第46話 まあね

 翌朝。俺は結菜を起こさないように部屋を出ると、朝一番のバスに乗って、隣町の海へ向かった。


 まだ柔らかい太陽の日差しが降り注ぎ、心地良い天気だったが、乗客は俺だけだった。

 バスに揺られながら、自分の長所を考えてみるが、出てくるの佐藤の家で結菜のおっぱいを触ってしまったことや、結菜と別荘で二人きりになった時にコンドームを置いてきてしまったこと、結菜に買ってもらったパジャマをアイロンで焦がしてことなど、失敗談ばかりだった。

 そういや、コンドームを置いてきてしまった件で、佐藤から何も言われなかった。やっぱり、佐藤の親戚のおばさんはコンドームが風に運ばれて来たのだと思ったのだろうか。そんなわけない。あのテレビゲーム好きのおじさんは、あらぬ疑いをかけられてこっぴどく叱られたことだろう。



 8時前には隣町の海に着いたが、やはり夏本番というだけあって、すでにちらほらと海水浴を楽しんでいる人たちの姿があった。

 もしかしたら、海を一人占めできるかと期待していたが、考えが甘かった。そう、俺はいつだって考えが甘い。

 何かを真剣に考えたことがない。将来の夢もない。ただ、結菜のことを好きでいるだけだった。


「ここの海が好きなのかね?」

 ゴールデンレトリバーを散歩させていたご老人に声をかけられた。ハデすぎないアロハシャツが似合っていた。

「前にもここに来ていたじゃろ。あの日は雨だったがね」

 そっか。少女が誘拐されているかもしれないと思い、心配した結果、不審者と思われて、バスを降り、ここまで歩いて来た日に、このご老人に見られていたのか。あの日も、俺が海を独占していたわけではなかったのだ。

「いえ、正直、渚町の海のほうが好きです」

「ほっほっほ。あそこも良い海じゃからのう」

「ここには逃げて来ているんです」

「そうかそうか。いつでもおいでなさい」

 ご老人はそう言ってほほ笑むと、ゴールデンレトリバーを連れて立ち去って行った。

 いいなあ。俺は青春の真っ只中にいるのに、ご老人のことが羨ましくなった。俺なんかより何倍もかっこいい。

「ウォーーー!」

 俺は砂浜を駆け出し、海に入った。着替えは持ってきていなかったが、そんなこと気にしないで、思いきり泳いだ。朝の海はまだ冷たかったが、それがかえって気持ち良かった。

 佐藤ならそんなことができるんだろうな、と空想した。

 俺は濡れた服で帰ることを考えたら、海に入ることができなかった。

 つまらない男だ。

「チクショウ!」

 俺は自分にムカついて、砂浜を駆け出した。そのまま海に入ろうとしたが、

「ウワッ」

 波打ち際で右脚の靴が濡れた所で引き返した。



 濡れた右脚の靴が気持ち悪いなと思いながら、腹が減ったので、飯屋を探していると、和風ダシの匂いが漂う、ラーメン屋に出くわした。

 日曜日の朝早い時間帯なのに、店内は混み合っていた。お酒で顔を真っ赤にしている人もいれば、これから仕事なのかスーツを着ている人もいた。

 冷たくなっていた心に、ラーメンのスープが沁みた。周りのお客さんたちも、ラーメンを食べれば食べるほど表情が元気になっていくように見えた。

 凄いなあ。このラーメンは俺なんかより何倍もかっこいい。



 この日は、14時に『南かぜ風』のアルバイトが終わる結菜と、美樹と一緒に渋谷に買い物に行く約束をしていた。

 俺は結菜の部屋に戻ると、ドライヤーで靴を乾かした。

 微かに海の匂いがした。波をかぶったこの靴も俺なんかより何倍もかっこいい。



 『南かぜ風』に行くと、昨日と同様に長蛇の列ができていた。

 店先には美樹の姿があった。

「すごい人気だね。正、嫉妬しているんじゃない?」

「別に……」

「もう、素直になりなよ」

 美樹が脇腹を人差し指で突いてくる。

「や、やめろって」

「エヘヘッ。やめないよーだ」

 どうしてだ? 俺は美樹が以前より明るくなったように思えた。辛い恋をしているはずなのに、どうしてこんなに素敵な笑顔になれるのだろう。

 俺が美樹の人差指攻撃から踊るように逃げていると、

「ごめん、遅くなっちゃった」

と謝りながら、結菜が『南かぜ風』から出てきた。

「全然、平気。正と遊ばせてもらっていたから。エヘヘッ」

「良かった。落合、美樹に遊んでもらえて良かったね」

 俺は子供でも犬でもないぞ。


「チェッ、結菜ちゃん、もうバイトあがりだってさ」

「もうちょっとで買えたのになあ」

 並んでいた男性客たちが、蜘蛛の子を散らすように去って行く。

 こんなに近くに居るのに、結菜の存在が遠く感じた。



 渋谷に着いて早々、結菜はドラッグストアで、特売の2Lのミネラルウォーターを5本も買って、俺に持たせた。渚町に帰ってから買っても、そんなに値段は変わらないのに……。昨日、八坂を蹴った件が、きっと結菜にバレていたのだ。これはその罰なのだろう。


 センター街を歩いていると、結菜は芸能プロダクションのスカウトマンに声をかけられたが、

「この前も言いましたが、私、興味ありませんから」

ときっぱり断っていた。

 『前も』か……。そりゃスカウトマンだって、結菜を見たら放っておかないよな。クラスメイトだから俺は自覚していなかったが、よくよく考えてみれば俺と結菜とでは住む世界が違う。一応、荷物持ちの俺がいなかったら、ナンパされまくって、ゆっくり買い物を楽しむことさえできなかったはずだ。

