赤鬼の母・井伊直虎

前田薫八

第1話 許婚

 戦国時代。一般にはあまり知られていないが、戦国の世に活躍した女性は数多くいた。


 おし城主の長女として豊臣軍から城を守りぬいた甲斐姫かいひめ


 立花宗茂たちばなむねしげの正室で、七歳にして城主となった立花誾千代たちばなぎんちよ


 最上義光もがみよしあきの妹であり、二度も戦場に出た義姫よしひめ


 これらの戦国に生きた女性の中で、特に異彩を放っている存在がいる。井伊直虎いいなおとらという存在だ。


 この小説は、戦国の世を男として生きた女性、井伊直虎の生涯を追ってみたいと思う。




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 天文十三年(1544年)秋。ススキ野原で二人の子供が遊んでいた。ひとりは子供の可愛らしさが前面に出ている少女。もう一人は凛々しい眼つきをした少年である。周りに大人はいない。二人だけの、子供の世界だ。


 少女の名前は円姫えんひめ。後に次郎法師じろうほうし、井伊直虎と呼ばれる女性である。


 その近くにいる少年の名は亀之丞かめのじょう。数え年九歳にして円姫の許婚であった。



「亀之丞、亀之丞」



 円姫が亀之丞のもとに走り寄る。手にはあふれんばかりのススキを抱いていた。



「ススキ、こんなにもいっぱい取れたよ」



 円姫は亀之丞に押し付けるように取ってきたススキを見せる。亀之丞は少々困った顔をしながらススキを受け取った。



「円姫、こんなにもススキを取ってどうするつもりなんですか?」



 円姫がニッ、と笑う。



「みんなにあげるの。今夜は満月でしょう? きっとススキをあげればお団子を作ってくれるから」


「円姫の目的はそれですか」



 亀之丞も円姫につられるように笑った。あどけなさが残る円姫には満月を愛でる風流よりも、口の中に広がる甘味の方が魅力的なようだ。


 自然と二人の間に沈黙が流れる。嫌な沈黙ではない。二人が見つめあい、お互いに心を通わせた沈黙だ。


 その沈黙を亀之丞が破る。



「円姫。円姫は、私のこと、好き、ですか?」



 亀之丞が顔を赤らめながら尋ねる。九歳の子供にしてはなかなか重い言葉だ。



「……」



 円姫が不思議なものを見るような目で亀之丞を見る。なぜそんなことを訊くのだろう、とでも思っているのか。


 円姫が先ほどと同じような笑みを見せる。



「うん、好きだよ」



 その言葉を聞いた亀之丞はほっとした。


 親同士が決めた結婚だ。亀之丞としては円姫に好かれているという自信がなかった。



「私も、好きです」


「うん、知っている」



 二人の顔が赤く染まりながらも笑顔になる。二人を妨げるものは何もなかった。



「私は、何があっても円姫を好きでい続けます。だから、円姫も……」


「うん、私も亀之丞のことは好きでい続ける」


「約束ですよ」


「うん、約束」



 円姫と亀之丞は指を交わした。


 子供の、たわいもない約束であった。




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 遠江国とおとうみのくに引佐郡引佐いなさぐんいなさ、現在の静岡県浜松市北部、ここに井伊谷いいのやと呼ばれる場所がある。代々、井伊家が守ってきた由緒ある土地だ。


