Episode4「ヴァンパイア」

 逃走の最中ソフィアが僕の行動を糾弾するが構わずに走り続け、やがて辿り着いたのはD地区とC地区を結ぶゲート付近にある廃屋だった。


「此処は…。シオン、一体何を…?」


「逃げるんだ…。C地区に行けば蛇の首も簡単には追いかけてこれない」


「でもC地区へ行くには審査が…」


 そうだ、このセインガルドの国内で区画移動をする際は審査と呼ばれる手続きを踏まなければならない。

 審査には身分を証明する必要があるが、当然ながらD地区で生まれ育った僕に身分の証明方法なんてものはない。そうなるとD地区から僕達が抜け出るには秘密の通路を使ってセインガルドの外に逃げる他無かったが、アンディが蛇の首についた今じゃ秘密の通路を使うことは難しい。

 残された道はC地区へ逃げ込む事だけ。C地区の生活水準は決して高いとは言えないが、D地区よりかは数段マシだ。さらに言えばC地区は人口密度が国内で最も高いため、僕とソフィアが潜り込んでも簡単には見つからないだろう。

 肝心のC地区へ行く方法だが、正攻法の審査を受けてゲートを潜る事は僕には不可能。しかしゲートを潜らずにC地区へ行く方法はもう一つある。一日に数回、物資輸送のためにD地区からB地区の間を運行している貨物列車に忍び込むのだ。

 警戒の目が厳しく、挑戦した者はことごとくその場で殺されているが、これに忍び込めれば無事C地区へ潜り込む事が出来るはずだ。そして記憶が正しければ数時間後にこの日の最終列車がC地区へ向けて発車する。

 忍び込むチャンスは貨物を積み終わって警戒の目が最も薄れる瞬間…列車が動き出した直後だ。ゲートの近くで待機していると不審者として警戒される心配があるため、可能な限り集積所の近くで発車まで身を潜める事にした。


 好都合な事に辿り着いた廃屋に住民はいないようで、ひっそりと静まり返っていた。そこでようやく一息つけた僕はその辺に腰を降ろす。しかしそんな僕に対してソフィアは厳しい表情で問い詰めてきた。


「シオン、説明して下さい。どうしてこんな事をしたんですか…」


「…僕もよく分からない」


 正直自分でもどうしてこんな行動を起こしたのか驚いているぐらいだった。

 こんな出会ってから数日しか経っていない赤の他人をどうして僕はここまでして護ろうと思えるのか。しかもアンディの気持ちを踏み躙ってまで僕はソフィアを連れ出した。

 自分勝手な行動だったかもしれない。でも、肝心のソフィアの気持ちはどうなのか?


「ソフィアは…あのまま捕まっていた方が良かったと…思っているの?」


「当たり前です。もう私のせいで誰かを傷付けるなんて絶対に…絶対に嫌なんです」


 最初は厳しい表情だったソフィアだが、話しながら突然涙を流し始めた。


「もう…十分…。二人にたくさんの幸せを…もらって…。私なんかのために…」


 流れる涙をそのままに、ソフィアはぐっと何かを堪えるかのように言葉を紡ぐ。


「全ての原因は…私の犯した罪が…みんなを巻き込んで…。本当なら生きる事すら許されないはずなのに…死ぬ事も叶わない…!」


 彼女の懺悔のようなその告白が意味するところはほとんど分からない。ただそうやって生きる事、希望を持つ事すら諦めている彼女を見ているのは我慢ならなかった。


「ソフィア、僕には難しい事は分からない。だけど僕は…僕には君を見捨てるなんて真似は出来ないよ」


 そう言って僕は泣きじゃくるソフィアをそっと抱きしめた。汗をかいて湿っている服越しでも温もりが確かに感じられる。ソフィアはそれに逆らわず腕の中で大人しくしていた。


「僕は君を護りたい。それは…迷惑?」


 無言のまま、頭を横に振るソフィア。彼女と涙と自分の汗で僕のシャツはぐっしょりと濡れていた。だがそんな事は気にも留めず僕は抱き締める腕に力を込める。


「君が僕達に幸せをもらったと言うのなら…僕は今こうして君がいる事で幸せをもらっている」


 全てを失ってから、僕の胸にあるのは罪悪感と空虚。盗みを繰り返してただ生き延びるだけの日々。アンディだけでも生きて欲しい、それは紛れも無い本心だけど果たしてあのまま生活していたところでその夢は叶ったのだろうか?

