Whim of God ~神のシナリオ~

山岡壱成

第1章 少年の邂逅 ―Sion Side―

Episode1「ソドム」

 御伽噺おとぎばなしのような神様達の物語。

 幼い頃に聞かされた人は大勢いるだろう。

 大人になった時、人はそれをまた自分の子供へと伝える。こうして伝承は受け継がれてきた。

 何故そんな御伽噺おとぎばなしが受け継がれるのだろうか。

 神様の物語には歴史的、物的証拠なんて物はない。

 今も尚残っているのは人によっては若干異なる、形骸化したあやふやな伝説。

 それでも幼い頃は純粋にそれらを信じていただろう。

 神を敬い、感謝し、祈りを捧げる。

 信じる者は救われるなんてよく言われたものだ。

 だがいくら神を信じ祈りを捧げても、神はそれを嘲笑うかの様に過酷な答えを突き付ける。

 神を信じている者がいる事すら疑わしい世界が、現実が此処にはあった。

 いくら過酷な運命を与えられようとそれを享受し、皆が祈りを捧げ続けていれば世界は変わっていたのだろうか?

 結局人々は生きる為に神を捨てた。

 いや、そもそも神など存在しなかったのかもしれない。

 いたとしてもきっとその神はもう死んだのだ。


 囲を見渡すとまず瓦礫の様な廃墟が立ち並んでいるのが目に入る。

 人が住めるとは思えない様な街だが、この街に住む人々は器用に廃墟の中に住処を築き上げていた。

 ただそんな場所で暮らしている事からも分かるようにこの街で生きる人々の生活水準は低い。

 虚ろな目をしただ生きているだけの者。

 獲物を狩るような鋭い目に凶器を手にした者。

 この街を行き交う人々の目に光は無い。

 だがこんな街でも大陸一の領土を持つ巨大都市国家なのだ。

 正確にはこの街はその国家の一部である。


 要塞都市国家セインガルド。

 約百年前に建国され隣国との戦争を繰り返して巨大化していった武力国家である。

 戦争は今も続いており領土は着実に広がっていた。

 セインガルドは領土を増やす事だけを目的としているのか隣国へ攻め込むのに大義や理由など無い。

 東西南北、まるで大陸中央に巣食った癌のようにセインガルドは周辺国全てを飲み込んでいった。

 その結果、この国は現在四つの階層から成り立っている。

 まず建国された当初から存在しているセインガルド中央に位置する王室区、通称A地区。

 そのA地区を中心としてB地区、C地区とドーナツ状に階層が広がっており、国民の生活水準は中央に近い程裕福となっている。

 そして廃墟のような街並みが広がる西D地区。

 此処はセインガルドの最外郭エリアの一つであり、上の階層の人々からは皮肉を込めて歴史上最悪とされた神話上の都市、『ソドム』と呼ばれる廃街区だ。

 現在最外郭に位置しているD地区は隣国との戦争の際常に前線となる。

 ソドムは既に終戦しているが、十年前に勃発した戦争によって現在の様な廃墟が立ち並ぶ死の街となった。

 加えて戦争が終わった後は謎の病気が蔓延し、現在西D地区はセインガルド内で唯一隔離されている。

 各階層を隔てている巨大な内壁を抜けられる唯一の扉『ゲート』。

 これはB地区からA地区へ移動する場合を除いて、以前は国民なら誰もが気軽に利用し各階層間を自由に行き来していた。

 しかし終戦後に流行り出した謎の病気通称 『ヴァンパイアウィルス』の拡散を防ぐ為に西D地区は隔離措置を取られた。

 その為現在は上の階層…C地区へ移動するのは極一部の人間を除いて困難となっている。

 更に言えば西D地区は隣接している北と南のD地区からも隔離用の内壁が聳え立ち、今では同じD地区内ですら移動は困難である。

 そして国外へ逃げ出そうにも要塞都市という名の通り、セインガルドは巨大な外壁に囲まれている為、国外逃亡は容易でない。その様はまるで牢獄のようだ。

