『あの日の約束』 その3

 時は無常だ。長い針がてっぺんにいき、また回る。それを繰り返す内、知らぬ内に時は過ぎていく。



 もうどれだけ待ったことだろう。どれだけ、リハーサルの時間を引き伸ばしたことだろう。



 アイドルのスケジュールというのは、タイトである。秒刻みとまではいかないが、分刻みで動くことはままある。そのために、ひと昔前まではマネージャーという職業が存在していたのだが、現時点では――プロのアイドルでもない自分達には、マネージャーは存在しない。マネジメントも、プロデュースも、自らの手で行うしかなかった。



「今日の合同ライブも『プレ・ライブ』に入るわけ? だったらこれも『プレ・ライブ』の試練のうちなの?」



 舞台袖という薄暗い場所で、顔などろくに見えずともはっきり分かる。旭姫の声には苛立ちが滲んでいた。ちらりと複雑な機材に刻まれた時刻を見る。リハーサルがあるからと指定した集合時刻はとうの昔に過ぎている。



「一応、『箱』が欲しいと、学園に申請して抑えた会場だからな。申請書は出してある。それに印鑑を押すだか署名をするだかした親父が、『プレライ』だと思えば申請は『プレライ』として通っているだろう」



 ――適当、というよりは、臨機応変な学園長による規則である。



 まるで、アイドル候補生を困らせて、楽しんでるみたいだ。

 まるで、自分の手のひらの上でアイドル候補生を転がして、遊んでいるみたいだ。



 学園長――司狼の父――は、確固たる信念を持って学園を経営しているらしいことだけは分かるのだが、その真意は、『Nacht』の三人が何度彼と対面しようとも、垣間見えたことがない。



「だったら、今日の『プレ・ライブ』の試練は何? 『Bell Ciel』の乗った車が渋滞に巻き込まれて定刻に現場入りできないとでも?」

「いくら親父でも、交通渋滞を引き起こすほどの力は持ってないと思うけどな」

「……もし、渋滞でも、夕は、車から降りて走る……と思う」



 『プレライ』だから、多少の試練はあるかもしれない。渋滞に巻き込まれずとも、車が故障したとか、タイヤがパンクしたとかで、現場に到着できないということもあるかもしれない。



 けれど、移動の足が思うように動かないというだけで、あの『Bell Ciel』が、殊更、あそこまで不敵に宣戦布告をした織田美琴が、『プレライ』を諦めてしまうものだろうか?



 思いを馳せていたところに、ちょうど足音がした。



 最初は、美琴の足音ではないだろうと思った。彼はこんなにどたばたと走ったりしない。でも、近づいてくる姿を見れば、やはり美琴だと分かる。どこか常軌を逸した雰囲気を纏っている彼でも、遅刻した時はこんな風に急ぐのだ。彼は息を切らして、必死に、こちらに駆けてきている。後ろにまだぽつんと見えるだけの人影は、おそらく夕だろう。眞白が夕は足が速いと言っていたが、もしかしたら美琴の方が速いのかもしれない。殊アイドル業が絡むことに至って、彼は、貪欲なのかもしれない。



「……すまないっ!」



 息も絶え絶えに駆け寄って来た美琴は、駆け寄ってくるなり、『Nacht』の三人へと頭を下げた。



 意外だった。驚いた。驚愕だった。衝撃だった。どんな言葉を用いても、この「驚き」の大きさは表現のしようがなかった。特に司狼に関しては。

 あの美琴でも、あの日、大胆不敵にも宣戦布告をした彼でも、自分の非を認めて頭を下げることがあるのだと、その一点だけが脳内を占め、頭を下げた原因の追求すらも、一瞬のうちに彼方へと飛ばしてしまいそうになる。



「遅刻の理由は何だ? 頭を下げているだけでは分からんぞ。渋滞か? 車のエンストか?」

「違うでしょ」



 ようやく美琴に追いついた夕を見て、確信したように旭姫は言った。

 そしてその旭姫の確信が正しかったと証明する言葉を、美琴は口にする。



「空翔が……倒れたんだ」



 神妙な面持ちだった。それだけで、空翔はただ「倒れた」だけではないことが分かる。



「今朝、熱が出たらしくて……でも空翔は解熱剤を飲んででもライブに出るって聞かなくて……ここに来る前、迎えの車を待っている途中で、倒れて……」



 僕のせいだ、と美琴は言った。深く頭を下げたまま、決して顔を上げようとはしないから、彼の表情は分からない。それでも、声からは自分を責めていることだけはよく分かった。今までの、上辺だけで微笑んでいるような美琴はここにはいない。



