第6話 大人へと

 昨日は、なかなか寝付けないだろうと思っていたけれど、ベッドに体を倒した途端に眠っていたような気がする。

「あら、今日は早いわね。雨なんか降らせないでよ」

「母さん。今は、梅雨だよ」

「天気予報では今日は快晴ですってよ」

「そう。ペッ」

 いつもより長く歯磨きして、いつもよりしっかり朝食を食べて、いつもよりスニーカーをキレイにして、家を出た。


 1時間ほど時間が早いだけで、知らない街の中を歩いているような気分だった。駅へ向かう人たちも、犬を散歩させる人も、幾分歩くペースが早いように思えた。上高(かみこう)の生徒の姿はちらほらとしか見えない。それにしても、どうして上渚高校(かみなぎさこうこう)という校名にしてしまったのだろう。そんな校名にしてしまったから、渚高や他の学校の奴らから下高(しもこう)とバカにされたりするのだ。もっとわきまえた校名に改名するべきだ。


 てっきり一番乗りだと思ったのに、教室から聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。

「おっ、正、おはよう!」

 佐藤の奴がもう来てやがった。

「おはよう、落合。佐藤って、おもしろい奴なんだね」

 田中も来ていた。

「そうでもねえよ。最初だけさ、最初だけ」

 俺は席につくと、田中の鞄をチラチラ見た。昨日のぬいぐるみを、もしかしたら鞄につけているかと思ったが、その姿は想定していた通りなかった。危ない、危ない、早朝から赤っ恥をかくところだった。ぬいぐるみを鞄の中に忍ばせて持って来て正解だった。あとは、念の為に持って来たぬいぐるみを田中に絶対に見られないようにしよう。

 それにしても佐藤の奴、田中ともう馴れ馴れしく喋ってやがる。できるだけ早く、一昨日のことを謝りたかったのだろうけど、それだけだろうか?

「なあ、正、お前からも誘ってくれよ」

「何を?」

「だから、今日、俺ん家でバーベキューやろうと思ってさ。結菜がオッケーしてくれないんだよ」

「だって、急なんだもん」

「それがいいんじゃん。なあ、結菜、何週間も前から決められたバーベキューより、12時間前に発生したバーベキューのほうが絶対に楽しいって」

「何それ。意味不明」

「そう言わないで、結菜、お願い。この通り」

「どうしようかなー」

 さっきから、結菜、結菜、結菜って。昨日の楓が田中のことを結菜さんと言っていたときも引っ掛かっていたが、俺はまだ田中としか呼べていないんだぞ。少なくとも、楓や佐藤より、田中と過ごした時間は俺のほうが長いのに……。

「ごめん。俺、今日は……」

 バイトがあるからパスと言おうとしたら、女子生徒の望月薫、工藤綾、安田美樹の3人組が登校して来た。

「おっ、薫、丁度良いところに来た。今日、俺ん家でバーベキューするけど来ない?」

「うそっ、いいじゃん。行くよ。ねえ。田中さんの歓迎会しよう!」

 薫がそう言うと、綾と美樹も「うん、うん」と快諾する。

「じゃ、6時に俺ん家集合な。あとドレスコードは浴衣な」

「しょうがないなー、佐藤、うちらの浴衣姿、そんなに見たい?」

「見たい、見たい。頼むよ。この通り、お願い!」

「わかった。わかった。見せてあげますよ」

 そう言う薫だけではなくて、綾も美樹もまんざらではなさそうだ。

「やりー! 正もちゃんと浴衣着て来いよ」

「わ、わかったよ」

 田中は薫たちに囲まれて、先に女子だけで集まろうという話に、発言は少ないが参加していた。

 佐藤の奴、結局、田中にオッケーと言わせずに、バーベキューの参加をオッケーにさせやがった。こいつはきっと、“何でも開ける能力者”に違いない。

 6人だけだった教室に、段々とクラスメイト達が増えて来る。

「田中さん、おはよう。皆、心配していたんだよ」

 ほとんどの女子がそんな風に田中に声をかける。

「ありがとう」

 田中はやや困惑しながら、それぞれにお礼を言っていた。

 『皆、心配していた』だって? そんな話題、聞こえてこなかったぞ。

 そして、最後に杉山が教室に、入って来る。杉山はもちろん、そんなことを田中に言ったりはしない。チェッ、今日はパンツコーデだ。


 女子たちの浴衣姿を、いや、田中の浴衣姿を見て興奮し過ぎないように、1回処理してから、佐藤の家に向かった。実際に、学校で田中に見とれていた時、何度も膨らみかけた時があった。

 佐藤の家は、渚町の小高い丘の一番上に、センス良く建っているプール付きの平屋だった。いわゆる金持ちのやたらと派手な豪邸とは違っていた。代々、画廊を経営していて、その美的感覚が嫌味なく伝わって来た。

「おじさんたちは?」

「今日、結婚記念日でさ。食事しに行ったよ」

 残念な気がした。俺に釣りを教えてくれたのは佐藤の親父さんだった。他にも、テントの立て方とか、バーベキューの仕方とか。小学生の頃にマグリットを好きになったのも、おじさんの影響だった。佐藤の奴、おじさんとおばさんに外食させるために、バーベキューを企画して、家から追い出したのかもしれない。