 僕もアンディもお互いの事を考えつつも、叶うことのない夢だと心の何処かで分かっていた。動き出す勇気も、気力もない。ソドムに巣食う毒に僕達も侵食されていた。

 だけどそんな僕の目を覚まさせてくれたのがソフィアだ。この街にいながらも、その毒に侵される事のないソフィア。彼女の存在はいつしか僕の希望になっていた。

 彼女がいるからこそ、僕は動き出す勇気ときっかけを与えてもらった。そして彼女がいればアンディと一緒に三人で本当の幸せを掴めると信じている。だから僕は…ここでソフィアを見捨てるなんて真似は絶対に出来ない。


「ずっと…僕の側にいて欲しい」


「死ぬかもしれないんですよ…?」


「ここでソフィアを失って生きても、それは死んでいるのと変わらないよ。死を待つだけの、何もない日々しか残らない」


「シオン…私は…私はシオンの側にいてもいいんですか…?」


「僕が…必ず護ってみせる。だから…二度と自分の命を粗末に考えないで欲しい」


 ソフィアの蒼い瞳が僕の目を捉える。気恥ずかしさがあったものの、僕もまた彼女のその真っ直ぐな瞳を見つめ返した。


「シオン…私は…」


 ソフィアが何かを言いかけた時だった。人の気配を感じて僕は咄嗟に身構える。


「ソフィア、何があっても絶対に隠れているんだ」


「で、でもシオン…」


「大丈夫、僕はずっとソフィアの側にいる。だから僕はここで死ぬ訳には…いかない」


 煙幕弾はさっき使ったので最後。敵に見つかればもう戦うしか道は残されていない。部屋の中に何か使える物は無いかと探してみると、壊れた家具から尖った木材を見つけた。これで対抗出来るとは思えないが、一人ぐらいなら相打ち覚悟で倒せるかもしれない。

 ソフィアを壊れたベッドの下に潜めさせ、僕は戸の裏側に隠れて息を殺していると段々と気配が近付いてきた。どうやら相手は一室一室確認しているようで、間違いなく僕達の追手だ。隣の部屋に入り物色している気配を感じ取る。


 次は…この部屋だ。

 

 緊張で手に汗が滲み、木材を持つ手に力が入る。目の前の戸が開かれると、二人の男が部屋の中に侵入してきた。

 開かれた戸の裏に隠れたまま様子を伺うが、どちらもナイフを持っており、どう見てもここの住民ではない。二人が各々部屋を調べ始めたが、そのうちの一人がベッドに近付くとタイミングを見計い背後から一直線に男の背中目掛けて木材を突き出した。

 全体重をかけて突き出した一撃は男の背中に突き刺さるが、男は振り返ると怯むことなくナイフを僕に突き立てる。一瞬安堵してしまったせいで直後の動作が遅れ、避ける間もなく肩を切られた。傷口から血が溢れ出し、焼け付くような痛みが襲ってくる。腕を動かす度に、身の毛がよだつような痛みが肩に走った。


「何だ…このクソガキはっ…」


 木材は男の背に刺さったままだが、男は痛覚遮断系の薬物を使用しているのか苦痛に顔を歪ませているものの、まったく弱っている様子がない。唯一の武器を失った僕は丸腰で男達と対峙する。


