第28話 使命

 夕食の時間が終わっても、休憩する暇はなく、結菜と三上は苛立ちながら、明日の朝食の仕込みを手伝っていた。俺と佐藤は、大量の洗い物を一枚、一枚、丁寧に洗っていた。

 少しでも汚れが残っていると、「ちゃんと洗え!」と支配人にどやされるし、お客様に不快な思いをさせてしまう。『渚四川飯店』でも気をつけているつもりだったが、皿一枚でお客様の大切な時間が台無しになってしまわないように慎重に洗った。

 お腹が空いていて大変だったが、『お客様のために』という使命感が芽生えていて、不思議な充実感もあった。ただ、先ほどから、調理場には、支配人の作るカレーとラーメンのスープの匂いが漂っていて、その匂いに耐えるのはかなりきつかった。


 でも、一番大変だったのは、フロント係を任された美樹だった。

「ねえ! ねえってば!」

「は、はい」

 また、望月様が美樹を呼ぶ声が聞こえてくる。

 望月様と工藤様は、夕食後、部屋に戻らないで、ロビーでテレビを観覧されていた。

「チャンネル変えてちょうだい」

「かしこまりました。何チャンネルに致しますか?」

「そんなのいちいち聞かないで察しなさいよ」

「申し訳ございません」

「仕方ないわね。さっさと4チャンにしなさいよ」

「かしこまりました」

「違う違う。この番組じゃない。やっぱり8チャンにしなさい」

「かしこまりました」

 さっきからこの調子だ……。俺たちはその様子を苛立ちながら聞いていた。リモコンはロビーに置かれてあるのに、望月様と工藤様は自分たちでチャンネルを変えようとしなかった。しかも、こんなに何度もチャンネルを変えているということは、その番組を見てはいないということだ。美樹にテレビのチャンネルを変えさせることが目的なのだ。

「ちょっと、まだ戻らないで」

「すみません」

 工藤様が美樹を呼び止めたようだ。

「次のページ、めくってくれる?」

「……」

 俺たちは、その言葉を聞くと、同時に作業を中断し、調理場の出入口からロビーを覗いた。

「だから、さっさと次のページをめくってよ。何度も同じことを言わせないで」

「……かしこまりました」

 美樹は膝をついて、工藤様が呼んでいたファッション誌のページをめくる。

「失礼しました」

 美樹は立ち上がって、フロントに戻ろうとするが、

「あら、どこに行くの? 私がいいって言うまでここで、ページをめくってちょうだい」

「……」

 美樹が俺たちのほうを見る。結菜が首を横に振る。支配人はカレーを作り続けていて、望月様と工藤様を注意する気配がない。今までに、同じくらいわがままなお客様が来たことがあるのだろうか?

「かしこまりました。他のお客様にお呼ばれするまでは、ご対応させていただきます」

「わかったら、さっさと次のページめくりなさいよ」

 今のページ、ろくに見ていなかったじゃないか……。

 美樹は膝をついてページをめくる。

 結菜は拳を震わせていた。佐藤の目にも怒りが滲んでいた。

「そこのあなた!」

 望月様が、結菜を指さす。

「喉が渇いたから、何かドリンクを持って来なさい!」

 望月様がそう言うと、結菜は調理場を出て、リングに上がる。

「望月様、エントランスに自動販売機がございますので、そちらをご利用くださいませ」

 結菜がそう対応すると、

「はあ、何を言っているの? ペットボトルとか、せっかくリゾートに来ているのにしらけるでしょ。ジュースをグラスに入れて持ってきなさいよ。だいたい、あなたたちが私たちに、必要以上に声を使わせるから、喉が渇いているのよ。サービスで持ってきなさいよ。サービスで。ほら、早くしなさいよ!」

と望月様がまくし立てる。

 お風呂場から出てきたお客様たちが何事かと、様子を窺いながら、エントランスに向かって行く。

「気持ち良かったね」

「おいしい料理も食べられて最高」

「お腹、すっごい出ちゃったね。アハハッ」

「彼氏には絶対に見せられないよ。ウフフッ」

 とても楽しそうな表情をしてくれていた。先ほどの夕食時の疲れが吹き飛んだ。

「……かしこまりました」

 結菜はそう返答すると、調理場に戻って来る。

「まったく、いちいち手間かけさせるんだから」

「本当よね。もっと客の気持ちを考えてほしいわ。ねえ、さっさとこのページめくってくれる」

「す、すみません」

 美樹はそう謝ると、素早くファッション誌のページをめくる。

 『ガシャン。ガシャン』と先ほどのお客様たちが、自動販売機でドリンクを買う音がする。お客様たちは笑顔で戻って来ると、俺たちに一礼して、客室のある階へ上がって行った。

