胡妃南遷(こひなんせん)

ははそ しげき

一、モンゴル西征

「はるか万里の隔たりをこえて、遠路よくぞお越しくだされた。余がたっての願い、お聞きいれいただきかたじけない。礼をもうす」

 堂々たる体躯の初老の男がからだを縮め、小男の老人に礼をつくしている。陽に焼けた逞しい顔をむりに崩して、笑みさえ浮かべているではないか。

 モンゴル帝国の皇帝チンギス・ハーンがかつて人に見せたことのない改まった態度に、同席した通訳と史官は驚いて、思わず顔を見合わせた。

 老人はといえば、臆する風もなく飄々とした趣である。

「なに、それほどのことはござらぬ。わしもいいたいことがあるで、礼にはおよばぬ。ただあいにくじゃが、手ぶらでまいったゆえ、まずご承知おきいただきたい」

 若いころは苦労の連続で、人の意見に耳を傾けることのほうが多かった。しかし大ハーンに推戴され、全モンゴルに君臨していらい十五年も過ぎると、さすがにじぶんの面前で否定的な意見など、口にするものはまずいない。はて聞き違えたか、わが耳を疑った皇帝は、腰を浮かして聞きなおした。

「なんといわれる。不老長生の薬はないとおおせか、長春ちょうしゅん真人しんじんどの」

 通訳が緊張して正確に直訳した。

 配下だけでなく、だれにたいしても容赦はない。面談中、不用意な発言をしたかどで、その場で打ち首になった賓客さえいる。

 長春真人とよばれた老人は平然として、答えたものである。

「さよう、養生の道はあるが、長生の薬はござらぬ」

『長春真人西遊記』の原文に、「有衛生之道、而無長生之薬」と記されている。

「衛生」の同義語に養生と摂生がある。「からだの健康を保って病気にかからないようにすること」の意である。やや説明がいるので補足する。

 古来、仙薬の極致は金丹である。これを服用すれば、天仙となって不老不死を得られる。しかし極めつきの難事である。事実、幾多の皇帝が挑んだが、ほとんどが中毒死した。

 最上薬の金丹に次ぐのが銀丹である。これを服用すれば、天仙にはなれないが、不老長生の地仙にはなれる。また代用品の薬石薬草の調合によっても地仙にとどく仙薬はできる。この時代から九百年まえ、葛氏道かっしどう葛洪かっこうは『抱朴子ほうぼくし』のなかで、熱心に処方を説いている。歳月を経たいま、長春真人は同じ『抱朴子』から別の概念を引き出して説いてみせる。

「医術の進歩もあり、人の寿命は確実に伸びている。自堕落な生活を省み、適度な運動を受け入れ、暴飲・過偏食を正せば、先人よりは長く生きられる。仙薬を求めるまえに、心身ともに健全なからだづくり―養生と養性の道をこそ究めるべきである」

 養生はからだの健康法であり、養性は精神の健康法をいう。これを怠っては寿命を縮めるばかりで、不老長生どころのはなしではないと諭す。全真教の道士長春真人の主張は明快であり、チンギス・ハーンにたいしても仮借ない。

「天地は人間をつくりたもうた。上は帝王から下は衆生にいたるまで、地位の高下に違いはあっても、等しく尊いのは生命いのちである。帝王たるもの、おのが長生をいうまえに、大衆の苦しみに心を寄せ、人民の生命に思いをいたすべきであり、普天率土ふてんそつど(世界中)いずこにあろうと、老百姓ラオバイシン(たみくさ)が安心して暮らせる日々を保証することこそが帝王のつとめである。ましてやその尊い人の生命をじままに奪うなど、あってはならないことだ。天を敬い、民族は異なっても人をいたわり、殺戮を戒めよ(敬天愛民戒殺)――」