「おい、どうした…ってあのガキじゃねーか」


 もう一人の男が歩み寄るが、それはまたしても先程会話をしていた蛇の首の団員の男だった。


「行く先々でよく会うなオイ。何か不思議な縁でもあるのかね」


「呑気なこと言ってんじゃねーよ! コイツ俺の背中に何かぶっ刺しやがった!」


「はははっ、オメー木材が刺さってんじゃねーか! ただの臆病なガキだと思ってたら…意外とやってくれるな」


 仲間の背に刺さった木材を引き抜くと、刺された男はふらつきながらも僕を見据える。二人の目は殺意に満ちていた。


「俺の仲間をよくもやってくれたな…。無駄だと思うが最後に聞いておく、女は何処だ?」


「誰が…答えるものか…」


「やっぱそうだよな。じゃあ…死んでくれ」


 男が袈裟にナイフで切り付けてくるが咄嗟に後ろに飛んでそれを避ける。しかし横から腹にナイフを突き立てられた。


「はぁ…はぁ…舐めてんじゃねーぞガキがぁ…!」


 口から血が溢れ出し、僕の頭の中は恐怖と混乱で滅茶苦茶になっていた。そんな中でも目の前でもう一人の男がナイフを逆手に持って眼前に立っているのをはっきりと確認する。

 死ぬ、そう直感した直後、避けることも許されず無情にも男のナイフが僕の胸に突き刺さり、喉から焼けるような血が込み上げ吐き出す。


「がぁっ!」


 二本のナイフが体から引き抜かれると僕はその場に崩れ落ちた。


「早く撤退しようぜ…。この出血量じゃ俺まで死んじまうよ…」


「もうちっと気張れコラ。このガキがここにいるって事は、多分女もこの家の何処かにいるはずだ」


 二人の会話が聞こえてくるが、出血が酷く意識もどんどんと遠のき動けそうになかった。


「待…て……」


 何とか声を絞り出すと、男達の目がこちらへ向けられる。


「まだ生きてるのか。どうした、女の居場所を吐く気になったか?」


「彼女は…もうこの街にはいない…。とっくに…外に逃がしたよ…」


 必死に考えたブラフだが、男達には通用しなかった。


「そんな事出来る訳ねーだろ。もういい、お前は死んじまいな」


 髪を掴まれ首ごと持ち上げられると、その喉元にナイフが当てられた。

 喉を切られたら一瞬で絶命するだろう。目を閉じると悔しさと己の無力さを痛感し涙が溢れ出た。しかし喉に当てられたナイフはそのまま動かない。代わりに肉を引き千切るような、不快で不気味な音が聞こえてきた。

 何事かと薄れ行く意識の中で目を開くと、男の顔が青褪めていた。男の視線の先には僕が攻撃した男が立っていたが、その片腕は失われている。


「う…うぎゃぁぁぁ!」


 片腕を失った男は噴出す血と共に断末魔のような叫び声を上げてその場に崩れ落ちてもんどりうつ。痛覚遮断の薬物を使用していても、流石に腕を肩口から千切られては耐え難いらしい。

 だがその後ろで千切った腕を持っている人物に僕は戦慄する。そこに立っていたのは冷たい人形のような目をしたソフィアだった。


「お、お前…今一体何をした…」


「シオンを…離しなさい」


「何をしたって聞いてんだよ!」


「あなた方を殺すつもりはありません。今すぐシオンを解放して、こちらの方を連れてこの場から立ち去りなさい」


 そう言うソフィアの冷たい瞳に僕までも恐怖を覚えてしまう。あの優しく、美しかった蒼い瞳が今は血に染まったかの様に真っ赤な瞳になっていた。一瞬別人かとも思ったが、その声や容姿はまさしくソフィアだ。

 その只ならぬ様子に恐怖を覚えた男は僕を解放すると、片腕を失った男を担いでその場から立ち去ろうとするが、ソフィアは二人に歩み寄ると、腕を失った男の傷口に手を当てた。すると驚く事に大量に溢れ出していた男の出血が止まる。訳が分からず困惑する二人だが、再びソフィアに睨まれるとそそくさと逃げるように部屋から出て行った。


