女神の仕立屋



 露店市をひととおり覗き見たあと。シエロに連れられ最後に向かったのは、デアサルトという屋号の仕立屋だった。


 お世辞にも広いとは言えない店内。通りに面した大きな窓ぎわには、白絹のドレスが飾られていて。胸もとや袖口はもちろん、前開きのスカートから覗く、ペチコートのフリルにまで贅沢にレースを重ねたそのドレスは、いわば純白の薔薇のようで。


 いったい、いつ、誰が着るのかしらと、疑問を抱くと同時に、嫌な予感というか……、ぞくりとした寒気を感じたりしたのだけれど。

 壁一面ぶんある造りつけの棚は、多彩な布地で埋め尽くされていて、見ているだけで心が弾んだ。


 そして、ここでもシエロは愛想よく迎え入れられる。


「これはヴェントスさま。本日はどのようなご用件でしょう」


 応対にやってきた年配の男性に、シエロも笑みを返していた。


「ディアーナはいる?」


 シエロがたずねると、頃合いを見計らったように、二階へと続く階段からひとりの女性が降りてくるのが見えた。


 二十代後半くらいだと思う。純白の薔薇とは真逆を行く漆黒のドレスと、癖のない長い黒髪が印象的で。神秘性を感じさせる美しさを持つ彼女を、わたしは知っていた。

 階段を下りきるまえに、愁いを帯びた鳶色とびいろの双眸が、気怠けだるげにシエロへと向けられる。


「あら、ヴェントスさまではありませんか。昨日の今日で、催促にいらしたのではありませんわよね。これ以上納期は早められないと、お伝えしましたでしょう?」

「承知しているよ。ただ、どうしても確認しておきたいことがあって。例の赤いドレスだけでいいんだけど、見せてもらえるかな」


 用件を伝えたシエロに、ディアーナは首を傾げていた。


 どうやら、シエロの斜めうしろにいたわたしに気づいたらしく——。

 刹那。彼女の瞳がきらりと輝く。

 その輝きは獲物を狙う猛禽類を思わせ、おののきからびくっと体を震わせたわたしは、即座に逃げ場を求め、シエロの背後へと移動していた。


 当然、隠れきれないとわかっているし、いまさらだという諦めもある。けれど得体の知れない恐怖を、彼女からは感じるのだもの。


「……そちらのかたは——」


 ディアーナのもの問いたげな瞳に、シエロは怯む様子もなく笑顔で応じる。


「彼女はアネモネ。新しく雇い入れた侍女だよ」

「——そういうことですのね」


 それだけで事情を推察したのか、ディアーナは納得を見せていた。とくに質問もなく、わたしたちは店の奥へと案内される。


 最奥の扉を開けたディアーナに促されるまま、続き部屋へと移動したのだけれど。そこにあった棚も、たくさんの布地で埋められていて。広い作業台の上には、針山や裁ち鋏などの縫製用具も揃っていた。

 どうやら採寸や試着に使われている部屋らしく、間仕切りに据え置かれた衝立の向こうには姿見もあり——。


 興味深く部屋を見回していると、音もなく扉を閉めたディアーナが、ゆっくりと振り返る姿が目に映った。しかも彼女の整った顔が、にんまりとした微笑みで崩れていく過程までも目にしてしまう。


 もうそこに、さきほどまで見せていた気怠さは微塵もない。


「ロベリアさまにお越しいただけるなんて、わたくし、感激ですわ!」


 言い終わるが早いか、わたしはディアーナから熱い抱擁を受けていた。背の高い彼女に抱きしめられると、小柄なわたしは、ほどよい膨らみの胸に顔をうずめる結果となり。


 冗談抜きで、息苦しいのだけれど。


 対処法を知らず、硬直したわたしを束縛したまま、ディアーナは会話を続けてくれる。


「ロベリアさま。今日こそ、お返事をお聞かせ願いますわ。わたくしだけのファッションドールになってくださるお話、もちろん承諾していただけますわよね?」


 まさに昨日。城館の自室で、人形よろしく窮屈な思いをさせられた記憶が蘇る。ドレスの補正を名目に、ディアーナは、その窮屈な思いを味わわせてくれた張本人で。


 まず、ディアーナと初めて会ったのは、わたしがリベルタス領入りをした日より、さらに半年ほどまえ。公爵との婚約が正式に発表され、花嫁衣装の仕立てを請け負った彼女が、カネレ伯爵家まで採寸にやってきたときのことだった。


 なぜ、彼女に仕立てを任せるに至ったのか。それは彼女を薦める、ミネルヴァの助言が多大に影響したからにほかならない。しかも花嫁衣装とは別に、追加でドレスを仕立てるよう、ミネルヴァからも注文を請けたというし。