 その結果、ろくな物資の流通が無くなったこのエリアの人々は謎の病気に怯えながらも、数少ない物資を略奪し合って生きている。

 そして物資の輸入先であり現在の市場ほとんどを取り仕切っているのがD地区を根城とするマフィア『蛇の首』だ。

 蛇の首は巨大な組織であり、そこから略奪するのは文字通り命懸けの行為である。

 力の無い弱者に出来る事と言えば、強者達が蛇の首から略奪し売り捌く物資をほんの少し掠め取るような真似ぐらいだった。

 そうやってこのソドムでは強者も弱者も神への祈りなど忘れて日々を必死に、もがく様に生きていた。その光景は上の人間達から見れば確かにソドムの様に見える事だろう。

 そんな死の街で少年は家族を失ってから十年、今も親友と共に生き延びていた―――




 食料を売っている露店の前で僕は胸を押さえてその場に蹲り出した。突然の出来事に商人は何事かと注視するが、これは僕の身を案じているからではない。謎の病にかかっているのではないか、だとすれば自身にも危険が及ぶのではないかと案じているだけだ。だから救いの手を伸ばす事もなければ店を畳んですぐに逃げ出そうか悩んでいるように見える。しかし商人の気がこちらに向けられたのなら狙い通りだ。

 それまで普通に買い物をする素振りを見せていたアンディが慣れた手付きでリンゴ二つを胸に仕舞い込むと商人と同じように怯えた様子で静かにその場から離れる。それからアンディの姿が見えなくなるのを確認すると僕はゆっくりと立ち上がった。

 商人は既に商品を片付け始めていたが、ただの発作だと伝えると何事も無かったように僕はその場を立ち去り、アンディの去った方向とは反対の、あえて遠回りをして住処へ戻る。

 僕とアンディは二人で一緒に暮らし、いつも行動を共にしている。先程の様に僕がおとりとなってアンディが食料を掠め取るのが僕達の主なやり方だ。食料を手に入れた後は無関係を装う為にそれぞれ別のルートを通って住処へ戻る。

 そうして遠回りをして辿り着いた住処は半壊していた木造倉庫を改造したものだ。狭くて何の設備もないけど雨風はちゃんと凌げる、僕達にとっては立派な家である。

 戸を開くとアンディは先に戻っていたようで、お互い無事に帰宅出来た事に安堵すると自然と笑みが零れた。そして今日の戦利品であるリンゴをアンディは半分に割るとその片方を手渡してくれる。これが僕達の今日一日の食料だ。

 毎日こうして最小限の食料だけで暮らしている為、僕達の体は細く痩せこけている。故に非力な僕達には強盗の様な真似は出来ず、こうして知恵を働かせて毎日を必死に細々と生きるしかなかった。

 何の為に生きているのかは分からない。いっそ死んだ方が楽じゃないかと何度も思った。でも隣に唯一の親友が今も生きている、それだけで生きる理由としては十分である。

 全てを失った後、生き残った仲間のほとんどは蛇の首の団員となってしまったが、アンディだけは変わらずに側にいてくれた。そして今もこうして貧しいながらも少ない食料を共に分け合い共に生きている…そんな些細な事でも僕は幸せだった。


 食事を済ませ日が沈むと僕達は仕切りを挟んで各自の寝床に就く。

 この時間の街は無法地帯だ。昼は王国騎士団の兵士が巡回しているおかげで住民達は大人しいが、夜になり巡回する兵士が減ってくるとソドムは本来の姿を現す。そこで主に動いているのは蛇の首の団員や荒くれ者達だ。

 ソドムのみならずD地区全域を支配している巨大組織蛇の首は物資や違法薬物の密輸取引を斡旋している。そしてそれらを商人達へ横流ししては売り上げを徴収するのも彼等の仕事のようだ。

 それに対して荒くれ者達はそんな蛇の首を警戒しつつも弱者への暴行や強姦など、己の欲の捌け口を探し求めて徘徊している。

 その結果、蛇の首も荒くれ者達も互いの利益に害がない為干渉し合う事はなく、夜のソドムはそんな強者達による無法地帯と化していた。僕達のような弱者はただ強者達に搾取されるか、怯えながら住処で朝日が昇るのを待つしかない。