「結菜なら素敵な女優さんになれるのに……。もったいないよ」

 美樹がそう言うと、

「嫌よ。つくり笑顔しなきゃいけないし、好きでもない相手とキスするなんて、我慢できない」

と結菜は答えた。

 俺は別荘で結菜とキスしたことを思い出した。

「あっ、ここだ! ここに来たかったんだ」

 美樹は目を輝かせて、ランジェリーショップの前で立ち止まる。

「ここテレビで特集されていたよね」

「結菜、早く入ろう」

「うん」

 美樹が結菜の手を引っ張って、店内に入って行く。

「正も、早く来て」

 美樹に呼ばれたので、俺も仕方なく店内に入る。いや、本当は入ってみたかった。


 ほとんど隠す部分のない露出の高い下着がメインにディスプレイされていた。こんなの結菜がつけたら……。

「痛ッ」

 俺の妄想は結菜に見えるのか、すぐに脇腹を殴られた。両手にペットボトルが入った袋を持っているので防ぎようがない。

「正、海太が好きそうな下着、選んでよ」

 美樹に頼まれる。

「知らねえよ。あいつの好みなんて。イタタタッ」

 今度は結菜に耳たぶを引っ張られる。

「美樹が頼んでいるんだから、ちゃんと選びなさい」

「そう言われてもさ、本当にわからないんだって」

「こんなのどうかな?」

 美樹が黒のレースの下着を手に取り、体に合わせる。

「……それは違うかな。あいつ、小悪魔的なの嫌がりそう」

「そっか……。だったら、こっちはどう?」

 美樹は薄水色の清楚な感じの下着を合わせる。

「うーん、それも違うかな……」

「どしてよ、美樹に似合っているじゃない!」

 結菜が少し怒った口調で言う。

「だって、あいつの俺様度は普通じゃないんだぞ。清楚な感じで満足するわけないだろ」

「それなら、これかな?」

「美樹、それはやめたほうがいいよ……」

 結菜が止めるのも無理はない。美樹が体に合わせたのは、隠す部分が極端に少ない上にスケスケになっている、もはや何のためにつけるのかわからない下着だった。

「うん、これだな。あいつ、喜びそう」

 俺はなぜだか、そう断言できた。

「本当? 正が言うならこれにする。友里の水着選びも完璧だったしね」

 美樹は満足そうに笑みを浮かべると、スケスケの下着を持ってレジへと向かった。

「落合の趣味じゃないでしょうね?」

「ち、違うって。俺が結菜につけてほしいのは、痛ッ」

「変な妄想はしないで!」

 クソッ。大量にペットボトルを買った本当の狙いはこれだったんだな。今日、結菜は好きなだけ、俺を殴る気だ。昨晩は自然に振る舞っていたが、俺が八坂に暴力を振るったことにかなり怒っているようだ。


「あの……」

 声が聞こえたほうに俺と結菜が振り向くと、

「私の下着も選んでもらえないでしょうか?」

と見ず知らずの女性に言われた。

「えっ?」

 俺と結菜は声を揃えて驚く。

「最近、彼氏とマンネリになっていて……」

 女性は寂しそうな表情を見せた。

「彼氏さんはどんな方なんですか?」

 俺が尋ねると、

「公務員をしていて、真面目な人です。大胆な下着をつけてみようかなって思うのですが、彼が引いてしまわないか心配で……」

 彼氏の好みを意識してなのか、女性のメイクも服装も清楚な感じだった。

「そういう方は、急に下着がハデになると、浮気を疑ったりするかもしれないので、これくらいのセクシーさがちょうど良いかもしれませんね」

 俺は紐パン風の白の下着を手に取ると、女性に手渡した。これなら、清楚な印象を保ちつつ、セクシーさも強調できるだろう。

「ありがとうございます!」

 相談して来た女性は笑顔を弾けさせると、俺が選んだ下着を持ってレジへと向かった。

 すると、

「私の下着も選んでください!」

「あっ、私もお願いします!」

と店内にいた女性客たちが俺の周りに集まって来る。

「一列に並んでくださーい」

 結菜が悪ノリして、女性客たちを俺の前に並ばせる。もう、断れる雰囲気ではない。



「正、大活躍だったね」

 ファストフード店で休憩をとると、美樹が俺をからかうように褒めた。

 女性の下着を選ぶセンスがあるなんて、残念ながら八坂に自慢できることではない。

 むしろ八坂との差が開いたように思える。

「フフフフッ」

 重い荷物をずっと持っていたせいで、震える手でポテトフライを食べている俺を見て、結菜は愉快そうに笑っていた。

 指先がしびれてもいたが、結菜が笑ってくれるのなら、それでいいや。

「正って、そういうところ凄いよね。ね、結菜」

「まあね……」

「何? 俺のどういうところが凄いの? 教えてくれよ」

 願ってもいないチャンスだ。俺が八坂に勝てる長所があるのなら、今すぐ知りたい。

「教えなーい」

 美樹が意地悪をする。

「どうして? 教えてくれよ」

「だって、昨日、海太のこと蹴ったんだもん」

 美樹はそう言うとプイッと顔を背ける。

「何それ? 落合が八坂君を蹴ったの?」

 えっ? 結菜は知らなかったのか? 2Lのペットボトルを5本も持たせていたのは、その罰ではなかったのか? 結菜にとってそれは自然な行為なのか? 思い返してみれば、『アツアツ』で働いていた時に結菜は50kgもの買い出しに行ったことがあったから、これくらいの荷物では罰としては軽いように思えてきた。

 いったい俺のどういうところが凄かったのだ? そして、俺はこれから結菜にどんな罰を受けるのだ? 先ほどのドラッグストアで大きめのバンドエイドと包帯を買っておくべきだった。

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