 後の井伊直虎、円姫は井伊家本家の長女として生まれた。兄弟はいない。井伊家本家にとってはただ一人の大事な娘なのである。


 円姫の父親は井伊直盛いいなおもりという。いかにも戦国の男を象徴するような武骨な様相をしていた。


 その直盛がある寺院に来ていた。秋の紅葉が美しい、清潔感があふれるお寺である。名を龍潭寺りょうたんじという。井伊家の菩提寺だ。


 その龍潭寺の庭園を竹箒で清掃している僧侶が一人。仏に仕えているためか、人を笑顔にさせそうな優しい顔つきをした僧侶だ。


 直盛がその僧侶に近づいていく。僧侶も気づいたらしく。人の良さそうな笑顔を直盛に見せた。



南渓なんけい和尚、お久しぶりです」


「直盛殿か。久しぶりじゃの」



 南渓和尚と呼ばれた僧侶は清掃の手を止めてニカッと笑う。二人の様子を見るとただの城主と僧侶という関係ではなさそうだ。


 それもそのはずで、南渓和尚は直盛の祖父の三男、叔父にあたる人物である。


 直盛の祖父は井伊直平と言い、その直平の三男に生まれたのが南渓和尚である。


 戦国時代の家督相続は長男が負うことが多かった。そのため、余計な騒動を避けるために次男以下を仏門に入れることは珍しくない。南渓和尚の場合も井伊家の菩提寺である龍潭寺に入れられたということだ。



「直盛殿がここに来るとは珍しいですな。何か、相談事ですかな?」


「いえ、たまには先祖供養をしようと思いまして」


「そうですか。では、こちらへ」



 南渓和尚は直盛を井伊家代々の墓が並ぶ場所に案内された。直盛は父・直宗の墓に手を合わせる。南渓和尚はその後ろから直盛の様子を見ていた。


 当時の墓は『井伊家代々之墓』など家族でまとまった墓石はなく、個人単位だった。そのため、直盛は直宗個人の墓に手を合わせることになったのだ。



「何か、悩んでますな」



 直盛の様子に違和感を覚えたのか、南渓和尚がゆっくりとした口調で尋ねてくる。



「……わかりますか」


「ええ、これでも、仏の道を教える者ですから」



 直盛が後ろを振り返り、南渓和尚と対面する。



「姫、円姫のことですかな」


「……和尚にはかないませんね」



 直盛は自嘲的な笑いを見せる。もはや全てを正直に語ろうと決めたようだ。



「娘の円はまだ幼い。そんな円を早くも婚約させてしまった。この判断は、正しかったのでしょうか?」


「時代の流れですな」



 この頃の井伊家は東海の大国、今川家の属国となっていた。宗主国である今川家には逆らえない。その今川家の動きが最近になって怪しくなってきているのだ。


 このままではいつ井伊家は潰されるとも限らない。そのため、今のうちから当主を決めておき、井伊家存続の道を作っておかなければならなかったのだ。


 直盛に息子がいれば良かったのだが、実際にできた子供は娘の円一人だけ。これでは井伊家の当主を譲ることができない。当主は基本的に長男がなることになっているからだ。


 そのため、円と婚約するということによって、亀之丞が次代の井伊家当主と決まった。



「私は、できればもっと円が大きくなってから結婚相手を決めてあげたかった。円には、辛い思いをさせる」



 直盛は目を瞑る。後悔と、仕方がなかったというあきらめの気持ちが混ざり合い、渦巻いていた。



「辛いとは、限りませんぞ」


「え?」



 南渓和尚は相変わらず人の良さそうな笑顔を見せている。その笑顔に直盛も救われる思いがした。



「姫は、婚約したこと、辛いといったのですかな?」


「い、いえ」


「では、辛いか、と訊いてみたのですかな?」


「訊いていません」



 南渓和尚は満足そうに頷いた。



「では、戻ったら訊いてみなさい。意外と姫はしっかりなされている。自分の考えをはっきりと言ってくれるでしょう」


「もし、それで辛いといった場合は……」


「それを受け止めるのも親の役目です。直盛殿、あなたは、井伊家当主であると同時に、円の父親でもあるのですよ? もっと自信を持ちなさい」



 南渓和尚はそれだけを言うと竹箒を持って庭園の方へ歩き出した。直盛は父の墓の前で突っ立っている。



「当主と、父親、か」



 直盛は父、直宗の墓を眺めた。直宗はどのような当主だったか、どのような父親だったか、今になってその偉大さがわかってくる。



「私は、井伊家当主であり、円の父親」



 直盛はもう一度だけ、直宗の墓に目をやると、踵を返した。その顔は先ほどの迷いに満ちた顔つきではない。当主として、父親として覚悟を決めた人間の顔をしていた。

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