「僕のせいだ。リーダーなら、メンバーの体調不良には気づいて当然だった。気づいて、気遣って、ライブの当日までは万全の状態に戻すべきだった。それを怠ったんだ。すべての責任は僕にある」

「……美琴だけのせいじゃない。オレも気づけなかったんだから」



 庇うような夕の言葉も、美琴には届いていたかもしれない。届いていて、メンバーに庇われるリーダーとしての自分の不甲斐なさを、ますます噛みしめてしまったのかもしれない。彼はぎゅっと、手のひらに爪が食い込んで、血管が悲鳴を上げ、白い肌に血が伝うのではないかと危惧してしまうくらい、拳を握りしめていた。



 空翔の容態を、聞いた方がいいのかもしれない。病院にはちゃんと行ったのか。医師の診断はどうだったのか。当の空翔は、今、どこでどうしているのか。

 けれど、旭姫の口を突いて出たのは、まったく違う言葉だった。



「……ライブの方は、どうするつもり?」



 空翔の心配なんて、微塵もないというように。倒れた顔見知りよりも、観客のいないステージを気にかけている。



「……言っただろう。責任は取る。君達に迷惑はかけない。僕と夕の二人でもなんとかして――」



 この場で実質取り締まる立場にいる司狼が何か口を出す前に、美琴の考えに異を唱えたのは、旭姫だった。



「それは止めた方がいい。『プレ・ライブ』には観客がいない。だからそれで済むかもしれない。でも、実際のライブは違う。客席は関係者席を除いて……ううん。関係者席も含めて、君達のファンで埋め尽くされている。その中で、何人が鷲崎空翔のパフォーマンスに期待してやってきたファンだと思う? 単純に考えても三分の一だよ。それだけの人間を落胆させることは、プロとしては許されない。そして、落胆させるだけならまだしも、正直に「空翔は体調不良だ」なんて伝えてしまえば、心配もさせてしまう。せっかくの『マジック・ライブ』を楽しみにしていた人達の笑顔を曇らせるなんてこと、許されるわけがない」



 そして、『プレライ』はその名の通り、『マジライ』の「前」を、すなわち予行演習を表すものだ。

 練習ですらできないことが、本番でできるわけがない。というのは、一部の業界に限られた話ではない。部活動に打ち込む学生も、発表会に向けて練習をする小学生ですらも知っている。



「幸い、今回の『Bell Ciel』の出演はサプライズだった。だからここで出演しなくても、『プレ・ライブ』の失敗にはカウントされない。『Bell Ciel』の名前に傷がつくこともない。安心するといいよ」



 美琴と夕のいる場所で、美琴と夕の同意もないままに話は進んでいく。



「前座の時間はどうする?」

「僕達の今までの持ち歌と、MCで十分に足りるでしょ。眞白、機材さんに連絡入れてくれる? 今回の『プレ・ライブ』の対処法だってことでそう伝えて。音源の変更も忘れないようによろしく言っておいて」



 旭姫が再び『Bell Ciel』の二人に声をかけたのは、一通りの指示をとばした後だった。



「頭を上げてください。今回のライブの失敗は、貴方達だけのせいじゃない。ユニットメンバーに自分の体調をしっかりと伝えていなかった空翔にも、責任はあるでしょう」



 空翔のことだから、きっと自分ひとりで背負った気になっているのだ。



「……彼の詳しい容態は分からない。僕には関係ない。でもこれだけは彼に伝えておいて。君が自分ひとりで背負おうとするから、こうやって周囲に迷惑がかかるんだって」



 それから、誰に言うでもなく、呟いた。



「……だから言ったんだ。季節の変わり目に毎回体調を崩すくらいひ弱では話にならないって。アイドルは止めた方がいいって」



 それはむしろ、空翔がこの学園に来ることを止められなかった旭姫の、自責の言葉だったのかもしれない。



 けれど、美琴はその言葉を聞き逃さなかった。



「……「季節の変わり目に毎回」だなんて、『姫ちゃん』は、まるで空翔が体調を崩すのが今日だけじゃないと知っているみたいな言い草だね」

「うちのセンターを動揺させる真似はやめてもらえるか?」

 庇うような司狼の言葉に、旭姫は問題ないと肩を叩いた。

「別に、動揺なんてしてないよ」



 それから、自体を把握していない夕に向けて、説明とも、言い訳ともとれる言葉を紡ぐ。



「……空翔とは、ただの昔馴染みなだけ。だから、彼の身体のことも知ってる。それだけだよ」



 それから、お返しとばかりに、美琴にも言葉を返した。




「君達は指をくわえて、そこでただぼうっと、プロに一番近い僕達のライブを見ていればいい」



 俯いたままの美琴の表情は分からない。ただ、屈辱に唇を噛みしめていることは容易に想像できた。

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