 さすがに皇帝をはばかり、それ以上のことばは口には出さず、飲み込んだ。

 一瞬、幕営内が沈黙で凍りついた。チンギス・ハーンの大喝を予想し、通訳の顔から血の気が引いている。しかしチンギス・ハーンは冷静さを失わなかった。

「長生を求めるなら、これ以上人は殺すな、といわれるか。いかにも理のとうぜんである。たしかにわしらはこれまで大勢の人を殺してきた。みな殺しにした城市まちもひとつやふたつではない。しかし、わしらは意識してそれをやった。敵対する人々に報復の恐ろしさを知らしめるためだ。だから反対に、抵抗せずおとなしく降伏した城市では殺戮を禁じてある。その効果はまもなく出よう。わしらの進むさきざきで、殺戮を恐れる人々が歓呼の声を上げて、みずから城門を開くことになろう。そうすればもはや殺す必要はない。しかしそれはあくまでさきのはなしだ。いままだ敵対するものがいる以上、わしらは殺さねばならぬ。なぜか。それが天意だからだ。いま、わしらは天意にもとづいて世界を席巻している。これがため長生が得られぬというなら、甘んじて受ける。もとより敬天愛民はわれらが希求する真理である。殺戮は――、せめて孫子まごこの代には慎むよう、よくよく言い聞かせておくこととしよう」

 かえって長春真人にたいし、笑顔をむけたのである。余裕の微笑といってよい。


「抵抗するものはいっさいを破壊し、すべてを殺せ」

 ホラズム征討のさなか、チンギス・ハーンの口から直接出たことばである。

「降伏した城市は許す」

 同時にこのことにも言及しているが、ことばはひとり歩きする。

 抵抗すればみな殺しだ――インパクトの強いこのことばが敵味方の別なく、モンゴルの掟として喧伝された。戦闘員・非戦闘員の区別はない。抵抗した都市や集落の住民がみな殺しにあい、焼きつくされ、奪いつくされ、華麗な都市が一瞬のうちに廃墟と化した。悪魔の所業の実行者としてモンゴルの悪名は天下に轟き、人々を震え上がらせた。一方、モンゴルの将兵はこのことばに奮い立ち、戦闘意欲をたぎらせた。

 もともとチンギス・ハーンの西方進出は交易拡大を目指したものにすぎず、大軍勢で中東を侵略するなど、当初は思いもよらなかった。この責任の一端は、相手側にもある。

 大ハーンに推戴されて十三年目、チンギス・ハーンは四百五十人の隊商を西域に遣わした。珠宝と薬剤を五百頭の駱駝に分載した隊商である。通過する国々とは、事前に隊商の保護と貨物の通行の安全を保障する外交折衝を済ませてある。

 しかしこの隊商は遥か西方にあるホラズムのオトラル城にさしかかったとき、思わぬ異変に遭遇する。突然ホラズム兵に包囲され、積荷ごと拘留されたのである。容疑は間諜が紛れ込んでいるからだという。通行手形にあたる通関文牒を所持する非武装の隊商である。いいがかりにすぎない。

 難を逃れたひとりの男が駱駝を疾駆し、モンゴルに逃げ帰った。ことのしだいを聞きおよんだチンギス・ハーンは激怒し、ただちに抗議した。

 オトラル城はいまのカザフスタン南部、シル河畔に位置する東西交易の要路にあるオアシス都市である。オトラル城の守将はイナルジュク、国王ムハンマドの近縁にあたる。国王はイナルジュクの報告を鵜呑みにし、残る全員の処刑を命じ、積荷を没収した。

 この時期、チンギス・ハーンは河北をほぼ手中にし、さらに金国の都城汴京べんけい(河南開封)攻略を計画していたが、急遽中止し、すべての兵を西にむけた。非はホラズム側にある。

 敢然として、チンギス・ハーンはホラズム遠征を決意した。復仇が目的である。

 チンギス・ハーンに四人の子がある。ジュチ・チャガタイ・オゴタイ・トゥルイという。全軍を分けてかれらに指揮させた。オトラル・ボハラ・サマルカンドなどホラズムの名だたるオアシス都市が攻撃の対象となって破壊された。