 義母となる人の計らいを断るわけにもいかず、加えて補正も必要だったため、昨日も含め、彼女とは何度か顔を合わせる機会があり。


 そこで会うたび執拗に迫られていたのが、ファッションドールになってくれという、とうてい承服できない無茶なお願いで。

 拒否権までも奪われるに違いない、彼女だけの着せ替え人形になるだなんて。できることなら一刻も早く、ご免こうむりたかったのだけれど。


 無理です。と、伝えること自体が恐ろしく思えて及び腰なわたしは、助けてくださいと、シエロに目で訴えるしかなかった。

 けれど困ったことに、わたしの訴えは少しも伝わっていないらしく、シエロは落ち着いた様子でディアーナを見ていた。


 しかも。


「……ディア。ロベリア嬢を圧死させるつもりなのか?」


 なにを冷静に、とんでもない結末を口にしてくれるのかしら。息苦しさも手伝い、わたしはますます青ざめる。


 そこにディアーナが言いわけを始めた。


「ですけれどヴェントスさま。伯爵家のお屋敷や公爵さまの城館で、このような愛情表現はできませんでしょう? 伯爵家ではソフィアという侍女にずっと睨まれておりましたし、城館では同じような目でニーナがわたくしのことを見張っていますのよ。せっかくこうしてロベリアさまを捕まえましたのに。手を離して逃げられてしまうより、わたくしの胸で眠っていただける、そちらのほうが本懐ですわ。わたくしロベリアさまを、心の底から手に入れたいと望んでおりますもの」


 ちょっと待って。いま、わりと直接的に、死んでも構わないと言われたような気がするのだけれど。それになんだか、だんだんと締めつけが強くなってきているようで。


「……く……苦し……です——」


 ついにわたしは声を絞り出し、藁にも縋る思いでシエロに手を伸ばしていた。

 なのになにを思ってか。切羽詰まったわたしをまえに、シエロは仰々しく溜息をついてみせた。


「まったく。本気で息の根を止めるつもりなの? ロベリア嬢はルクスさまの婚約者だと、ディアも承知しているよね? それに、価値あるドレスをディアが作り続けてくれる限り、ディア以外に仕立てを任せることはない。それで充分だと思ってよ」


 これからも彼女に、仕立てを任せる。それもあまり歓迎できない流れなのだけれど。


「ほら、いいかげん諦めて離れて」


 あくまで冷静に、けれどようやくシエロは、わたしからディアーナを引き剥がしてくれた。


 それにしても——。本気で、殺されるかと思った。


 圧死の危機から解放されたわたしが安堵の息をつくと、残念感たっぷりに、ディアーナも吐息を零していた。


「そうですわね……。ロベリアさまったら、怯えた小動物のようにお可愛らしいから。浮いた噂話のひとつも聞こえてこない、あのルクスさまでも、わたくしのように惚れ込んでしまわれるかもしれませんものね……。そうなるまえに——」


 ディアーナの視線が、わたしに絡みつく。


「攫ってしまおうかしら」

「思っても実行に移すな」


 瞬時に重い声が落ちた。釘を刺したのは、シエロだった。


 彼が発した平常より低めのその声は、初めて耳にするもので。ディアーナから送られる、名残惜しそうな熱視線を遮ろうとしてか。シエロはわたしを背に庇うように立っていた。


 そのせいで、顔色を窺えないからだと思う。シエロがいま、なにを考えているのか。彼の背中ばかりを見ていると、無性に気になってくる。


 そのとき。ディアーナがシエロに向かい、したり顔をしてみせた。


「わたくしの行動を不快にお思いなのでしたら、最初からそのように、はっきりと仰ればよろしかったのですわ。それとも、ロベリアさまのまえで冷静に努めなければならない理由でも、ヴェントスさまにはできまして?」

「ディア——。理由ができたと俺が頷けば、満足してくれるの?」

「そうですわね……。難敵が増えますのも、また一興かと」

「なら、もう好きに解釈していいから。仕事の話をしよう、ディア。いますぐドレスを見せてもらえないかな」


 ディアーナの質問が、どのような意味合いを含んでいたのかはわからないまま。シエロの要求に、ディアーナの双眸は冷ややかに細められていた。

 朱い唇は、薄く笑みを刻んでいるようにも見える。


 その表情は、彼女こそ魔女という呼び名に相応しいのではないかと思わせた。


 彼女なら本当に、人ひとりくらい、簡単に攫ってきそうではあるけれど。彼女の関心が、わたしから仕事に移ったのは確かで。

 わたしはすぐに、ふたりの会話から取り残されていた。






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