第13話 教室にこそ傘を


 翌日の日曜日。先週と同様に梅雨らしいじめじめとした雨が降っていた。

 店内は思っていたよりも混んでいた。

 「転校する前に新しいスマホにしておこう。電話は大事だ」

と父さんが言ってくれたので、2人で携帯ショップにやって来た。変更する機種は、すぐに決まったのだが、

「1時間程、お待ちいただきます」

と店員さんに言われたので、一度店から出ることにしたのだが、問題が起きた。俺のビニール傘が盗まれていたのだ。


「一杯飲みに行くか? 沖縄の人は泡盛飲んで育つと聞いたことがあるから、お前も飲めるようになっていたほうがいいんじゃないか」

「そんなわけないだろ」

「17歳か、中途半端な歳だな。早く20歳になれよ」

「やだね」

 転校する9月までの一日一日を大切にしたいと思っているところだ。20歳なんて、遥か先にありすぎて影も見えない。

「でもあれだろ、18歳で成人にする法律を作ろうとしている動きもあるんだ。ちょっと時代の先を行って、一杯飲みに行くか」

「だから、俺はまだ17歳なんだって」

「……実は、お前に隠していたことがある……」

「なんだよ……」

「お前の本当の……」

 本当の母親の話か? 心の準備をさせろよな。

「お前の本当の誕生日は、4月1日なんだ」

「そんなわけないだろ。ダメダメ、お酒、本当に苦手なんだって」

「苦手ねえ。どうして、それを知っているんだろうねえ」

「な、なんとなくだよ。父さんだって、そんなに強いほうじゃないだろう」

「お前は父さんの本当の夜の実力を知らないんだよ」

 何だか違う意味に聞こえるぞ。しかも、こんなくだらない会話をしながら、父さんと相合傘だなんて。すれ違う人たちの視線が痛い。きっと、転校することが決まっていなかったら、走ってコンビニに傘、買いに行っていただろうな。


 匂いに誘われてラーメン屋に入る。この店に気づかなくても、きっとどこかのラーメン屋に入っていただろう。父さんと俺はそういう関係だ。定番で十分に満ち足りた気持ちになれる。

「俺の本当の母親って、今、どこで暮らしているの?」

 周囲の客たちの、麺をすするテンポが少し遅くなった気がする。先ほど、父さんが、本当の母親の話をするのかと思わせたから、なんだか気になったので聞いてみた。

 父さんは、天井を見上げた。

「お待ちどうさま」

 店員さんが、聞いていたことが悟られないよう、絶対にかまないように、ゆっくりとそう言って、ラーメンを運んで来てくれた。

「最後に俺が会ったのは何歳のとき?」

「0歳。生まれて、32分後だった」

「写真は残っている」

 父さんは首を横に振った。

「……俺を憎んだ?」

「まさか、生まれて来てくれて心の底から嬉しかったよ」

「父さん……、今までありがとう」

「何言ってるんだ、さっさと食べろよ」

「うん……。おっ、うまい!」

 その後は、一言も喋ることなくラーメンを食べた。途中で店員さんが、俺と父さんにバレないように涙を拭っていた。ちょっと、悪いことしたな。

 俺は申し訳ない気持ちになったので、会計の時に、

「さっきの話、9割は事実と異なる内容だと思いますよ」

と店員さんに伝えた。

「えっ?」

 店員さんは、お釣りを渡しながら、少し怒った表情を見せた。背中には、他の客たちからの視線も痛く刺さった。


「あの人、泣いていたな」

「で、どこの部分は本当の話なんだよ?」

 父さんが傘を開き、歩き出す。俺は、父さんの傘の下に無理やり入る。

 父さんは大事な話をする時は、嘘をたっぷり混ぜて、それを俺に見つけさせようとする。楓にはそんなことしないが、俺にはそうする。実の親子だからというわけでもなく、息子だからというわけでもない。いつしか、それにお互いが気づいたのだ。そうしたほうが、おもしろいと。父さんと俺はそういう関係だ。