 のちのことだが、ホラズム遠征にはじまるモンゴルのイスラム攻略は、チンギス・ハーンが兵をおさめ帰還するまでに七年の歳月を要した。この間、数十の都城が屠られ、数百万の人々が殺された。凱旋して二年後、大ハーンは波乱の生涯を閉じるが、モンゴル帝国はチンギス・ハーンの死後も西に向かって拡大をつづけ、やがて分立する。

 成立順にいうと、こうなる。アルタイ山以西のジュンガルを継承したオゴタイのオゴタイ・ハーン国、西シベリアから南ロシアにおよぶジュチの子バトゥのキプチャク・ハーン国、東西トルキスタンを領するチャガタイのチャガタイ・ハーン国、アフガン ・イラン・イラク・トルコ・シリアなど西アジアのほとんどを征したトゥルイの第三子フラグのイル・ハーン国、そして全中国を統一するのがトゥルイの第二子フビライの大元だいげん王朝である。


 いまチンギス・ハーンは、長春真人の率直な主張を受け入れようとしている。モンゴル政権下で漢人の統治に、真人の主張ないし全真教の教えを取り入れたいとさえ考えている。

 全真経は儒仏道三教の合一調和を根幹においている。精神・信仰・意志・徳操・品性など心性の修練を重視し、自己救済の修行(真功)だけでなく、他者の救済(真行)も実践する「功行両全」を主張しているからである。道教の教義には珍しく、呪符・呪言の類をしりぞけているのにも好感がもてる。

 力は正義なり。腕力で世界帝国を築こうとする現実主義者のチンギス・ハーンにとって、不老長生の仙薬などこけおどしの存在でしかない。西アジアに遠征中の行宮(宿営地)に長春真人を招いたのはかれの人物と教義を見極めるためで、延命薬が目的ではない。

 西方に版図を拡大したいま、モンゴルの南、漢土の経略が焦眉の急となっていた。

 ――漢人には敬天愛民、戒殺の教えが似合うかも知れぬ。

 還暦を機に心身の衰えを急速に自覚しはじめていたチンギス・ハーンにとって、じぶんなきあと思い描く帝国の将来は、子を越えて孫の世代におよんでいた。


 七十四歳になる長春真人がチンギス・ハーンの招きに応じて謁見した地は、サマルカンドの南、いまのアフガニスタン北部のカラホトだったという。パミール高原から南西に延びる南アジアの大山脈、ヒンドゥークシュ山脈の中部ないしは北側にあたろうか。

 山東莱州(煙台の西端)を起点にすると、片道でも一万四千キロはある。往復に五年の歳月を要したというが、十八人の弟子をひきつれており、寄留した各地で布教活動を行っているから、歩き詰めだったわけではない。帰国後は燕京(北京)にとどまり、弟子を教導した。チンギス・ハーンの容認と優遇を得て、全真教は北方中心に布教伝播し、元代に最盛期を迎える。

 もともと全真教に代表される道教は、中国人の民族宗教だといってよい。道派があり、歴史的には太平道・五斗米道・天師道などがよく知られている。全真教もその流れのひとつであり、八百年を経た現在もなお広く信仰を集めている。北京の白雲観を総本山とする全真経の道観の数が、全体の過半に達しているのである。北方に多く、河北だけに限れば道観のほとんどが全真経で占められているといっていい。

 全真教の発祥は金代にさかのぼる。十二世紀、契丹人の遼を駆逐した女真人が金を建て、漢人の北宋にとってかわり中国の北半を支配するが、百年後モンゴルに滅ぼされる。そんな時代に金の支配下にあった陝西せんせい咸陽の人おう重陽じゅうようが独自に開いた道派である。神仙の啓示を受け山東で布教し、多くの信者を集めた。

 七真人といわれる七人の高弟があり、そのひとりにきゅう処機しょきがいる。道士としての称号が長春真人である。のちに燕京で亡くなる。享年八十。一二二七年七月、六十六歳で亡くなるチンギス・ハーンと奇しくも同年同月の逝去である。

