[4] 第二のヴェルダン

 9月27日午前6時、急降下爆撃機による空襲とともに、第6軍の総攻撃が再び開始された。第62軍司令部が置かれた地下壕に近い「赤いバリケード」工場の周辺は爆撃によって黒煙に覆われた。昼ごろには部隊との通信線が途切れ、参謀将校たちが前線に出て情勢を把握して回った。チュイコフは思わしげに呟いた。

「こんな戦闘がもう一度あれば、我々はヴォルガ河の中だ」

 第8軍団(ハイツ大将)の第389歩兵師団(マグヌス少将)と第14装甲軍団の第60自動車化歩兵師団(コーラーマン少将)は、市街地の北西にあるオルロフカの突出部を挟撃していた。

 第51軍団の第295歩兵師団と第100猟兵師団は「ママイの丘」の制圧をめざし、第24装甲師団は市北部の「赤い十月」金属加工工場と「赤いバリケード」製砲工場に前進した。北部の工場は度重なる空襲と砲撃によって、高熱で捻じ曲がった機械や鉄片で覆われていた。第62軍の守備隊はそれらを「カモフラージュ」として利用しながら、巧みな反撃をくり返していた。

 9月28日、ドイツ空軍はヴォルガ河西岸と、河を渡ろうとする船舶を重点的に攻撃した。6隻あった補給船のうち5隻が重大な損害を被り、第62軍の生命線が断たれてしまった。おびただしい数の負傷兵が東岸に退避されず岸辺に放置され、前線の弾丸も食料もまもなく底が付きそうだった。

 9月29日、オルロフカを防衛していた第115狙撃旅団(アンドリューセンコ大佐)は第389歩兵師団により西から、第60自動車化歩兵師団により北東から攻撃された。数の上では敵わない守備隊は死に物狂いで抵抗したが、戦況の不利を勘案したチュイコフは「ジェルジンスキー」トラクター工場のそばにある労働者団地まで後退するよう命じる。

 9月30日、ドン正面軍は攻勢を再開した。オルロフカを攻める第6軍の背後に危機が迫った。大きな損害を被った第6軍の北翼は攻撃のテンポを鈍らされて攻撃開始から10日後、ようやくオルロフカを占領する。あるドイツ兵はこのように書き送っている。

「スターリングラードを守る敵ときたら・・・想像しがたいほどです。まるで怪物です」

 9月31日、パウルスは工業地帯への進撃を速めるために、市の南部から第94歩兵師団(プファイファー中将)と第14装甲師団(ラットマン少将)の出撃を命じた。

 これに呼応する形でチュイコフは第193狙撃師団(スメホトヴォロフ少将)、第39親衛狙撃師団(グリエフ大佐)、第308狙撃師団(グルチエフ大佐)を9月27日から10月3日にかけて東岸から呼び寄せた。3個狙撃師団は直ちに工場地帯の援護に向かった。

 10月1日、「ママイの丘」を攻めたてていた第295歩兵師団が第13親衛狙撃師団の北翼にある峡谷に侵入した。第13親衛狙撃師団の残存部隊はぎりぎりの距離まで敵を引き寄せ、短機関銃や小銃、手榴弾などで応戦した。だが、夜間に第6軍は放水路を通ってヴォルガ河畔に到達し、北から第62軍の背後を襲った。ロジムチェフは投入できる全ての部隊を差し向け、何とか窮地を脱した。

 10月2日、第6軍は第62軍司令部の真上にある石油タンクを砲撃した。タンクに砲弾が直撃し、まだ底に残っていた石油に引火した。燃える石油は司令部の周囲に広がり、使えるのは無線送信機だけだった。安否を確認するため繰り返し打電してくるスターリングラード正面軍司令部(9月30日、南東正面軍より改称)に対し、チュイコフはようやく応える。

「煙と炎の中にいる」

 ヒトラーはスターリングラードでなかなか勝利を収められないことに苛立ち、9月24日にハルダーを参謀総長から解任した。ハルダーはパウルスの唯一の庇護者であったため、パウルスはヒトラーからの批判と圧力で極度の神経症にかかっていた。部下たちは疲れ切り、士気は上がりようもない状態だった。ある将校は第1次世界大戦の激戦地を引用して、次のように記している。

「スターリングラードは第二のヴェルダンとなるのか。ここでは、誰もが大いにそれを懸念している」

 チュイコフもまた、疑問を抱き始めていた。急速に狭まる河岸を守れるのだろうか。稚拙な反撃をくり返して大きな損害を受けながらも、ドイツ軍を痛めつけているのは事実だった。もはや選択肢はないと悟ったチュイコフは市を守る決意を新たに、スローガンを発表する。

「スターリングラードを守る兵士にヴォルガ河の背後に土地は無い!」

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