「彼には…悪い事をしてしまいましたね…」


 そう言いながらソフィアは倒れている僕の上半身を抱き起こしてくれるが、間近で見る彼女の目は見間違えでは無く確かに真っ赤な血眼だった。


「ごめんなさいシオン…私のせいで…私は…」


 だがその血眼から溢れる涙は確かに僕の知るソフィアのそれだった。

 頬に滴り落ちるその涙は温かい。しかし彼女に声をかけたくても、もう声すら上げられない。閉じられていく視界の中、僕は最後の一瞬までソフィアを見上げていた。

 そして自分の意思とは無関係に視界が閉ざされ、真っ暗な闇から死の訪れを感じ取る。だがその瞬間、僕の首が何者かに抉り取られるような痛みを覚えた。

 体はもう動かずに成すがままになるが、その痛みは首から体中へと広がっていく。眠るかのように静かになっていた自分の鼓動が、どんどんと早く、強くなっていくのが分かる。

 朦朧もうろうとしていた意識も段々とはっきりとしてくるが、体は痺れたように動けずただ痙攣を繰り返していた。

 強くなっていく鼓動が体中を脈動させ、溢れ出す力は今にも肉体を突き破らんとしている。


「ぐ…ごあぁっ…!」


 その瞬間、突然感じた事のない破壊衝動が込み上げてきた。

 未だに体は動かないが、瞳孔は見開かれ、大声で叫び出したい衝動を必死に堪える。まるで僕の体の中に何者かが侵入し、内側から体を突き破らんと暴れ回っているようだ。

 自分の身に何が起きているのか確認しようとするが、視界に入るのは僕の首元に顔を埋めるソフィアの頭だけだ。まさかこれはソフィアによるものなのだろうか?

 何が起きているのか分からないまま、僕の体は彼女の成すがままとなる。

 それからしばらくすると、そっとソフィアが僕の首元から離れた。目に入った彼女の口元には真っ赤な鮮血がこびり付き、口内からはドロリとした血が流れ出ている。そして息を乱しながらもソフィアは目に涙を浮かべ僕を見詰めていた。

 ソフィアは一体…何をしたんだ?

 先程までの激しい脈動はいつの間にか収まり、痺れも無くなった体はようやく自由に動くようになる。しかし驚く事に先程までの痛みが嘘のように消えていた。

 飛び起きてナイフで刺された部分を確かめてみるが何処にも傷はない。それどころか細く痩せこけていたはずの体は鎧のような、引き締まった筋肉を纏っていた。


「ソフィア…これは一体…」


 自分の身に起きた不可解な現象に戸惑いながらも尋ねると、一瞬安堵した様子だったソフィアの表情に影が差す。


「私の力で…シオンを生かしました」


「ソフィアの力って…僕を生かした…?」


 恐らくそれは薬草を作った時のようなちょっとしたコツなんてレベルの話ではないだろう。この力こそ彼女が追われている原因なんだと直感的に分かった。

 しかし息つく間もなく、再び戸の向こう側に何者かの気配を感じ取る。不思議にもそれが誰なのか察知出来た。


 蛇の首の…あの男だ。


 男は突然飛び出してくるとナイフを構えてソフィアの背後から一直線に襲い掛かるが、僕はソフィアの横を抜けて男の腕を掴む。自分でもどうやったのか分からないが、一瞬で男の動きを止めていた。


「ガ、ガキ…お前何で…生きて…」


「これ以上…ソフィアを傷付けるな…!」


 男の腕を掴む手に力が入る。そのまま腕を握り潰しそうな力を込めると、容易く男の腕は潰れた。


「ぐぉっ…! クソが!」


 男は隠し持っていたナイフをもう片方の手で掴んで僕に突き立ててくるが、落ち着いてその攻撃を避けると男の顔面に思い切りパンチを入れる。その一撃は男の頭部を軽々と粉砕し絶命させた。

