第4話

 夕刻。ワイシャツの襟に染みる汗。休日前の開放感。賑わう繁華街。


「まずは飯でも食おう。それと、景気付けだ」


 廣瀬はそう言って馴染みの店に僕を付き合わせた。路地裏を歩き数分。隠れるようにひっそりと建つ小綺麗な佇まいの居酒屋。暖簾をくぐれば小さな作りで、奥にいる女将が「いらっしゃい」と出迎えてくれた。


「あら廣瀬さん。お連れ様がいらっしゃるなんて珍しい」


 愛想よく微笑む女将。廣瀬は「たまにはね」と返しビールを頼む。カウンターに隣同士。少しばかり気まずい。


「ところで、なんでまた今日に限って夜遊びしようと思ったんだ?」


「人探しだよ」


「朝言っていたアシュリーってやつか。なぁお前、ちょっと事情を話してみろよ」


 彼は悪い奴ではない。が、時折見せる無神経さとガサツさ。そして何より口の軽さ。それが人によっては気に触る。とやかく他人の事情に顔を突っ込んではつい誰かに喋ってしまうのだ。悪気がない分質が悪い。別に本当のことを話してもいいのだが、社内にばら撒かれて社会的立場を悪くするのは良くない。僕は「終わったら話すさ」とあしらいビールとともに運ばれてきた突き出しを口に運んだ。「食えねぇなぁ」と舌打ちをしつ廣瀬は残念がったが、僕の知ったことではない。





 腹六分目宵の口。店を出た僕は淫猥なネオンに照らされ辟易。兎にも角にも夜の花求めふわりと歩く。「どこへ行く」と聞けば「まぁまぁまてまて」と言うばかり。酒が薄まり意識は鮮。まったく無沙汰に道ゆけば、ようやく「着いたぜ」と廣瀬がにやける。

 黒く大きな店構え。そこに電光散らばり菜豊か。さしずめ夜空に輝く星々のようだ。掲げられた屋号は[e'toile]と記され、薄い桃色のスポットライトに照らされていた。


「ここは店長がちょっとした人でな。よく情報が集まるんだ」


 なるほどちゃんと考えて店を選んでくれたわけだ。ありがたい話である。彼の俗物的性格がほんの少しでも緩和されれば、嫁の一人や二人すぐにでも都合がつくだろうに。もっとも、所帯を持ちたいかどうかは知らぬが。


 廣瀬の後ろに影のように付き添い店内へ。すると「いらっしゃいませ」とスーツ姿の若者が迎えてくれた。


「2名様でよろしいですか?」と聞かれ廣瀬が頷き、「拓巳さんを後で呼んでくれ」と付け加えた。

 案内された席は店の奥。ふしだらな光があまり届かぬ角。どうにも隔離されているようで気分が悪い。落ち着かず足を組んだり戻したりしていると、先程の若者とは違う、目のギラついた中年の男が現れた。雑に整えられた髭にオールバック。高級そうなスーツの下は真っ白なシャツを着用しており胸をはだけさせている。見ようによっては魅力もあるだろうが、僕はこの手の人間に少しばかり恐怖を覚える。しかしその風貌とは裏腹にこちらに向けられた笑顔は爽やかで、柔らかい声質で「いつもありがとうございます」頭を下げた。


「すまないね。呼び出したりして」


「いえいえ。お世話になっていますから、お呼びでなくともご挨拶させて頂くつもりでした」


 二人の話を黙って聞く事数分。廣瀬は「ところで」と切り出し、「アシュリーっていう女の子知らないかな。多分、源氏名なんだけど」と僕の知りたい事をずばりと聞いてくれたのであった。


「……ちょっと分かりませんね。申し訳ありません。もし必要であれば色々と聞いてみますが」


「悪いね拓巳さん。頼むよ。お詫びに今日ドンペリ入れちゃうよ」


 満面の笑みで「ありがとうございます」と裏に消えていく拓巳と呼ばれる人間を目で見送り「そんな金はないぞ」と釘を刺すと、廣瀬は「なに、気にするな。シャンパン代は持ってやる」と見得を切った。


 程なくして現れる女共と適当な話を交わし一時間。「延長は」と聞かれ断る。値段以下の酒で酔いたくはない。会計を済まし外に出ると「さぁ二軒目だ」と意気込む廣瀬。内心帰りたかったが、そういうわけにもいかずまた何件か女のいる店に入って最後に居酒屋へ寄って帰った。アシュリーの情報は得られなかった。源氏名という線は捨てた方がいいかもしれない。

 その後「俺はソープランドに行くが、お前はどうする」と聞かれ、さすがにそれは断った。




 帰宅途中。例の横断歩道。赤信号。そこからはアシュリーが住んでいた部屋を見る事ができた。


「死に損ない」


 突如、頭の中でそんな言葉が響いた。

 死にたくなかった一人の母親は死に、死にたかった僕は生きている。ままならないものだ。もし運命を取り替えられるなら、いつだってそうしてやるのに。


「飛び出せ!」


 響く。響く。


「飛び出せ!」「飛び出せ!」「飛び出せ!」


 不意に訪れる倦怠感。脱力。膝から倒れ、分けも分からず道路に向かって這う。這う。這う。


「お前も死ぬんだ」「お前も死ぬんだ」「お前も死ぬんだ」


「死ぬ……死」


 眩いヘッドライト。日は暮れ、車からは地を這う人間の姿など容易に視認できない。頭から出た汗が下半身に触れる。少しずつ、少しずつ、国道に近づく。


「おい! 何やってんだ!」


 頭の中の声とは違う、よく知る声。


「廣瀬か……」


 先程ソープランドへ行くと言ったはずの廣瀬が僕を抱え込んでいた。


「……貴様、風俗店へは行かなかったのか?」


「考えてみたらドンペリを空けているからな……それよりどうした。飲みすぎたか? よしよしいいだろう。お前の部屋まで運んでやる。なに、礼はビールでいい。冷蔵庫に何本か入っているだろう。さぁ行くぞ」


 有無を言わさずまくし立てる。「部屋はまずい」と伝えようとも口を開くのも億劫だ。酒が回っているせいもあるのだろうが、何やらどうでもよくなってきた。ままよ。もはやどうにでもなれ。



「さぁ着いたぞ。どれ、飲み直し飲み直し……」


 廣瀬が玄関を開け、僕をそこに捨て置いて意気揚々と冷蔵庫に向かおうとした瞬間。硬直。


「あらおかえりなさい。遅かったですわね。お連れ様がいらっしゃるなら、連絡してくださればよかったのに」


 果たして幽霊が電話を取れるのか。そんな疑問はさておいて、アシュリーである。持っていた雑誌を放り投げ、「ビールでございますわね」と勝手に冷蔵庫から缶ビールを取り出しプルタブを開けた。


「芦中。俺は酔いすぎたのだろうか。今、雑誌が宙を舞っていたと思えば、次はビールが勝手に……」


「……ともかく、飲もう」


 廣瀬は僕の提案に首を縦に振り、缶ビールで味気ない乾杯をした。体調は戻ったが、それ故に頭が冴え、この状況をどう説明したものかと頭を悩ませる。彼はどうやらアシュリーの姿が見えないらしい。すまし顔の彼女を見て腹立たしさを覚えた僕は、それが少々羨ましかった。

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