 僕達も生活に慣れてきたとは言え、荒くれ者達の気まぐれな襲撃にだけは警戒を緩めない。いくら真面目に生きてもあっさりと踏み躙られるのがこのソドムという街だ。


(…はぁ)


 色々考え出すと気分が滅入ってきた。仕切り越しにアンディに声を掛けるが聞こえてきたのは微かな寝息だけである。

 妙な寂しさに駆られ私物を詰め込んだ箱からオルゴールを取り出すと、眠っているアンディを起こさないよう布団に潜り込んでそっとぜんまいを回す。

 流れ出す単調なメロディは昔から何も変わらず、今も色褪せない安らぎの一時を思い返すだけで心が落ち着いていくのが分かった。それはただ思い出に浸って現実逃避しているだけかもしれないけど、オルゴールの音色を聴く度に今こうして生きている事に感謝出来た。


 このオルゴールは親の形見だ。物心ついた頃に始まった戦争は開戦から激しく、西D地区の半分はあっという間に壊滅させられ、僕は親だけでなく家までも一瞬で失った。僕が生きていたのは奇跡だったのかもしれない。

 瓦礫となった家から唯一発見出来た大好きなオルゴールを胸に抱いて、僕は真っ黒に焼けて腐臭漂う両親の死骸の前で死ぬのを待っていたが、そこで孤児院を営んでいるという神父に拾われた。

 連れて来られた孤児院にいたのは同じ様に戦争によって両親を失った孤児がほとんどで、そこで知り合ったのがアンディだ。彼もまた両親を失い途方に暮れていたところを神父に拾われたらしい。

 最初は悲壮な空気が漂う孤児院だったが、優しい先生達と触れ合う内に院内の雰囲気は変わっていった。戦争はまだ続いていたけど、院内だけはまるで切り取られた空間の様に幸せで溢れ返っていた。みんなと遊んで、先生の話す神様の物語を聞いて、平和を願って神に祈りを捧げる。戦争前では普通だと思えていた事も、この時は掛け替えのない大切な時間だった。

 そんな毎日を過ごしていくうちに、最初は心を閉ざしてた僕とアンディは気が付けば親友になっていた。その頃のアンディは気が弱くて、何をするにも僕の後ろを付いて来ていた。しかし僕が他の子供と喧嘩をした時、アンディは喧嘩に混ざるのではなくすぐに先生に助けを求めていた。今思えばそうして先生が駆け付けてくれたおかげでみんなとの関係が壊れる事もなかったのだろう。気が弱くてもアンディはしっかり周りの事を考えて行動する奴だった。

 しかしそんな日々も激化していく戦禍に巻き込まれてしまう。突然の敵国兵の襲撃。先生達は僕達を逃がそうとして犠牲になり、全員孤児院と共に焼き払われてしまった。そのおかげでほとんどの孤児は生き延びる事が出来たが、生き延びた所で所詮は子供。生きる道を見失った子供達の大半はその頃から巨大な勢力を持っていた蛇の首へと流れ着き、残った孤児は僕やアンディのように浮浪者として生きる道を選んだ。

 みんな散り散りになって今では誰が生きているのかなんて分からないけど、アンディは今もこうして生きている。それだけでも十分僕は幸せ者なのかもしれない。

 亡くなった先生達ともよく一緒に聞いたオルゴールの音は過去と現在を繋いでくれる大切な思い出。昔と変わらない優しい音色に包まれながら僕はいつの間にか眠りに就いていた。


 翌朝目覚めると残ったリンゴを二つに割ってアンディと二人で分け合い、今日も何処か食料を手に入れられる場所はないかと僕達は街に繰り出した。

 昨日リンゴを盗んだ露店の前を通りかかると、商人の顔にはいくつかの大きな痣が見て取れ、沈んだ表情をしていた。僕とアンディが商品を盗んでしまったせいで物資を斡旋してる蛇の首の連中にやられたのかもしれない。居た堪れない気持ちになると後ろ髪を引かれる思いでその場からすぐに離れた。