 何が起きたのかよく分からないまま、男は首から血を噴出してその場に崩れ落ちる。心臓の鼓動に合わせるかのように男の首からはドクンドクンと血が溢れて出ており、痙攣したように首を失った体がビクンビクンと動いている。肉片と血が周囲に飛散しており、その中には男の眼球や脳と思える物も確認出来る。

 この悪魔のような所業は、紛れも無く僕の手によるものだ。あまりにもグロテスクで凄惨な光景に僕は堪らずその場で吐き出してしまう。だがいくら吐いても手に残る頭部を粉砕した感触、血の匂いが拭い取れない。突然手に入れた強大で凶悪な力を前に、僕は恐怖で震えだした。


「ソフィア…これは何なんだ…僕は一体どうなってしまったんだ…」


 混乱のあまりいつの間にか泣いていた。しかしそんな僕をソフィアが包み込むように後ろから優しく抱き締めてくる。


「これが…私の力なんです…。ごめん…なさい…っ」


 抱き締める力は弱々しく、ソフィアもまた涙を流していた。そんな取り乱しひたすら謝罪するソフィアを見ていると、段々と僕は冷静さを取り戻していく。

 落ち着いて現状を確かめ、追手が無い事を確認してから僕はソフィアに再び尋ねた。


「ソフィア、君の力について…説明して欲しい」


 小さくコクリと頷くと、ソフィアはぽつりぽつりと全てを語り始める。


 まずソフィアの力とは、ヴァンパイアの力だった。だがそれは噂に聞くヴァンパイアウィルスとはまったく異なる、完全なるヴァインパイアの力だ。ソフィアは僕を吸血することによって、僕にその力を分け与えていた。

 ヴァンパイアの力を得ると月が出ている夜にのみ動体視力や運動神経、単純な筋力が人間の限界を遥かに超え、傷などの負傷も尋常じゃない速度で回復するそうだ。死に掛けていた僕がこうして一命を取り留めたのはその傷の再生速度によるものだった。

 噂で流れているヴァンパイアウィルスとは、このヴァンパイアの力が正しく継承されなかったせいで発症した病気のようなものだとソフィアは言う。

 ヴァンパイアとは正確には月に宿る魔力によって増幅された力を持つ者を指すらしい。故に不完全なヴァンパイアは日の光を嫌い、月の昇っている夜にのみ活動をする。

 だがソフィアは月の魔力を体内に蓄積する事が出来る為、日の光を浴びていても何ら問題はないそうだ。ソフィアを犯していたあの男達は彼女の体液からその力が不正に受け継がれてしまい、太陽に弱いという特徴が現れたせいで肌が焼け焦げてしまったようだ。

 どうやら彼女に直接吸血された者だけが彼女と同じく日の光を浴びても平気ということらしい。

 しかし誰かを吸血する事で相手が同じヴァンパイアになるのなら何処かに一番最初のヴァンパイアが存在している訳だが、驚いた事にソフィアこそがそのヴァンパイアの真祖だった。


 ソフィアがヴァンパイアの力に目覚めたのは今から約千年前。信じられない事に、彼女は今に至るまで老いる事なく生きてきたらしい。

 元々はここセインガルドより遥か遠方にあったという村でソフィアは普通の人間として生まれ育った。その村で医者となった彼女は、一時期軍医として敵味方関係なく癒していたが、その姿を見た人々の中から彼女を聖母と呼ぶ者も現れたという。

 戦争が終結し再び医者として過ごしていた彼女だが、ある日病に倒れた。当時は不治の病とされていたが、そんな彼女の前に天使が現れた。

 天使の名はサリエル。大天使ラファエルの右腕であり、『神の意志を執行する司令官』や『癒す者』と呼ばれ、天使の中でも特別とされる大天使アークエンジェルの一人だ。

 ソフィアの元に現れたサリエルは、彼女の献身的な姿に心を打たれたらしく、月の秘密を彼女に教えた。その月の秘密こそヴァンパイアの力…月の魔力だった。その力は強大で、ソフィアは力を活かして多くの人々の命を救う。


