『星降る夜空に願うのは』 その12

 迷子になった時の鉄則は、壁伝いに歩くこと。

 これ迷路必勝法だって、幼い頃、兄に聞いたような気はするけれど、でも、例外的に使えない状況があるとも彼は言っていたような気がする。



 壁に手を置くと、しめった硬い感覚があった。



 上を見上げれば夜空が目に入る。



 洞窟みたいな、それでいて吹き抜け構造の、よく分からない地形だった。



 中学時代、地理の授業は苦手で、ほぼ睡眠時間のような扱いだったけれど、こんなことならちゃんと起きて話を聞いていればよかったかもしれない、と考えたところで、所詮は後も祭りだ。



 落ちてきた衝撃で壊れてしまったのか、懐中電灯はスイッチをオンにしても反応がない。ぶんぶん振り回したり、四十五度の角度で叩いてみたり。余計壊れてしまったかもしれない上に、直る見込みはゼロのようだった。



「こう……何か……魔法で光みたいなものを出せば、いけるかな……?」



 随分とざっくりとした、印象だけの解決策になってしまった。旭姫であればもっと具体的な対応を練ってくれるのかもしれない。



「兄さんはどう思う?」



 反応がなかった。落ちて来る時は一緒で、落ちてからそんなに時間も経っていない。空翔と一緒にいたくなくて、個別行動を始めたというのも悔しいが納得できてしまう。しかし、それでも、視界があまりよくない中、声も聞こえないほど遠くへ行ってしまっているとは考えられなかった。



「兄さん!」



 振り返って視線を彷徨わせたところ、意外と近くに人影を発見した。呼びかけてみるも反応はない。空翔の方に背中を向けているので顔までは分からないが、ここに自分達二人以外が落下してきたとは考えにくい。



「兄さん……?」



 反応がないことが不安になり、思わず駆け寄って彼の手を取った。

 旭姫がちゃんとそこにいることを、確かめたかった。普段なら呼んではいけない

「兄さん」という呼び方も、二人きりならば呼んでもいい。そんな風に考えて、少し気が逸っていたのかもしれない。彼がもう自分を置いてどこかへ行くことのないように、捕まえておきたかったのかもしれない。



 空翔が彼の手に触れた途端、旭姫は大仰なくらいにびくりと震えた。



「ご、ごめん」

「……何でもない。ちょっとびっくりしただけだから」



 口早にそれだけ呟いて、旭姫はまた背中を向ける。折れてしまいそうな自分を、両手でぎゅっと支えながら。



 咄嗟に触れた彼の手は、冷たかった。秋になり、森の中で涼しい状況なのに、汗をかいているようだった。そして何より、旭姫は震えていた。



「ひょっとして、暗いところ、怖いの?」

「こ、こわくなんか……っ!」



 けれど、否定する彼の声はか細い。



「俺が風邪を引いた時も、無理して寮に来てくれたの?」

「だから、怖くなんかないって言ってるだろ……」



 旭姫はただ、暗く閉じ込められた状況が苦手というだけだ。



 昔、まだこの学園に来たばかりの頃、クラスメイトに掃除ロッカーの中に閉じ込められたことがある。小柄な旭姫は、その生徒達に逆らう術を持っていなかった。

 ロッカーに閉じ込められただけだったらまだよかったのかもしれない。気づいた司狼がきっと助けに来てくれる、そう悠長に構えてただ時が過ぎるのを待っていられたのかもしれない。

 実際は、閉じ込められるだけではすまなかった。閉じ込められ、出口を塞がれた上で、ロッカー越しに思い切り蹴られていた。相手の表情こそ見えなかったが、憎しみに満ちた罵声を吐かれた。「お前なんていなければ」は以前にも、何度か、時には遠回しに、時には直接言われたことがある。その時は「お前なんていなければ」に加えて、「ここでそのままくたばってしまえばいい」とまで言われた。ロッカーを蹴られた轟音と共に、耳障りな雑音がひたすらに響いてくる。あの時ばかりは、耳が壊れるのではないかと思った。