 こうして盗みを働いてることに当然罪悪感はある。しかし弱者が生き残る道はこれしかないのだ。


 他人を蹴落としてでも生き延びる、手段は選ばない――


 これがソドムで生きる為の鉄則であり、誰かに優しくしようと隙を見せれば食われるのはこちらだ。

 迷いを消し獲物となる露店を捜し歩いていると先程の露店から大分離れた場所に弱々しいお婆さんが開く店を見付けた。これなら容易く、もしかしたら昨日よりも多く食料が手に入れられるかもしれない。

 標的を定めると少し離れた物陰に隠れていたアンディの元へ歩み寄り、言葉は交わさずにアイコンタクトで標的を伝える。それを確認したアンディは目で返事をすると、人並みを掻き分け一直線にその露店へ向かった。

 アンディは商品を物色するフリを始め、しばらく経つと腕を組んで悩む素振りを見せるがこれは僕に対する合図だ。合図を確認すると僕は露店の方へ一気に駆け寄り、露店横にあった箱にわざと足を躓かせて派手に転ぶ。驚いたお婆さんはこちらに完全に気を取られていた。


「ご、ごめんなさい…」


 しかし珍しくこのお婆さんは人が良いのか僕の身を案じてくれた。


「怪我はないかのぅ…」


「大丈夫です…ちょっと膝を打っただけです」


 それを好機と見たアンディはお婆さんの死角から何種類かの野菜を胸に仕舞い込み、食料を手に入れ立ち去るのを確認すると僕もその場から離れた。


 今日は結構な食料が稼げたようだ。期待に胸を膨らませながらいつもの様にアンディとは違う道を通って住処に戻ろうとするが、そんな僕を追跡している存在に気が付く。追跡を撒こうと複雑な裏道を通るが依然として気配は消えない。


(まさか盗みがバレた…?)


 そう思うと今度はアンディの身が心配になる。角を曲がり一瞬追跡者の視界から外れると全力で走り出すが、住処に辿り着く途中で大人数人に囲まれているアンディを発見した。見たところ相手は蛇の首の団員のようだ。


「ガキが随分と舐めた真似してくれるじゃねーか」


 男の掌には先程アンディが胸に仕舞っていた野菜が乗っていた。うずくまるアンディに容赦無く蹴りが入るが、既に手痛くやられていたようで一瞬見えた横顔には大きな痣がはっきりと浮かんでいる。

 まだ生きている…それが分かった瞬間、僕は考えるよりも先にアンディを庇うようにして大人達の間に割って入る。


「…仲間だな?」


 男の口が軽く吊り上ったのが分かった。恐らく僕を追跡していたのもこの男達の仲間なのだろう。

 この街で盗みを失敗するという事は死を意味する。僕達が毎日少しの盗みしか働いていなかったのは目を付けられないよう、目立たないようにする為だった。しかし今まで見てきた失敗した盗人と同じ運命を辿るなら、僕達は間違いなく此処で殺される。アンディを死なせたくない一心で、僕は縋るような想いで頭を下げた。


「全部僕の仕業なんです、僕が計画して無理矢理こいつに盗ませ…」


 しかし言い終わる前に下げた頭が地面に叩き付けられると唇が切れて口の中に錆びた味が広がり、鼻に鈍い痛みが走った。そのまま足で踏み付けられ砂利が口の中に入ってくるが男に容赦は無く、このまま踏み潰されるのではないかと思うぐらい体重を乗せて踏み付けてくる。

 それでも僕は何度も壊れた玩具のように涙を流しながら謝罪だけを繰り返す。するとそこへ一人の男が現れると耳打ちする様に何かを話し始めた。会話の内容は聞き取れなかったが現れた男は焦っている様子で、話を聞き終えた男は面倒臭そうな表情を浮かべる。


「命拾いしたなクソガキ、二度と悪さなんてするんじゃねーぞ」


 最後に唾を吐き付けると男達は足早にその場を去った。


「ごめん…シオン…」


 擦れた声でアンディがそう呟く。


「ううん…無事ならそれで良いんだ」


 男達がいなくなったのを確認しすぐさまアンディを抱き起こすと痣は顔だけでなく体中にあったものの、命に別状はなさそうで一安心した。


「へへ、こっちも…無事だぜ」


 ボロボロな顔で笑ったアンディは胸元からリンゴを一つ取り出す。


「これしか守れなかったけどな…」


 そんなアンディを見て思わず笑いが込み上げてしまうが、この時既に日は沈みかけていた。暗くなってくると、こうして僕達のような弱者は変な連中に狙われ易い。人身、臓器売買に手をつけている商人はこの街にはごまんといる。