 この頃からソフィアを神の御使いとして崇拝する者も現れだした。だが崇拝する者の中には狂信的になった信者もおり、その一人がゴードンという男だ。

 ゴードンは夜に眠っていたソフィアへ襲い掛かった。そして恐怖したソフィアは、本能的に噛み付きゴードンを殺し掛けてしまう。しかし首元を抉られたゴードンは死ぬ事なく、あっという間に傷を再生させ再びソフィアへ襲い掛かってきたのだ。

 必死に抵抗したソフィアは急いでその場から逃げ出し、村の人々に救いを求める。しかしソフィアを守ろうとした人々は彼女を逃がして全員殺されてしまった。

 それからソフィアは人々を巻き込んだ罪の意識に苛まれながらも、始めは様々な人々に守られ生き延びていた。しかしゴードンは執拗にソフィアを追い続ける。

 その中で吸血によって相手が同じヴァンパイアとなる事に気付いたゴードンは、吸血を繰り返し次第にヴァンパイアによる組織を結成する。しかしソフィアに吸血されたゴードンの力は不完全なもので、ゴードンに吸血された者達は太陽の光に弱いという弱点を持っていた。

 そうして自分を守る人々を巻き込む事を嫌ったソフィアは最終的に一人で逃げる道を選ぶ。

 ヴァンパイア達の弱点に気付いたソフィアは昼間に体を休め、夜は組織から逃げるという日々を繰り返していた。

 そしてそんな彼女の状況を憂いたのか、サリエルは再びソフィアの前に姿を現すと世界の反対側へと彼女を転移させた。そのおかげで千年もの間、ソフィアはゴードンの手から逃げ続ける事が出来たという。

 だが長い時を経てゴードン達の組織は次第に巨大化していき、世界中にヴァンパイアの追手が現れるようになった。追手を振り払う為に逃げ続けたソフィアは十年前に始まった戦争の混乱に乗じてセインガルドに潜り込むが、そこでソフィアは孤児院で働き暮らしていた。そしてその孤児院こそ僕がかつていた孤児院だった。


 しかし孤児院にいた先生達は皆死んだはずだ。その事を尋ねると孤児院が焼き払われた時、ソフィアは他の先生達と一緒に確かに焼き殺さたはずだった。どうやら焼け焦げて瀕死状態に陥ったものの、ソフィアはヴァンパイア特有の再生能力により数日後、焦土と化した土の中から蘇ったらしい。ただこれ程の再生力は月の秘密を知るソフィアだけが持つ驚異的な力だそうだ。


 そうして僕と同じく全てを失ったソフィアは再び息を潜め、ソドムの街でひっそりと生きてきた。何度も男達に強姦されながらも、過去と同じ過ちを繰り返すまいとソフィアはその全てに耐え、受け入れていた。

 しかしそれが原因でソドムにはヴァンパイアウィルスと呼ばれる病気が流れ出し、隔離措置を受ける事となる。ただ皮肉にも隔離措置された事によって、追手もそう簡単にはソドムに入り込む事は出来なくなった。


 ソフィアの話を全て聞き終えた僕は掛ける言葉が見当たらなかった。

 僕より少し上の歳だと思っていた彼女は千年もの時を生きている。まずその現実的じゃない事実に困惑しかない。しかし同時にこの身に実際に起きた現象が彼女の話に嘘は何一つないと証明している。