 月曜日は雨が降ってくれた。

「落合、スマホ変えたんだ。前のスマホ、まだ使えそうだったのに」

 登校中、結菜が昨日、機種変したスマホに気付いてそう言った。

「機種変をしょっちゅうする人は浮気性だって話を聞いたことあるけど、嘘だったみたいね」

「そうだね」

 結菜の発言に、美樹が笑いながら同意する。

「なんでだよ?」

「だって、相手がいないと浮気なんてできないでしょう」

 結菜が悪戯っぽく言う。その相手が、目の前にいるんだけどな。もちろん、今は、結菜のことだけが好きだ。

「落合君、その傘、どうしたの?」

「昨日、親父がくれたんだ」

 美樹が、俺の新しい傘に気づいてくれた。『そろそろちゃんとした傘を持ってもいい歳だろ』と言って、傘専門店でこれを買ってくれたのだ。

「それって、全部手作りで作っているメーカーのものだよね。一番安くても、2万円くらいするんじゃない?」

と美樹が追加情報をくれる。だから、父さんは店の外で俺を待たせていたのか。

「素敵なお父さんね。浮気相手に会いに行ったお母さんに負けてないじゃない」

と結菜が褒めてくれる。

 どうやら、もし結菜と結婚することになったら、両親との関係を心配する必要はなさそうだ。

 ただ、結菜は父さんの真意までは知らない。俺が沖縄に行ってしまうと、見守ってやることができないから、父さんはこの傘にそれを託したのだ。

 この傘で、結菜と相合傘できたら最高だな。あとで、結菜の傘、こっそり隠してしまおうかな。

「落合、そのニヤつき気持ち悪い」

 結菜にそう言われても、俺はもうそんなことでいちいち凹みはしない。


 妄想を膨らませながら登校すると、教室がざわついていた。

 そして、まだ知らないクラスメイトを見つけた綾が駆け寄って来た。

「あのね、杉山先生が結婚するんだって!」

「最近、服装が変わっていなもんね。結菜は知らないと思うけど、前はスカートなんてはいてこなかったんだから」

 俺が結菜に言おうとしたことを、美樹に言われてしまう。

「それで、相手がね……」

 綾はできるかぎりためると、

「教頭の松山なんだって!」

と気持ちよさそうに言った。

「でも、教頭先生って、去年まで結婚してたんじゃ……」

 美樹が驚いた顔を見せると、

「だから、みんなね、松山の離婚は、杉山先生との不倫だったんじゃないかって」

と言って、綾はさらに目をキラキラさせた。その反応を見て、結菜は一瞬、苛立った表情を見せたが、すぐに笑顔にかえた。

「それ、やばそうだね」

 空手の達人であんなに強いのに、結菜がそこまでクラスの女子の目を気にする理由が、俺にはやっぱりわからない。

 そして、教室が一瞬で静まり返る。

 杉山がいつも通り、教室に入って来た。今日もスカートコーデだった。


「起立。礼。着席」

 学級委員の三上友里が号令をすると、朝のホームルームが始まった。妙な雰囲気が張り詰める。薫や綾をはじめ、数人の生徒が薄ら笑いしている。

 杉山は黙ったまま、何も話そうとしない。

 そして、ホームルームが終わる時間になり、薫が我慢しきれずに手を上げようとしたので、俺と佐藤が同時に席を立った。

「先生、もう終わりですよね」

 佐藤がそう言うと、杉山は小さく頷いて教室から出て行った。教室が再びざわつき出す。

「正、行こうぜ」

「ああ」

 俺と佐藤は、この空気に耐えられず、教室から出て行く。結菜と美樹は、頑張って、薫たちの輪に加わっていた。

 杉山に傘を貸してあげたかった。外の雨より、よっぽど冷たかったことだろう。痛かったことだろう。乾かないことだろう。

 杉山はきっと、あえて生徒たちの冷ややかで軽蔑する視線を浴び続けたのだ。自分が正しい行いをしていることを証明するために。生徒たちにどんな目でみられても、うしろめたさを感じないことを確認するために。そして、おそらくそれに成功したのだろう。


「俺たちで助けよう」

 苛立ちを必死に抑えようと、校内を歩きまわりながら、佐藤はそう言った。

「杉山はそんな女じゃない。俺たちで、疑惑を晴らしてやろうぜ」

「そうだな」

 俺はそう返事すると同時に、ふと、佐藤は総理大臣になる男かもしれないと思った。

「だいたい、杉山と松山が不倫ってありえない。不倫するには、名字が似すぎているだろ」

 そこは別に、関係ないと思うが……。この男、総理大臣では満足しないかもな。

「今日、バイトは?」

と聞かれ、俺は首を縦に振る。

「よし、それなら、放課後、俺ん家で作戦会議な!」

「よし、やろう!」

 杉山には何度も夜にお世話になったこともあるし、今こそ力になる時だ。

「私たちも行くから!」

 振り向くと、腕組みをする結菜と、

「落ち着いて……」

と言いながら結菜の背中をさすっている美樹がいた。

「トイレに行くふりして、結菜ちゃんと逃げ出してきちゃった。エヘヘッ」

と言って美樹は舌を出す。

「あまりにムカついて本当に吐きそうになったわよ」

「落ち着いて、落ち着いて。佐藤君の言う通り、杉山先生を助けましょう」

 結菜だけでなく、美樹からも静かな闘志が伝わって来た。

「俺たち4人で杉山を助けるぞ! 『杉山救出諜報部』結成だ!」

 佐藤が掛け声を出し、

「オー!」

 周りが振り向くくらい、俺たちは大きく声を合わせた。

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