第10話 育つ環境

 誰も喋っていなかった。だから、聞いてみた。

「父さん、浮気したことある?」

「ないな」

「どうして?」

「したくても、相手がいないとできないからな」

 父さんはいつも通り、焼き魚をキレイに食べている。

「私はあるわよ」

「母さんはモテたからね」

「あら、過去形にしないでくれる」

「もう、お兄ちゃんったら、母さんに何を言わせているのよ。朝食の話題に浮気って、バカを突き破って何なのもう! 血がつながってなくて本当によかった」

「別にいいだろう。特に喋る話題もなかったんだから。それに、いつの話かは聞いていないんだから!」

「何でお兄ちゃんがキレるのよ!」

 父さんならこんなに苛立たなかっただろう。母さんの浮気は、切なく心に痛みを広がらせた。

「正、今日はアルバイト休みだったわよね」

 俺はご飯を口いっぱいに頬張っていたので、大きく頷いて答えた。

「それなら、帰って来たら、母さんに付き合ってくれる。あの人のことを思い出したら会いたくなって来たわ。一緒に会いに行ってちょうだい」

「ゴホッゴホッ」

 俺は思わずむせかえし、ご飯粒が楓のほうに飛んでいってしまった。しかし、楓は怒るどころか、目をキラキラさせていた。

「何それ、おもしろそう! 私も一緒に行く!」

 左手を垂直に上げて楓はそう言った。

「あの人って、誰だよ……」

「母さんの浮気相手に決まっているでしょ!」

 母さんと楓が声を揃えて言う。

「父さんも一緒に行こうよ!」

 外食に行くかのように、楓が父さんを誘う。

「バカか、お前……」

「行きたいけど、今日は残業になりそうだからな。できるだけ、早く終わらせるようにするよ。母さんは僕が行ってもかまわないのかい?」

「フフフフッ。別にかまわないわよ」

 父さんは行きたいのか? 母さんはそれでいいのか? 最初は怒っていたくせに楓の奴、ノリノリじゃないか……。それに、俺だって、なんだかワクワクしている。落合家は、結局、全員ボケなのだな。よく吠える犬でも飼ったほうがいいのかもしれない。


 この日の学校ではなるべく、結菜と喋らないようにした。うっかり、放課後に『家族みんなで母さんの浮気相手に会いに行く』と口をすべらせたら、結菜は絶対に『一緒に行く!』と言い出すに違いない。その点、落合家の嫁としては合格であるのだが。


「母さん、支度まだー?」

「もうちょっと待って。やっぱり、ワンピースにするわ」

 玄関で楓と母さんを待っているが、なかなか着ていく服が決まらない。

 時々聞こえてくる鼻歌が、なんだか羨ましくもある。

「ごめん。ごめん。行きましょう」

 母さんは、ボーダーのワンピースに着替えて玄関に来ると、よりによって一番高いハイヒールのパンプスを履いた。

 楓は楓で、ヒールが10cmはあるウェッジソールのサンダルを履いている。


 すれ違う人たちの目が母さんと楓をチラチラッと見て行く。

 モデル体型の母と娘と一緒に歩いている俺は何者だと思われているのだろう? 10人中1人でも長男だと思ってくれているだろうか? もし、誰もそう思ってくれなかったとしても俺に怒る資格はない。むしろ、『この男は何者だろう?』とすれ違う人たちにいらぬ疑問を持たせてしまって申し訳ない気持ちだ。


 電車を乗り継いで1時間ほどの東京の郊外に、その人の家が建っていた。

 周りの住宅に比べて、建物が小さく、庭が広い、趣のある家だった。母さんが浮気をしたのもわかるような気がした。何より、俺が好きな平屋だった。


「ガハハハハッ!」

 その人は、玄関のドアを開いて、母さんを見るなり、指をさして笑った。

「アハハハハッ!」

 母さんも、その人を指さしてお腹を抱えて笑っていた。

「ハハハッ……」

 俺と楓も一緒に笑うしかなかった。


 コーヒーを半分飲むまで待っても、2人の口から『久しぶり』という言葉は出てこなかった。何度も着替えた母さんの支度。母さんを見て、一瞬だけ見開いたその人の瞳。2人が久しぶりに会うことは疑う余地はなかった。でも、『久しぶり』はなかった。

「幸せでなによりだ」

「ありがとう。あなたもね」

「それはどうだろう」

 その人は、『そう』をつけなかった。母に『幸せでなにより』と言い切った。自分のことには『どうだろう』をつけたのに。

「苦いか?」

 その人は、俺と楓を見て、そう尋ねてきた。ブラックで出されたコーヒーのことだろうか? それとも、『母さんの浮気相手と会う』ことだろうか?

「いいえ、おいしいです」

 楓は、コーヒーをすすって、笑みを浮かべた。

「よかった。鹿児島にある別荘でね、野生に近い畑で栽培した豆なんだよ」

 無理して大人ぶっているわけではない。俺もコーヒーをすする。本当においしいコーヒーだった。だから、苦かった。『母さんの浮気相手が素敵な人』で少し苛立っていた。例え、父さんと知り合う前にした過ちだったとしても……。それに、本当にそれは過ちだったと言われるべきものだったのだろうか?


 家に帰って、親子3人で夕飯を食べると、母さんがあの人からお土産でもらったコーヒー豆を挽いて、食後のコーヒーを入れてくれた。

「辛いのよ」

「だろうな」

「2人の人を好きで居続けたら、心がパンクしちゃうわ。それか、しぼんでしまうか。どうしても、愛が育たないのよ」

「お兄ちゃん、ありがとうは?」

 楓が生意気に言って来るが、俺は素直に、

「母さん、ありがとう」

と感謝を伝えた。


 結局、父さんは残業を断れなかったようで、0時前に帰宅した。やっぱり、その人に会いたくなかったのだろうか? リビングから2人の笑い声が聞こえてくる。その人からもらったお土産のコーヒーを飲んでいるのだろうか?

 少し、ほっとして俺は眠りについた。

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