「あの時見た少年…シオンとアンディ…今も生きていてくれて本当に嬉しかった…」


 どうやら彼女はオルゴールを聞いたあの時から僕達の存在に気付いていたようだった。


「あの頃のアンディはいつもシオンの後ろについて回っていたのに…強くなりましたね」


 そう言って微笑むソフィアの表情は確かに孤児院にいた先生と同じものだった。

 彼女から聞かされた話は今でもにわかに信じられないし、そう容易く受け入れる事も出来ない。それでも僕は…


「…僕は、ソフィアを護る」


 ソフィアの目を見据え、僕はハッキリとそう言い放つ。それを聞いたソフィアの目は驚きで見開かれていた。


「私は…人間ではないのですよ…?」


「人間であるかどうかなんて関係ないよ。ソドムにいる連中が人間かと言えば、僕はそうとは思えない」


「でも私はシオンを…私と同じ苦しみを与えてしまって…」


「僕は…ずっと力が欲しかった。家族も…孤児院も失って…僕はいつだって

無力だった。アンディと暮らしている間も自分の非力さが恨めしかった」


 僕にも力があれば…そうすれば盗みを繰り返しては怯える日々から抜け出せたのにといつも思っていた。戦争から家族を守れていれば…孤児院に襲撃してきた兵士達を退ける力があれば…。心の何処かでずっと渇望していたもの、それは誰かを守る力。僕はもう二度と大切なものを失いたくない。


「確かにいきなり僕がヴァンパイアになったと言われてもまだよく分からないよ。でもこれでソフィア…君を護れるのなら…僕はその苦しみ全てを受け入れたい」


「何で…シオンはそこまでしてくれるのですか…?」


 いつの間にかソフィアの目は再び蒼くなっており、潤んだまま真っ直ぐに僕を捉える。

 先程と同じような状況だ。でも今はもう気恥ずかしさも何もない。僕が何故ここまでソフィアの為に尽くすのか、彼女の話を聞いても尚その気持ちが変わらないのかがようやく分かった。

 彼女を護りたいという気持ち、それはただ単に家族を護りたいからというだけではない。ソフィアの真摯な瞳を見つめたまま、僕は一息つくと彼女に想いを告げた。


「君を…愛しているから」


 そのまま思い切って彼女の唇に自分の唇を重ねる。それはほんの数秒の出来事だったけど、時間がとても長く感じられた。このまま時が止まればいいのにと、何処かで聞いたような歯の浮く台詞が頭に浮かんでしまう。

 どちらともなく名残惜しそうに唇を離すと、いつの間にか涙を流していたソフィアは笑っていた。そんな彼女の笑顔を見て僕もまた笑みが零れる。


「ふふ、子供だと思ってたのに…すっかり大人みたいですね」


「…だといいんだけどね」


 難しい話はよく分からないし、恐らく僕はまだ全てを受け入れられてはいないだろう。でも僕はソフィアを愛してしまった。彼女を護る理由なんて今はこれだけで十分だ。

 手を差し伸べると、ソフィアは何処か晴れやかな表情でその手をそっと握ってくれる。

 彼女の手の温もりをはっきりと感じながら外へ目をやると列車への貨物の積み込みが終わった様子だった。

 C地区へ行くための手段を今更ながらソフィアに手短に説明するとやけに感心してくれた。こんな非常時に呑気だなと思いつつ、そのお陰で僕の緊張も大分和らぐ。しかし廃屋から出ると、そこはすでに蛇の首団員達によって包囲されていた。


「ガキに女…覚悟は出来てるんだろうな…?」


 そこにはソフィアによって腕をもがれた男が立っていた。

 どうやら先程殺した男はこいつを仲間の元へ逃がしてから単身で僕達に襲い掛かり、そして仲間の元へ戻った男は仲間を集めて戻ってきたらしい。それでも今の僕達ならこの程度の包囲網を突破するのは容易だ。

 ただソフィアを見るとその目には迷いがあった。きっとソフィアは誰とも戦いたくはないのだろう。だからあの男の腕を奪った後、殺さずに月の魔力によって治療を施した。そんな彼女をわざわざ戦わせたくない。