「おう、待っていたよ」

 女子たちも庭に入って来ると、佐藤は落胆の表情は一切見せずに、腕を大きく振っていた。きっと、有能な社長になるのだろうな。

「田中さん、まだ荷ほどきが済んでなくて、浴衣が見つからなかったんだって」

 そう薫が笑顔で教えてくれる。

「うわー、おいしそう!」

「準備してくれていたんだ」

 綾と美樹も笑顔で佐藤と俺を褒める。転入生にはこういう風も吹くのか……。田中だけ制服のままでいることが、簡単に処理されようとしていた。

「じゃーん! 結菜、これ着ろよ!」

 佐藤が落ち着いた小紋柄の浴衣を紙袋から取り出して、田中に手渡す。今、さりげなく、手を触りやがった。

「こんなこともあるかと思って、おふくろの借りておいたんだ。家には誰もいないから、着替えてきなよ」

「でも……」

「気にしない、気にしない。俺たち日本人だろう」

「はあ、佐藤ってば、何言ってんの?」

 薫たちがバカにしたように笑うが、田中は優しく微笑むと、

「ありがとう」

と言って、浴衣を持って、美樹と一緒に家の中に入って行った。

 日本人だろう、か。そうだ。俺たちは親切心が染みついた日本人のはずだ。そして、同じ日本人だ。田中から、『ぼっち』を取り除く、軟膏のように効果的な一言だった。


 何を食べたかなんか覚えてはいない。何を喋ったのかも、どうして親指を火傷したのかも。いや、何も食べていなかったかもしれない。何も喋っていなかったのかもしれない。火傷したのは親指ではなかったのかもしれない。

 大人びた小紋柄の浴衣を身にまとった田中に奪われた。視線も、記憶も、感情もなにかも奪われた。

「そろそろ、こいつの出番かな」

 ここからの記憶は、はっきりと残っている。佐藤が用意していた花火を登場させたこの時からの記憶は忘れない。

「さすが、佐藤! わかっている!」

 薫がそう言って、佐藤に頬ずりした。胸も当たっている。

「だろ、俺ってわかっちゃうんだよね」

 佐藤は薫から離れると、バケツにプールから水を汲む。

 田中は俺ではなく、そんな“わかっている”佐藤を見ていた。

「あっ、そうだ。田中さん、line交換しよう!」

「私も、私も」

 薫たちがスマホを取り出し、田中とline交換する。もちろん、佐藤もその流れに乗る。いや、これは佐藤が作った流れか……。

「田中、ちょっと待って……」

 俺もスマホを取り出して、電源を入れる。

「どうして、電源を切っていたの?」

 バーベキューが始まって初めて田中と喋った気がする。

「いや、最近、充電の減りが早くて……」

 すると、『渚四川飯店』から、電話がかかってくる。俺は、応答拒否するが、またすぐに電話がかかってくる。俺はたまらずに電源を切った。

「バイト、休んだのね」

「……いや、今日はシフト入ってなかったはずなんだけどな。お、おかしいな」

「バカ!」

 田中の怒号が響き、花火に点火しようとしていた佐藤たちの手が止まる。俺の心臓も止まっていた。

「お金もらって働いているんでしょ! 今日は、金曜日なのよ! 電源入れてすぐに電話がかかってくるほど忙しいんでしょ!」

 そうだ。今日は、五十日の金曜日だ。仮病を使うこともできないほど忙しい日だ。俺はどうしていいのか結論を出すことができず、このまま無断欠勤しようとしていた。

「行くよ!」

 田中は俺の腕を掴むと同時に走り始めた。だから、俺は勢いが足りずに転んでしまった。その拍子に田中も転んでしまう。

「ごめん……」

「誰に謝っているのよ」

 また田中が俺の腕を掴もうとしたので、俺はそれを避けた。

「田中は、花火を楽しんでよ」

 俺は精一杯の作り笑顔を浮かべて、立ち上がると、

「ごめん。俺、帰るわ」

と佐藤たちにも、ちゃんと謝ってからバイト先に向かうことにした。

「イエーイ! 男子俺だけー! 最高! 正、バイバーイ!」

 佐藤は手を大きく振りながら、そう言って見送ってくれた。


 一度、家に戻って着替えようかとも思ったが、俺は浴衣のまま『渚四川飯店』に行った。店先では、順番待ちをしているお客さんもいた。

 この日、俺は生まれて初めてクビになった。『無事で良かった』と野村店長は安堵の表情を浮かべてから、鬼の形相を作って、忙しい中、俺を叱ってくれた。

 帰り道、母さんの言った通りに、雨が降ってきた。母さんも能力者だったのか。


 翌朝。歯も磨かないでダラダラとベッドの上で求人情報サイトを見ていた。時間ばかり過ぎていった。早くしないと、ランチ時で忙しくなってしまう。俺は『素敵な仲間が待っています』と書かれていて、それが嘘ではないことが知っているその店に電話をかけた。

「それじゃ、面接を行いますから、来てください」

 野村店長はそう言ってくれた。

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