いた。


「ちょっときて。ちょっ……とおいで」

 勅使河原に「あんたあっち向いてて。話聞かないで」と犬に向かって言うように命令して、早耶香は瀧を、少し離れた植木の陰に連れて行った。


「あんたほんとにどうしたの」押し殺した声で早耶香が言う。

「え?」

「うまくかかってないから」

「はい?」


「だーからぁ、もう!」早耶香が瀧の腕をばちんと叩く。

「ホックが上と下で変なふうにかかっとるから。しかもよじれて、それが服の上からめちゃめちゃ透けとるから」


 瀧は手のひらをヒラヒラと振った。

「えー、もう別にどうでもいい」

「よくないわ! どうしたの、普段はもっとちゃんとしとるよね?」

「そっかぁ……」

「いつもはもっと必死でちゃんとしとるやろ」

「必死で?」

「必死やに。いいから、ちょっと後ろ向いて。直すから」

「服の上から?」

「そーよ」


 早耶香は瀧の後ろに回り、ブラウスの上からブラのホックを外し、よじれを直して正しくかけ直すという芸当を見せた。

瀧は礼を言ってから、心底疲れたというため息をついた。


「最近、ため息多いよね」と早耶香。

 瀧はほとんど泣き顔になる。「もーこれ本当めんどくさい」


「そーいうこと言わんの、女の子でしょう」

「なんかもう、女の子じゃないかもしれない」

「はぁ?」


 机や椅子が積み上げてある元の場所に戻ると、「そういえばなぁ」と勅使河原がおもむろに話し始めた。


「中学のときにブラホック外しがめちゃくちゃ流行ったことがあったなぁ」


 早耶香が平手で勅使河原の腕をはたく。「聞くなって言ったやろ!」


「ブラホック外しって何?」瀧が身を乗り出した。「ひょっとして、背後に回って服の上から女子のブラジャーを外すってこと?」


「そうそう」

「そんなの漫画でしか見たことない。物理的に可能なの?」

「可能可能。慣れたら片手でできる」

「ばっかじゃないの!」心の底からあきれたという顔で早耶香が言う。

「マジでできるの? どうやるの?」

「あんたもなんで食いついとるの」


 その日の夜、勅使河原に教わったことがふと気になった瀧は、寝る前にブラをハンガーにひっかけ、本当に片手でできるのかどうか試してみた。


十分くらい試行錯誤したのち、あきらめて寝たのだが、そのブラを元通り片付けておくことを忘れていた。


 次に入れ替わりを起こした朝、アプリに残されていた三葉のメモは、


《全部聞いた》


 一言だけというのが恐い。

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