 すぐにその場から離れようとするが、どうやらアンディは先程の連中に足もやられたようでまともに歩けなくなっていた。先に僕だけでも逃がそうとするアンディだがこんな所に傷付いた彼を置いていくのは見殺しにするようなものだ。抗議の声を無視してアンディを担ぐと僕は急いでその場から離れる。

 此処から住処まで普段なら三十分程度で着くが、アンディを背負っている今の状態じゃ一時間は掛かる。果たして無事に住処に辿り着く事が出来るのだろうか…。しかしそれが出来なければ僕とアンディの命は無い。


(やるしかないんだ…)


 周囲に最大限の警戒を払いながら極力人通りの少ない道を選ぶ。道中で何人かこちらを見ては笑みを浮かべる者がいたが変に動揺したりせず堂々と歩く。


 隙を見せれば殺される――


 襲ってこようとこちらは反撃出来るという虚栄心を保ちながら歩き続けているとようやく住処が見えてきた。しかしもうすぐ住処というところで男二人に何者かが道端で囲まれていた。極力気にしないように歩を進め、男達との距離が縮まると段々とその全貌が現れてくる。

 どうやらみすぼらしい女性が凶器を持った男二人に犯されているようだが何て事はない、夜のソドムじゃ日常茶飯事の出来事である。何も見なかったようにその横を通り過ぎようとするが、擦れ違う瞬間に男達の隙間から垣間見えた女性と目が合ってしまう。

 その目はこの街に似つかわしくないほど透き通った美しい蒼い色をし、助けを請う訳でもなく、まるで自分の運命を受け入れているかの様な悲壮感が漂っている。不思議とその目に引き寄せられそうになるが、背中に圧し掛かるアンディの重みで我に返った。

 邪念を振り払うかのように、その場から逃げるようにして僕達はようやく住処へ辿り着く。アンディはいつの間にか意識が途絶えていたようで、そのまま寝床に静かに横たわらせ布団を掛けてやると安らかに寝息を立て始めた。

 そんなアンディを見てやっと一息吐けたが、本当の問題はこれからだ。蛇の首に顔が割れてしまった為、これからの活動には間違いなく支障が出るだろう。しかし盗みが出来ないとなると僕達に生きていく術は残されていない。

 黙って死ぬか、戦って死ぬか。戦いになれば勝ち目はないだろうけど、このまま黙って死ぬよりはマシだ。きっとこれからは毎日危険な勝負になる、そう思うと不安な気持ちは増していくばかりだった。

 気分を落ち着かせる為に自分の寝床に移るとオルゴールのぜんまいを回すが、オルゴールの音色を聞いているとふと先程見掛けた女性の事を思い出した。そういえば僕が孤児院にいた頃、先生達の中に蒼く美しい瞳を持った女性がいた。女神のように優しくて皆からも慕われていた先生。どうにも先程の女性はその先生を彷彿とさせる雰囲気を纏っていたが、孤児院が襲撃された際に先生達は全員孤児院と共に焼き殺されたと聞いている。だから彼女が当時の先生であるなんて事は有り得ない。


「………」


 それにしても僕は何故こんなに先程の女性の事を気にかけているのだろうか。強姦なんてこの街では別に珍しい事でもない。そもそも赤の他人を心配するなんてこの街では自殺行為に等しいし、そんなものは無駄で何の得にもならないのだ。

 思考を放棄し眠りに就こうとするが、何も考えないようにしても僕は中々眠りに就けず寝返りばかり打っていた。先程見た蒼い瞳が脳裏に焼き付いてどうしても離れない。あれから随分な時間が経ったけど、彼女は一体どうなったのだろうか。もしかしてまだ犯され続けているのか、それとも既に殺されてしまったか…。


「…はぁ」


 すぐ近所だし、少し様子を見てくるだけだ…そう自分に言い聞かせながら布団から出ると僕は先程の現場へ向かった。

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