『不穏な雲行き』 その2

 大舞台を間近に控えていると、レッスンにもどうしても気合が入る。それは、学園創立以来きってのエリートユニットである『Nacht』にっても、例外ではない鉄則だった。



 毎日が、レッスンに次ぐレッスンの日々だ。ダンスレッスン、ボーカルレッスン、果ては演出の打ち合わせや、その合間を縫って行われる雑誌のインタビュー、そして衣装の発注など。時間が足りないとは、このことだった。最終的には、プライベートとアイドル業の境界すら曖昧になってくる。バスタイムにも課題曲を口ずさんだり、風呂上りの柔軟すら最終的にはステップを踏んでしまったりしている。



 とはいえ、やみくもに練習すればするほど『プレライ』の成功に近づく、なんて、物事はそこまで単純じゃない。努力ですべてを手に入れられるほど、アイドルは甘くないのだ。才能、努力、それから効率を重視した緻密な計算と、管理と、演出。オールマイティでなければ、ライブのひとつもこなせない。



 そんなこんなで、レッスン量を徹底的に管理するのは、司狼の仕事だった。練りに練った計算の果てに、彼がメンバー各人の体力を配慮しつつ、タイムスケジュールを打ち立てる。オーバーワークを防ぐためだ。



「じゃあ、十五分の休憩!」



 司狼の声が、広々としたレッスン室に響き渡った。



 『Nacht』は、各人の魔力の強さから、どうも人間離れしたユニットであると思われがちだが、三人とも、れっきとした人間である。ずっと踊っていられるほどの体力も、歌い続けても喉を嗄らさないでいられる能力もない。



 旭姫はしばらく身体の火照りを覚ましてから、鏡に背を預け、ゆっくりと座り込む。それから、スポーツバッグの中にあるタオルとドリンクを取り出した。隣では、休憩の合図がかかった途端倒れ込むようにして休憩を取り始めた眞白に対し、司狼が「バカ! 体を動かしてすぐに休んだら乳酸がたまる!」と鬼監督のような注意をしていた。



 半分ほどドリンクを飲み干して、旭姫はボトルを鞄にしまおうとする。その時、鞄の奥底で携帯が震えていることに気がついた。指先に注意を払っていなければ気がつかないような、僅かな振動。これは電話ではなく、メールの着信を告げるものだろう。



 携帯を取り出し、メールフォルダを確認して、旭姫はひとつ溜息を吐いた。



「旭姫、どうかしたか?」

「ううん。何でもない」



 目ざとい司狼に対して曖昧な言葉で誤魔化しつつ、旭姫は先ほど受信したメールの本文を確認する。



 正直、「またか」と思ってしまった。



 ばっさりと切り捨ててしまってもいいのなら、最近、旭姫のアドレスには頻繁に迷惑メールが来る。



 これが、オムライス殺人事件だの主人がアリクイに食われて身体を火照らせる未亡人だの、金銭を巻き上げるために不特定多数にばらまかれたメールだったのなら、まだ対処の方法はある。問題は、このメールが、明らかに旭姫――『Nacht』のセンターである木虎旭姫に向けて綴られているものであることが、はっきりと本文から読み取れるということだった。



『もうすぐ『プレライ』なんだろう?』

『それも、かなり大きいやつ』

『そんな簡単に上手くいくとでも?』

『お前はアイツの息子なのに』

『アイツの息子が、そんなに簡単に、アイドルとして生きていけるとでも?』



 曖昧な言葉で誤魔化しておきながら、核心をついているようにも思わせるメール。もしかしたら、バーナム効果とやらを狙って学園のアイドル候補生全員に送信されているのかもと思ったが、そんな噂はまったく聞かない。



 『プレライ』恒例の試練のひとつかもしれないとも考えたが、あれはライブの直前で、リハーサル時にも見舞われなかったトラブルをわざと起こし、出演者の動揺を誘い、精神の強靭さをテストするためのものだ。決して『プレライ』の数週間前からねちねちと行われるようなものじゃない。



 メールの差出人が誰なのか、そしてどんな意図でこれを旭姫に送りつけているのか、彼は『Nacht』の何なのか。



 メールが来るようになった一週間ほど前からずっと考え続けているが、答えは出ない。



 司狼に相談するということも考えなかったわけではないが、メールの本文からすると、『Nacht』全員というよりは、旭姫個人の問題であるような気がした。関係のないことにユニットメンバーを巻き込む気など、旭姫には毛頭ない。



 気味が悪いと思いつつも、最初の三日ほどは放置していた。その内相手も飽きるだろうと思ったからだ。なのに、調子に乗っているのか、メールの本文はどんどんエスカレートしていった。



『お前達の『プレライ』は必ず失敗するよ』

『当日には、ちょっとした仕掛けを用意してるんだ』



 ただでさえ気味の悪かったメールが、放置できないほどの気味悪さに進化していた。



 まず旭姫がとった対応は、受信拒否だった。けれど、アドレスを変えて何度も同じ人からメールが届く。



 一度は学園内に設置してあるデスクトップPCのメールアドレスから送信されていたようで、学内の誰かからかもしれないとあたりはついた。それが生徒なのか、講師なのか、それとも出入りしている業者の誰かなのかは分からないけれど。



 嫌がらせといえば嫌がらせなのだが、しかし、目的が見えない。自慢できることではないが、旭姫はこれまでに生徒から何度も嫌がらせを受けている。メールや手紙といった間接的なものもあれば、直接の暴力も含めて、だ。しかし、これらの嫌がらせには、旭姫や『Nacht』を蹴落としてやろうという、明確な意図があったのに。



 旭姫はメールを返すことはしなかった。キリがないと分かっていながらも、何度も受信拒否設定を繰り返す。



 そんな日々が、しばらく続いた。




 けれど、不思議なことに、『プレライ』の前日だけは、旭姫のもとにメールは一通も来なかった。

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