「…ここは僕に任せて」


 ソフィアをその場に残し、僕は男達へ向かって歩き出す。


「はっ、おいおい、お前一人に何が出来るってんだよ…」


「…このまま僕達を見逃してくれないか」


「冗談じゃねぇ、こっちは腕一本持ってかれてるんだぞ…。お前を殺した後はそうだな…女は使い物にならないぐらい犯してからボスに引き渡してやるよ…!」


 その言葉に怒りが沸いた。ヴァンパイアとして目覚めた時のように体中が脈動を始める。頭上で怪しく輝く月の光が僕に力を与えてくれているようだ。

 凶器を持った男達が一斉に動き出すが、僕には一人一人の動きがまるでスローモーションのように見えていた。

 四肢に力を込めて前に飛び出し、軽く目の前の男を手で押し退けると男はまるで玩具のように簡単に後ろへ吹き飛びコンクリートに叩き付けられる。その光景に一瞬戸惑う団員達だが、構わずに僕は虫を振り払うかのように腕を横に薙ぐ。男の一人を吹き飛ばすと、その後ろにいた団員達も巻き込んで纏めてコンクリートへ叩き付けられる。

 自分の力を確かめるように、その後も僕は力を調整して戦う。それは時間にしてほんの数秒の出来事だったが、十人以上いた団員達は全員気を失っていた。だがすぐに援軍が現れ怒声が聞こえてくる。

 このままではキリがないと判断しソフィアを抱きかかえると、僕はその場から逃げ出す。初めて抱き上げたソフィアは驚くぐらい軽く、腕に圧し掛かる重みはまるで人形のようだった。

 軽く飛び上がってみると、驚くぐらいあっさりと僕は建物の屋根に飛び乗り、そのまま屋根の上を伝い列車の近くまで辿り着く。

 狙い通り、警備している人間はほとんど見当たらない。列車が汽笛を鳴らすと、ゆっくりと車輪が回り出した。そこでタイミング良く上空から飛び降りた僕は列車の連結部分に着地して身を潜める。

 そして集積所から出た列車は僕達を乗せてC地区へと向かい走り出した。




 その頃、シオン達を見失った蛇の首の団員達の怒りはアンディへと向けられていた。


「おいガキ…てめぇのお友達は随分とやってくれるじゃねぇか」


 両手に刺さったナイフによってアンディは壁に張り付けられていた。そんなアンディに容赦なく拳が飛び交う。

 何故シオンは自分を置き去りにしてソフィアを連れて逃げ出した?

 そもそもシオンは住処にソフィアと二人でいた時点で殺されていたはずだった。ソフィアを刺激せずに捕獲したい蛇の首はソフィアを素直に引き渡すという条件でシオンの命、さらには自分達の生活も保障されるとアンディに約束していた。

 ソフィアの正体を知っても尚、彼女を裏切るような形になるのはアンディにとっても本望ではなかった。だがシオンの命と天秤にかけるとアンディにはソフィアを引き渡す以外に選択肢はなかった。


「すげーよなぁ…まるでお姫様を守って逃げ出す騎士様みたいだったぜぇ」


 容赦なく体が痛めつけられるが、痛みよりもアンディの胸には怒りだけが込み上げてくる。

 男の声は耳に届いていなかった。シオンの裏切り、それは信頼を殺意へと変えていく。自分がこんな目に遭っているのはシオンのせいだ。心から信じていた親友に裏切られたアンディは絶望の底にいた。


「おかげでなぁ…俺達はボスに何されるか分かったもんじゃねぇよ…」


 ナイフの切っ先がアンディの頬に突きつけられ、ジワリと血が滲む。だがアンディの表情は一切変わらずに、ただ虚空を見つめていた。


「シオン…絶対に…許さ…ない……」


「おーい、聞いてんのかー。何だ壊れちまったか? だったら遠慮はいらねーな」


 再び男達の攻撃が始まるが糸の切れた人形のようにアンディはそれを黙って受け続ける。シオンへの憎悪だけを胸に、次第にアンディの意識は薄れていった。

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