『不穏な雲行き』 その5

 その名前を、木虎旭姫は知っていた――正確には、知っていたはずだった。なのに、気づくことができなかった。



 その名前を聞いたのは、今ではもう昔と呼べるくらい前のことだ。既に、旭姫の中では自分を形作る過去として消化してしまった日々のことだ。



 その名前を、旭姫は、母から聞いていた。なだらかな午後。微風に揺れる白いレースのカーテン。長い休暇の最中だという母の膝に座って、静かに話を聞いていた。硝子戸の向こう、木漏れ日が芝生に落ちる庭で、空翔と父がボール遊びをしているのが見える。



『この人はね、お母さんの味方だった人なの』



 母は芸能雑誌の新刊を旭姫の前に広げる。



『お母さんは『アイドル』だったから、好きだと言ってくれる人も多かったけど、それと同じくらい、嫌いだっていう人も多かった……お父さんと結婚して、アイドルをやめようか、どうしようかってなった時には、特にね』



 そう言って俯いた母は憂いた顔をしていたが、当時のことはもう吹っ切れているようで、瞳は未来を見据えているようだった。



『でもね、この人だけは、お父さんとお母さんの結婚に賛成してくれて、後押しをしてくれたのよ。彼も、守るべきものが多い、偉い立場の人なのにね』



 旭姫は難しい話が理解できず、母に分かりやすい解説を求めて顔をあげた。



『そうね、旭姫にはちょっと難しかったかも……。簡単に言うとね、この人がいたから、今、私と空さんは、旭姫や空翔と、こうして一緒にいられるのよ』



 ありがたいことね、そう言って母は話を締めくくった。



 柔らかく窓から射しこむ陽光が、なんとも心地よい午後のことだった。



 母の声はどこまでも甘い。まるで穢れを知らない少女のように。なのに、矛盾するようだけれど、母の声は凛としていた。はっきりと旭姫の耳に届いた。一家を守ろうとする母の声として。



 結局、その人の後押しを得て、母は「あの事件」が起こるまでアイドルを続けられた。



 その人の名前を、旭姫はもう、覚えてはいない。



 ただ、芸能雑誌の中、母が主演のドラマの特集ページで、その監督とやらが向けるあたたかい笑顔だけが、旭姫の網膜に焼き付いた。






 その笑顔が、今、時間を飛び越えてしまったかのように、旭姫の方に向けられている。



 紙面越しなんかじゃない。あの時の笑顔が、直接、旭姫の前にある。



 旭姫が呼び出されたのは、非常階段の踊り場だった。緩やかな風が、二人の足元を撫でていく。



 旭姫が雑誌で見た彼と少しだけ違っていることがあるとすれば、今の彼の瞳には光が宿っていないということだろうか。



「……あなただったんですね」



「本当に、あんなメールで簡単に呼び出せるんだな。あの『木虎旭姫』が『Nacht』でお友達ごっこをしているという噂は真実だったらしい」



 彼の名前は思い出せない。ただ、今回、『Nacht』が出演することになった番組の制作陣だった。もっとも、彼のこなしていた仕事は道具やカメラを運んだり、ケータリングを運んだり、出演者を出迎えて荷物を預かったりという、雑用ばかりだったけれど。



 偉い立場の人。



 あの日の母は、彼のことをそう評していたというのに。



「……何だよ、その目は」



 旭姫の視線に気づいた彼は、唸るように低い声を響かせる。髪はひどくボサボサで、目は落ちくぼんでいる。そして、ぎょろりと光ないままに旭姫を見据えている。新作の撮影に目を輝かせていた彼は、もう、どこにもいない。



「どうせお前も俺のことを可哀想だと思ってるんだろ!? なあ!?」



 じゃり、と、彼が一歩を踏み出す。思わず、旭姫は後ずさってしまっていた。



 今までの旭姫を憎み、引きずりおろそうとしていた連中とは何かが違った。



 ――異常。その一言が、旭姫の頭の中を占めている。この人に近づいてはいけない。この人に話は通じない。この人の逆鱗に触れてはいけない。臆病などではなく、理性によって統制された生物の片隅に残る本能のようなものが、そう語っていた。



「お前のせいだ……お前のせいで俺は駄目になっちまった……お前のせいで俺は仕事がなくなっちまった……お前のせいで俺は仕事を降ろされた……」



「あなたは……」



 なぜ、雑用ばかりをしているのか。



 母は、あなたのことを偉い立場の人だと言っていたのに。



 雑誌で見たあなたは、一大プロジェクトとなる映画の撮影を任された新進気鋭の監督だったのに。



「そうだよッ! お前らのせいで……俺の人生は滅茶苦茶だッ!」



 母から聞いた彼は、敏腕の業界人というイメージがぴたりと当てはまる人だった。そして、彼の言葉が本当なら――彼は母の起こした事件のせいで、雑用係に降格された。母が事件を起こして以降、現場に入る立場の人々には、『魔力』の暴走に対抗しうる『魔力』が必要だった。



 『魔力』の欠片など微塵も持ち合わせていない彼は、次世代アイドル戦国時代を、生き残ることができなかった。



「それなのにお前は皆で楽しくお友達ごっこと来ている……こんなの、理不尽だろう……?」



 彼はおもむろに節くれだった手を旭姫へと伸ばす。胸倉を掴み上げ、旭姫の呼吸をせき止める。生温かい息が耳元にかかるのが気持ち悪かった。



 お友達ごっこなんかじゃない。そう言いたいのに言葉が出てこない。



 この男は、異常だ。メールを受け取った時からその狂気じみた執着心は感じ取っていたけれど。



 この男は、壊れかけてしまっているのだろう。あの時の――母を亡くしたばかりの頃の、自分のように。

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