第9話 直盛

 永禄三年(1560年)五月十五日、直盛が所属した先発隊は池鯉鮒ちりゅう(愛知県知立ちりゅう市)に、十七日には鳴海なるみ方面に進出し、付近の村に放火した。その後、今川義元は十八日に本陣を沓掛くつかけ(愛知県豊明市)に置いた。


 十九日明け方、今川軍は丸根城、鷲津城を落とした。


 義元は丸根、鷲津の戦勝を聞き、気を良くして田楽狭間でんがくはざまで乗っていた輿を降りて休息した。


 そこに信長の出陣を聞いて突出してきた佐々政次、千秋四郎らの首が届けられた。この戦勝を喜んだ義元は



「余の旗の向かうところ、鬼神もまたこれを避ける」



 と言ったという。


 井伊直盛も織田軍の弱さを知り、安心しきっていた。これならば尾張は易々と通過することができるだろう。直盛だけでなく、今川軍の誰もがそう思った。


 義元が休息していると、近所の寺社から祝いの酒が届けられた。


 今川軍が織田軍に勝つということは領主が織田から今川に変わるということだ。近所の寺社は新しい領主に早く好かれたかった。それだけ租税の免除や、寄進を多く受けられるからだ。織田領の領民すら今川軍の勝利を確信していたと言える。


 義元はここで昼食を取るように指示し、馬廻にも酒を勧めた。今川軍は武器を置き、緊張を解いてくつろぎだしたのだ。


 また少々脱線するが、戦国時代に昼食を食べるというのは京文化だった。尾張などの田舎にはなかった文化だ。


 今川家は室町幕府の重臣なだけあって京文化に精通していたと考えられる。それが田楽狭間でも昼食を取るという行為につながっていったのだろう。


 もし今川義元が田舎に生まれ、京文化など知らなかったならば、この戦場で昼食を取るという油断は生まれなかったかもしれない。


 その頃、直盛は義元のいる本隊からおよそ一キロメートル前方にいた。義元同様、昼食を取っていたと考えられる。


 箸を進める直盛の手に雨粒が落ちた。



(ん、雨か?)



 直盛が空を見ると真っ黒な曇天だった。素人の目から見ても嵐が来るとわかる空だ。


 直盛の予想は当たった。雨は雹になり、直盛が体験したことのないような大荒れの嵐になった。


 その時、直盛たちのいる先手衆の側面から織田軍が現れた。



「何!?」



 直盛は箸を放り投げて武器を探した。しかし、嵐と奇襲の混乱のせいで先ほど置いた武器の位置がわからない。仕方なく、腰に差していた刀を抜いた。


 しかし、状況はすぐに悪くなった。直盛の部隊は次々と討ち取られ、直盛自身も斬り防ぐ場面が多数あった。


 周りに今川家の兵が少なくなり、駆け回っている兵のほとんどが織田家の兵となった。



(もはや、これまでか)



 直盛はもはや逃げられないことを悟り、ここを死に場所とすることに決めた。


 直盛は奥山孫市郎に



「介錯を頼む。亡骸は国に持ち帰り、葬儀は南渓和尚に頼め」



 と言って腹を斬った。


 この桶狭間の合戦で死んだのは井伊直盛だけではない。井伊家では惣右衛門、源右衛門、彦市郎、孫四郎。小野家も但馬守の弟に当たる玄蕃げんば、源吾の二人が死亡した。井伊家全体の死者数は二百人ほどだったと考えられる。


 井伊直盛、享年三十五歳であった。




   ###




 次郎法師は直盛の死を聞いたとき



「まさか……」



 と呆然とする想いであった。出陣の際に感じた不安感が的中したのだ。次郎法師の目からは止め処なく涙が流れた。


 悲しみのうちに直盛、さらには一緒に散った者たちの葬儀が行われた。次郎法師は南渓和尚の弟子として一緒に経文を唱えた。直盛の位牌には『龍潭寺殿天運道鑑大居士』と刻まれた。


 養父を失った直親は悲痛な想いで葬儀に参加した。直親は直盛を本当の父のように尊敬していた。まだ教えてもらいたいことが多くあったことだろう。



「私は、二度も父を失ったのか」



 直親は葬儀の場から離れ、外に出る。空には直親の気持ちなど知らないかのように満天の星空が広がっていた。




   ###




 直盛の死は井伊谷に暗い影を落とした。しかし、その影を喜んでいる人物がいた。小野但馬守である。


 小野但馬守は直盛の葬儀が終わると自室で酒を飲んでいた。父の和泉守がそうしていたように、夜空の月を見ながら酒を飲むことが趣味になっていた。



「直盛が死んだか。これで、邪魔者がまた一人……」



 小野但馬守は弟たちが死んだというのに悲しんでいる様子はない。それどころか、直盛が死んだことを喜んでいるようにも見えた。


 小野但馬守の目標は井伊谷の支配である。その目標に邪魔となるのは井伊家の人間だ。


 今川義元が戦死したことは意外だったが、一緒に直盛が死んだことは僥倖だったいえるだろう。



「次は……あいつか」



 小野但馬守は持っている杯を傾ける。まるで但馬守が月を飲んでいるかのような情景だった。

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