 結菜はジンジャーエールをグラスに入れて、望月様と工藤様のもとに運んでいく。

 断言できる。今、結菜が運んでいるジンジャーエールよりも、先ほどのお客様たちが自動販売機で買ったドリンクのほうが何倍もおいしいに決まっている。旅を純粋に楽しんでいるのだから。

「ちょっと冷たすぎるわ。氷を減らして、入れ直してきて」

「私も」

 望月様と工藤様は、結菜が運んだジンジャーエールを、一口飲んだだけで突き返した。

「……かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

 結菜が、一度美樹と目を合わせてから、戻ってこようとすると、

「ちょっとあなた、どこ行くの?」

と望月様に呼び止められる。

 結菜は振り向いて、

「氷を少なくして、入れ直してまいります」

と全うに答えた。

「その前に、ちゃんと謝りなさいよ! あんなに冷たいの飲んで、体調を崩していたら、どう責任とってくれていたのよ! しっかり注意してあげた私に感謝してほしいくらいだわ。さあ、謝りなさいよ」

「……申し訳ございません」

「聞こえない。もっと大きな声で言いなさいよ」

「申し訳ございません」

「それだと、誰に謝っているのかわからないでしょ」

「申し訳ございませんでした。望月様、工藤様」

 結菜がそう言って頭を下げると、望月様は勝ち誇った笑みを浮かべ、

「ギャハハハッ。薫、これ、マジで最高!」

と工藤様がお腹を抱えて笑う。

「あのう、お取り込み中、すみません……」

 いつの間にか、天使の木村様が、ロビーに姿を見せていた。望月様と工藤様に気をとられて気付かなかった。見たくないものを見せてしまった。これでは、スタッフ失格だ。

「お風呂場のシャンプーが切れていて……補充していただいてもいいですか?」

 木村様が結菜と美樹に向かってお願いをする。俺と佐藤は目を合わせた。支配人に言われ、シャンプーはちゃんと補充していた。髪が長い人が多いから、女性の団体客だと、すぐになくなってしまうのだろうか?

「申し訳ございません。すぐに補充します」

と美樹が立ち上がって謝ると、

「では、お願いしますね」

 木村様はそう言うと、お風呂場に向かって行く。

「まったく、シャンプーを切らせるなんて、ろくでもないペンションね」

「私たちが入る前でよかったわ」

 望月様と工藤様にそう言われると、ファッション誌のページをめくるために、そばに居させられた美樹が、

「工藤様、失礼致します」

と言って、木村様を追って、お風呂場のほうへ向かって行く。

 この隙に、結菜も調理場に戻って来る。

 そういうことだったのか。俺と佐藤は、望月様と工藤様に聞こえない程度に手をタッチして喜んだ。


「私、全然、怒っていないから」

 結菜は調理場に入るなり、そう言ってニコッと笑った。アイドルが宣材写真で見せるような100点満点の作り笑顔だった。

「それどころか、明後日、望月様と工藤様とお別れになってしまうことが、今から辛いわ。二学期が待ち遠しいわね。お二人も夏季講習に参加していれば、すぐに再会できたのに」

と結菜は付け加えると、氷を少なめにしたジンジャーエールを持って行った。

「……結菜、大丈夫かな。二学期が始まった時に、暴れなければいいけれど……」

「大丈夫だって。その心配はないさ。望月様も工藤様も、二学期が始まる頃には“この件をなかった”ことにして、普通に登校してくるから。特に望月様は、都合の良いように空気を変えるのが得意だからな。正もよく知っているだろ?」

「まあな……」

 そこに自分が居れば、佐藤の言うように楽観視できる。でも、俺はもうそこにはいない。何かが起きても、結菜を助けることができない。大事にならなければいいと祈ることしかできなかった。心の底から祈りを捧げていると、突然、頭を殴られる。

「痛ッ!」

「いつまで女みたいにお喋りしているんだ!」

 俺と佐藤が振り向くと、支配人がおたまを手で器用に回していた。

「飯にするぞ!」

 支配人は、調理台にカレーライスとステーキを用意してくれていた。

「旨そう!」

 めちゃくちゃ腹が減っていたので、俺は思わず生唾を飲んでしまった。

「うおー、スゲー!」

 普段はもっと豪華な夕食を食べている佐藤のテンションも上がっている。

 カレーとステーキの、この匂いがもうたまらない。支配人に頭を殴られるまで、それを感じさせないとは、望月様はやはり、“空気をつくれてしまう能力者”だ。夏休み明けに再会した時、結菜と完全にぶつからないようにコントロールすることだろう。俺は一安心した。

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