「人魚姫みたい」

 目覚まし時計が朝を告げている。まるで夢から醒めるように、わたしは目を開けた。

 ここは、わたしの部屋だ。


 わたしは、騒ぎっぱなしの目覚まし時計に触れた。レトロなアラームが黙り込む。ベッドから起き出して、勉強机の上の三日月ストラップのケータイを、カパッと開く。


 四月十五日、午前六時四十分。


「最初に戻った」


 ケータイには、新着メールが一通。送信者は寧々ちゃん。

 わたしはメールを開封した。頬の赤い黒熊のイラストが踊っている。


〈お嬢おはよー! いつものとこでOK!?〉

〈おはよう。寝坊しないで起きたよ。また後でいつもの場所で〉


 鏡の前に立つ。長い黒髪と、青みがかった瞳。色白と誉められる肌には、傷ひとつない。


「あんなにボロボロになったのに」


 ついさっきまで、命懸けの戦いの場面に立っていた。でも、あれは二日後の夜の出来事だ。


 二日後といっても、その日は決して訪れない。運命の一枝の病は癒えたのだから。ツルギは役割を終えたのだから。


 わたしの首筋に鎖が掛かっている。ペンダントトップは、金でも銀でもない金属の意匠に絡め取られたブルーの宝珠、青獣珠だ。


 コンコン、とノックの音が聞こえた。扉の向こうからメイドさんの声がする。わたしは返事をして、制服に着替える。


 当たり前の一日が始まった。朝食をとって、支度をして、バイク通勤の門衛さんに見送られる。彼はまだあきら先輩の大型バイクを目撃していない。


 坂を下りて、コンビニの前で寧々ちゃんと落ち合う。


「おはよ、お嬢!」


 寧々ちゃんと会うのが久しぶりのような気がした。なんだかホッとする。


 尾張くんがコンビニから出てきて、おにぎりをパクついて、寧々ちゃんが尾張くんをからかって、何でもない話をしながら学校へ向かう。


「ねえ、お嬢。瑪都流バァトルって知ってる?」

「し、知ってるよ、もちろん!」


 瑪都流という響きに、痛いくらい強く彼を思い描いた。


 銀色の髪、金色の目。歌う声、戦う姿。

 いじけたようにそっぽを向く人。風のようにバイクを操る人。一度も笑顔を見せてくれない人。自分の優しさに気付いてない人。悲しくなるほど鈍感な人。


 同じ時間の流れを経験して、何度も守ってもらって、わたしの心に、こんなに強く存在している。


 煥先輩。


「お嬢? おーい、お嬢ってば!」

「ひゃっ?」


 寧々ちゃんがわたしの前で手を振っている。尾張くんが呆れ顔をしていた。


「安豊寺、どっかにトリップしてただろ。勉強のしすぎか?」

「えっ、いや、その……」


 寧々ちゃんがニマニマした。


「もしかしてー? 愛しのふみのり先輩のこと考えてた?」

「ち、違うの、文徳先輩じゃないから! わたしが好きなのは、あ……と、とにかくっ! 文徳先輩には彼女いるしっ!」


 寧々ちゃんが目をしばたたかせた。


「文徳先輩、彼女いるの? ってのは、亜美先輩のこと?」

「うん、そう。お似合いだと思う」

「噂、ほんとなんだー。亜美先輩、めっちゃカッコいいもんね! てか、お嬢、開き直ってるね。憧れの人に彼女がいるってのに」


 そっか。十五日の朝って、まだそういう段階だもんね。わたし、瑪都流との接点がないんだ。文徳先輩に憧れているだけで。


 聞いたことのある会話を聞きながら歩いていく。角を曲がって、襄陽学園が見え始める。そして、視界に入った後ろ姿。少し長めの銀髪。


「煥先輩……!」


 わたしは寧々ちゃんにカバンを押し付けて走り出す。


「ちょっ、お嬢!」


 ごめん、寧々ちゃん。でも、今はこっちが大事だから。


「煥先輩!」


 わたしの声に、煥先輩が振り返った。「ああ、あんたか」って目をする。それだけでも十分。ニッコリしてくれるなんて思ってないし。


「無事か?」

「はい」

「青獣珠も、もとに戻ったか?」

「はいっ」

「こっちも、もとどおりだ。ブルームーンからのメールも来てねえ。あんたには放課ご……」


 煥先輩が固まった。


 我慢できなかった。わたしは煥先輩に抱き付いた。

 安心したの。煥先輩がわたしと同じ記憶を持っている。それがわかって、本当に安心した。


 煥先輩の体は温かくて、キュッと細く引き締まって硬くて、だけど筋肉の弾力が感じられて。甘い匂いではないのに、なぜか甘いような肌の匂いがする。


 いろんな場面が一気にフラッシュバックした。わたしは煥先輩の背中と横顔ばかり見つめていた。正面から向き合うのは難しかった。


 好きなのに。大好きなのに。見つめられるのが怖い。


 顔をくっつけたところから心臓の音が聞こえてくる。トクン、トクン、と。温かいリズムに誘われて、わたしは泣き出してしまった。



***



 結局、朝の出来事は学園じゅうの噂になってしまった。


「鈴蘭! 何で黙ってたのよ? いつから煥先輩と付き合ってたの? 銀髪の悪魔って、どんなふうに笑うの?」


 訊かれるたびに否定する。


「黙ってたわけじゃない。付き合ってない。笑ったとこ、見たことない」


 否定するたびに、思い知らされる。


「えーっ、一方通行? 相手があの人じゃ、絶対大変だよ!」


 わかっているってば。すでに何度も心を折られかけたもん。目の前でピシャッとドアを閉められる感じで。


 今日だけで何人に励まされたかな?