 暴力も怖かった。しかしそれ以上に、自分がこれほどまでに相手に憎まれる存在なのだということが怖かった。



 もしもこの憎悪が、自分だけではなく、自分以外の、自分が大切に想っている誰かに向けられたら、どうしよう。



 そう考えると、その場では声も上げずに耐えるしかなかった。否、怖くて声すら上げられなかったのかもしれない。



 暗く狭い空間にいると、夏のあの日、汗ばんだ自分の肌のべたつきを思い出す。今はもう、あの時とは何もかも違う、夜風が涼しさを運ぶ秋だというのに。



「兄さん……」



 震える兄を見ていたら、思わず身体が動いていた。



 壊れ物でも扱うように、彼の身体をぎゅっと抱きしめる。



 これなら、聞こえるのはお互いの鼓動だけだった。不安そうな、心細そうな、弱気な表情をしている兄を見たくない、そんな空翔の弱音がそこには含まれていたのかもしれないけれど。



「……何してるんだ。暑苦しい」



 そうは言いながらも旭姫は空翔を無理矢理引きはがすようなことをしなかったし、憎まれ口を叩けるぐらいにはもう不安も払拭している。



「兄さんが昔こうしてくれたんだよ。こうすれば怖くないって、俺に言い聞かせてくれた」



 幼い頃、空翔は今に比べて、自分で随分と臆病な子供だったように思う



 もちろん、子供らしい無茶や無謀な行動もたくさんした。階段を何段とばしで降りるかを友人と競って兄に叱られたこともあった。しかし、根はどちらかというと兄に似て穏やかだったのだ。

 怖い番組を見て眠れないと兄に泣きついたこともある。夜に放送されていた特別番組で、実際にあった怖い話をドラマ仕立てにして放送するのだ。母が出演していたから、兄と二人で見ようという話になった。

 母が演じていたのは、事故に合って死者となるが、この世に怨念があって成仏できない幽霊の役だった。白装束を来て、血糊塗れで不気味な笑顔を見せる母はまるで知らない人のようで、それを見た空翔は怖くなってしまったのだ。



 それに、あのドラマが、幼い兄弟に初めて「死」を認識させた話だったように思う。死んだら人は天国にいけるのだと、絵本で読んだことがある。でも、現実はそんな簡単な話じゃないのかもしれない。



 自分が死んだら、どうなるんだろう。そんなことを、初めて空翔は考えた。



 季節の変わり目にはしょっちゅう風邪を引いていて、暗闇の中、目を閉じたら自分はもう起きられないのではないかと弱気になることが何度もあった。あの時の今にも足元から世界が崩壊してしまいそうな、心もとない感覚を思い出すと、余計怖くなって仕方なかった。



 そうして怖くて眠れないと泣きついた弟を、兄は「大丈夫だから」と言って、抱きしめてくれた。朝まで一緒に眠ってくれた。当時の年齢からして、兄にとってもあの番組は怖くなかったはずがないのに、そんなこと、微塵にも出さなかった。弟が不安そうな顔で何かを問いかけると、微笑みながら答えてくれた。



 そして、自分はそんな兄に気づくことができないほどに子供だったのだ。もしかしたら、あの時から何の成長もできていないのかもしれない。それでも、今だけは、兄に対して何もできない自分ではいたくなかった。



「もうこんなことをする子供じゃないでしょう……お互いに」

「……ごめん」



 一応、謝りはしたけれど、空翔としてはこのまま兄を離す気など、まったくなかった。



 黙ってしまった兄に、空翔はもう一度「ごめん」と言う。旭姫は呆れたように「それしか言えないの?」と言ったきり、また黙ってしまった。



「……あの日、俺は『Nacht』にも『Bell Ciel』のメンバーにも迷惑をかけたし、熱に任せて、兄さんに滅茶苦茶なことを言ったと思う。だから、ごめん」

「何のことを言ってるかまったく分からないんだけど」

「分からなくてもいいよ……そのまま聞いてて」



 もしかしたら、という気持ちが今でも拭えているわけではない。あの日、寝込んでいる自分の目の前に現れた兄は、弱っている自分が見せた都合のいい妄想だったのかもしれない。