 長春真人と西域行をともにした十八人の弟子はすでに全土に散り、全真教の敬天愛民戒殺の教えを説いて行脚あんぎゃしている。うちひとりが広東の羅浮山らふさんにいたり、南宗五祖の白玉蟾はくぎょくせんにこれを伝え、南宗の教派が全真教に帰依する契機となっている。ちなみに羅浮山は嶺南第一山と謳われる道教の霊山である。北回帰線に近い、広州の東七十キロに位置する。


 チンギス・ハーンは征西が終わりに近づいたころ、西トルキスタン北部のとある河畔で狩猟を楽しんだ。孫のフビライとフラグをともない、すこぶる上機嫌で騎射の術をふたりの孫に伝授した。十一歳のフビライは兎を捕らえ、九歳のフラグは鹿を射殺した。

 孫ほどの子がもうひとりいた。十歳になるイッシンである。長春真人が旅の途中で拾ったという孤児で、チンギス・ハーンに預けていったものである。このときイッシンは飛鳥を射った。鷹である。矢は羽の間を射抜き、落下した鷹は生け捕りにした。

「意図して生け捕ったのか。なぜだ」

 チンギス・ハーンが尋ねると、イッシンはしっかりとした口調で答えた。

「そうです、殺したくなかったからです。日ごろ、おじじさまは無益な殺生は慎むように、とおおせでありました。命あるものは、人も鳥もおなじ。やむにやまれぬ非常のとき以外には、かまえてむやみに殺生してはならない、と戒めておいででしたゆえ」

 おじじさまとは、さきに燕京へ帰った長春真人である。

「獣が襲ってきて命危うきときは、いかがいたす」

「非常のときなれば、迷わず射殺します」

「獣がフビライを襲い、フビライの命危うきときは、どうじゃ」

「フビライさまに加勢し、ふたりして獣を追います。まず生け捕ることを考えますが、手に余れば射殺します。緊急非常の事態であれば、フビライさまのお命守るを優先します」

 まだ年端のゆかぬ子が懸命に答えている。

 チンギス・ハーンは呵呵大笑して、イッシンをフビライ付きの侍従見習いにとりたてた。やはり背格好のよく似た、歳の近い子ばかり十人が起居をともにし、学問を学び武術を修練するのである。成長する過程で容姿や素養に変化が生じるから、おりふし入れ替えが行われる。フビライの影武者の養成である。

 イッシンは一年後、燕京にある長春真人のもとに戻され、全真教の道士として修行することになる。チンギス・ハーンはいずれフビライに、攻略後の中国の国家運営をゆだねたいと考えている。そのさい全真教の教えをもって、漢人を統治する精神的バックボーンにしたいと思っている。付け焼刃であっては意味をなさないが、フビライを修行に出すわけにはゆかない。だからイッシンを、影法師ならぬ影の道士に仕立てようとの思惑がある。

 一方、フラグはなお西域におき、イスラムの地を根こそぎ攻略させようとの構想を大ハーンは抱いている。おなじくフラグにも影武者役となる十名の学友が配される。


 やがて西夏を降したチンギス・ハーンはまもなく逝去し、第三子オゴタイが大ハーン位を継ぐ。その七年後、一二三四年、宋蒙連合軍は金を滅亡する。淮河を境に河南以北はモンゴルの制圧下におかれる。南宋最北端の橋頭堡は漢水を制する襄陽じょうようである。

 金が滅んで二十三年後、チンギス・ハーンから数え第四代のモンゴル皇帝となる憲宗モンケ・ハーンは、次弟のフビライを漠南漢地大総督に任命し、本格的な南宋攻略に着手する。漠南とはゴビ砂漠の南を意味する。フビライは兵をひきい南下する。

 同じ時期、三弟フラグの指揮する征西軍が、サラセン帝国アッバース朝の国都バグダードを陥落した。バグダードは炎に包まれ、財宝は略奪され、多くの住民が虐殺された。マホメットの建国いらい五百有余年の歴史を誇るイスラムの大帝国は崩壊したのである。

 こののちフラグはシリアに進出、アレッポ、ダマスカスまで攻略するが、結局、イラン西北部のアゼルバイジャンにおいてイル・ハーン国を創設する。

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