「頑張ってね、鈴蘭! 応援してるから!」


 応援とか言って、おもしろがっているだけでしょ?


 煥先輩って、わからない。朝、わたしが泣いたとき、いつの間にか煥先輩の手がわたしの肩に添えられていた。


 温かくて、大きな手のひらだった。煥先輩は赤面しやすくて、照れるとすぐに手のひらで口元を覆う。その手の形が好き。


 人と接触するのが苦手なのに、今朝、煥先輩はわたしを拒まなかった。


「残酷すぎる……」


 期待させるんだもん。本当はそうじゃないくせに。ただ優しいだけで、好きとか、そんなんじゃないくせに。


 小夜子を消し去った選択も、そう。残酷だけれど、優しくて正しかった。


 一日じゅう、ぼんやりしながら過ごしてしまった。悲惨なことに、噂を耳に入れた先生もいらっしゃった。


「安豊寺、悩みがあるなら相談しなさい。グレるんじゃないぞ」


 真剣にそう言われた。



***



 放課後、軽音部室に直行したい気持ちを抑えて図書室に行った。最終下校時刻ギリギリまで勉強する。集中できなかったけれど。


 時間になって荷物をまとめて、カバンに付けた三日月のアミュレットに触れる。


 三日月はクレセントだ。ムーンではない。煥先輩は、わたしをブルームーンだと勘違いしていた。わたしを信じ続けてくれたのは、そのためもあったかもしれない。


 ひとけのない廊下を歩く。軽音部室のドアが開いて、煥先輩がわたしを見付けて、ふぅっと息を吐いた。


「三度目だな。兄貴のケガ、頼む」


 わたしのチカラに、瑪都流は少しだけ驚いた。全員、わたしが来ることは知っていた。文徳先輩はわたしにお礼を言って、種明かしした。


「今朝のこと、煥に問い詰めたんだ。そしたらこいつ、いろいろあったんだ、放課後に部室に来るはずだ、って言ってね。煥が世話になったみたいだね。不思議な話だけど」

「いえ、そんな。お世話になったのはわたしのほうです」


 雄先輩が、煥先輩をからかった。


「新曲の詞が完成したのって、ひょっとして、こちらのお姫さまのおかげ?」


 煥先輩は肯定も否定もしなかった。


 帰りは、送ってもらうことになった。煥先輩と文徳先輩が来てくれる。文徳先輩が部室の鍵を職員室に返す間、わたしと煥先輩は生徒玄関で待っていた。


 二人きりの沈黙は重い。わたしは煥先輩の横顔を見上げた。鼻筋のライン。まつげの長さ。薄い唇の形。何度見てもキレイだ。


「言いたいことでもあるのか?」


 凛と響く声が、ささやくトーンで訊いた。金色にきらめく目は正面を向いたままだ。わたしは空を見上げる。十三夜の月がある。


「煥先輩に、一つ、答えてほしいことがあります」

「何だ?」

「ブルームーンは、特別な存在だったんですね?」

「あのメールのことか?」

「はい」


 煥先輩はちょっとの間、口をつぐんだ。迷うような気配があった。それから、煥先輩はキッパリした口調で言った。


「タイミングとか巡り合わせとかって、あるだろ? あのメールは特別なタイミングだった。それだけだ」


 煥先輩が悩んでいた朝にメールが届いて、メールが届いた日にわたしが現れた。


 勘違いしたままだったら、もしかしたら、煥先輩はわたしを特別な存在にしてくれた? もしも小夜子が普通の女の子で、ブルームーンの正体が小夜子だとわかったら、煥先輩は小夜子を好きになった?


 何かに似ている、と思った。何だっけ? じっと考えて、思い当たった。


「人魚姫みたい」

「あ?」

「海で溺れる王子さまを救ったのは、人魚姫。王子さまは、浜辺で目を覚ましたときにそばにいた人間の女の子を命の恩人だと勘違いする。人魚姫は真実を告げることができずに、王子さまは人間の女の子と結ばれる。人魚姫は海の泡になって消えてしまう」


 小夜子は人魚姫だ。月の光になって消えてしまった。王子さまはブルームーンを大切に思っていたのに、それを知ることもないまま小夜子はいなくなった。


 煥先輩はかぶりを振った。


「意味、わかんねぇよ」


 心底わからない、って言い方だった。

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