 ただ、例えそうだったとしても、自分は兄に理不尽な気持ちをぶつけすぎていたと思う。



「分かってはいたんだ。兄さんのことだから、俺への態度には何か理由があるんだって。分かってたはずなのに……」



 空翔が初めて再会した兄と話した時、彼は理不尽な暴力に耐えていた。



 この島にやって来た時、今の季節にしては兄は厚着をしていた。本人は日焼け対策だと言い張っていたけれど、細い腕に痣があるのを空翔は見逃さなかった。



 けれど、彼は一言も痛いなんて言わずに堪えている。



 兄が何かを隠していることは知っている。



 もしかしたら、それが空翔に関わることなのかもしれないということだって、薄々察しはついている。



 そんな兄だからこそ、そんな兄にこそ、気づいてほしい事実はった。そんなもの、空翔の自己満足だと言われればそれまでだけれど。



「兄さん、もう、俺、子供じゃないよ……?」



 もう、守られるだけの存在じゃない。



 背だって、今は兄よりも伸びた。



 こんな自分でも、こんな自分だからこそ、誰か大切な人を守ることはできるのだと、空翔は信じたかった。



 だから、旭姫には、何かを一人で抱え込むなんて真似、してほしくなかった。



「……僕は、守られるだけのヒロインなんてごめんだ」



 ぼそりとそう呟いて、旭姫は今度こそ空翔を自分から引きはがした。



「君は僕がわざわざ自分を犠牲にして君のもとから去ったとでも思っているの?」



 そんなのは全部思い上がりなのだと、旭姫は言う。自分は、そこまで優しい人間ではないのだと。



「人間は誰でも自分中心に生きているんだ。今、僕がここにいること、そこに至るまでの選択は全部、僕が自分で決めたことだ」



 悲劇のヒロイン扱いなんて、失礼にもほどがある。



 しかし、キツいことを言う旭姫にも、いつものように覇気がなかった。



 軟弱な身体は、温もりから離れた途端に再び震えだす。心が動揺しているせいか、周囲の景色もざわついているように見える。木々のざわめきも、壁から石屑がぱらりと落ちる音も、忌々しい。



「兄さん!」



 今度は抱きしめるようなことこそしなかったが、もう一度、空翔は旭姫の手を取った。そしてその手を上げさせる。まるで何かの戦いに勝った人を称えるみたいに。その動作につられて、旭姫は上を見た。空翔も上を見ている。



 そこには、切り取られた空があった。



 空には、いくつもの星が瞬いていた。



 星座の名前なんてほとんど知らない。今光っている星が、宇宙のどこにあるものなのかも分からない。



 なのに、その光が優しいことだけは、ちゃんと伝わってくる。



 ここに光があるのだと、瞬くことで主張している。



「……僕はもう、星に何かを願うことなんて、しない」

「そう? 俺は今でも結構するけど」



 正確には、空翔は最近、星に願うようになった。兄のことをちゃんと知りたいと思ったあの日から。



 願い事なんてしないと言っていたけれど、旭姫が空から目を逸らすことはなかった。空翔は何を願ったのかを明かさなかった。



 お互いに、何かを聞くことも、話すこともしなかった。そこまで自分達はもう子供じゃないんだと、頑なに主張するように。



 ただ星を見つめたまま、穏やかな時間だけが流れていった。





 そんな二人を、仲間を見つけようと懸命に駆けずり回っていた眞白が見つめていた。声はかけない。かけられるはずがなかった。



 自分だけが蚊帳の外にいるような気がして、寂しくなった。



 そのまま何も言わず、ただ静かに、眞白はその場を立ち去った。


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