「オレも同じだ」

 寧々ちゃんからメールが来ていた。


〈ゴメン! やっぱ一緒に帰れないよ。今から弓具店に行ってくるね。また明日!〉


 ホッとしてしまった。わたしは今、誰にも会えない状況だから。不安すぎて、頭が働かなくて、変なことを口走りそうで怖い。


 寧々ちゃんはわたしのチカラを知ってる。尾張くんも、順一先輩も。でも、誰にも言いふらさないし、変な目で見たりもしない。


 三人ともアーチェリーの練習やケンカのせいで、しょっちゅうケガをする。でも、わたしのチカラを頼ってこない。


「だって、お嬢が痛い思いするんでしょ? それはイヤだよ。あたしらは慣れてるからいいけどさ」


 寧々ちゃんはそう言ってくれる。


 チカラを怖がらない人もいる。悪用することもなく、普通に接してくれる。ふみのり先輩もそんなふうだと思いたい。でも、違ったら?


 文徳先輩に化け物扱いされたくない。文徳先輩が化け物扱いするところを見たくない。その両方の思いで、わたしの胸はふさがっている。不安で不安で仕方がない。


 わたしはカバンからポーチを出した。水色の生地に白い小花模様で、寧々ちゃんと色違いのお揃いだ。中には、ツルギの柄の形をした青獣珠を入れている。


「大丈夫、わたしは大丈夫。青獣珠の預かり手として、しっかりしなきゃ」


 うずくまっていても仕方ない。わたしは立ち上がった。


 一人きりの帰り道だ。左手にカバンを提げて、右手でツルギを抱きしめて、そろそろと歩いていく。


 真っ暗とはいえない。街灯はある。でも、住宅地にはひとけが少ない。中学時代よりも通学距離が伸びたし、下校時刻も遅くなった。寧々ちゃんたちと帰るときには何とも思わないけれど、一人だと心細くなる。


 唐突に、背筋が冷たくなった。


 気が付いたんだ。

 足音が聞こえる。ひたひたと、ついて来る。


 勘違い? 自分の足音が反響しているだけ? 

 違う。歩幅のリズムが違う。


 帰る方角が同じの誰かが後ろのいるの? でも、何かが不気味だ。ただの勘だけれど、わたしの悪い予感はよく当たる。


 角を曲がる。この先は細い路地が百メートルくらい続いて、街灯の数が少ない。わたしは思わず走り出した。足音が路地に響く。


 二十歩も進めなかった。


 路地の先に光がともった。光の中に、赤い服の人が立ちはだかる。その人がこっちを向いてニヤニヤした。表情がわかる距離だった。


 小さな駐車場に赤い大型バイクが停められている。光はバイクのヘッドライトだ。その人の赤い服にギョッとした。


 特攻服だ。寧々ちゃんの言葉が頭をよぎる。


「隣町の不良グループはえんっていうの。昭和の暴走族気取りで、幹部は真っ赤な特攻服なんだよ。バカをこじらせたヤバいやつばっかで、マジで話が通じないんだ。赤い特攻服を見たらとにかく逃げて」


 特攻服の人が口を開いた。


「カノジョ、何か急ぎの用事? なあ、おれらと遊ばねえ?」


 猫撫で声にゾッとする。わたしは後ずさった。


 背後で騒々しい足音がした。振り返ると、ダラッとした学ランのシルエット。あの制服、隣町の公立高校だ。


 赤い特攻服が言った。


「カノジョ、訊きてぇんだが。朝、文徳と話してただろ?」


 この人、何? 文徳先輩のことを狙っているの?

 赤い特攻服が、耳障りな声で笑う。


「そんなににらむなって。カノジョ、かわいい顔してんじゃん? な、ちょっと来いよ。生徒会長サマより、おれと一緒のほうが楽しいぜ」


 気持ち悪い。怖くて、それ以上に気持ち悪い。

 赤い特攻服のニヤニヤ笑いに、いやらしい感情が透けて見える。


「こ、来ないで……」


 叫んだつもりだった。のどに力が入らない。


 赤い特攻服は、ニヤニヤがをさらにギラつかせながら、わたしのほうへやって来る。背後の学ランも近寄ってくる。


 大声を出せば、誰かに聞こえるはず。でも、どうやって大声を?

 声の出し方がわからない。


 体が震える。赤い特攻服がわたしに手を伸ばした。鳥肌が立つ。全身がすくむ。

 赤い特攻服がわたしの肩を撫でる。


 気持ち悪い。やめて。


「そんな顔すんなって。仲良くしようぜ? こう見えて、おれ優しいからよ。かわいい女には、いい思いをさせてやるぜ」


 ニヤニヤ笑いが近付いてくる。気持ち悪い。汚い。怖い。手を振り払いたいのに、体が動かない。


 左手のカバンが地面に落ちた。

 男の手がブレザーの内側に入り込んでくる。


「おっ、デケェな。背ぇ低くて巨乳かよ。ヤベェ」


 胸がぐにゃりと形を変える。

 生理的な嫌悪感、恥ずかしさ、怒り。ごちゃ混ぜに沸騰する感情に、吐き気がする。


 なのに。

 こんなに感情は暴れているのに、体が動かない。


 赤い特攻服が鼻息を荒くした。わたしはコンクリートの塀に押し付けられる。頭も背中も打った。痛くて涙が出る。


 ポーチをつかんだ右手が、胸の前から引きがされた。カッターシャツのボタンが千切られた。素肌に夜の空気が触れる。


 おかしい。こんなの、おかしい。


 わたしの体に触れていい人は、こいつじゃない。わたしが全部を差し出したい相手は、こいつじゃない。


 こんなの絶対におかしいッ!

 青い光が頭の中で爆発した。仰いだ視界に月がきらめいた。


 青獣珠が騒ぎ出す。


 ――チカラが干渉し合っている――


 いつかどこかで聞いた声が頭の中に響く。


【この恋が実る真実の未来へとたどり着くために、何度だって時を巻き戻す】


 制服のリボンが奪われた。芋虫みたいな指が這い回る。


 ポーチの口がひとりでに開いた。わたしの右手にツルギの柄が吸い付く。ツルギには今、刃が生えている。青くきらめく短剣だ。


 青獣珠がわたしを導く。


 ――本質的ではないが、致し方ない――


 ツルギを持つ手が、カッと熱くなる。


 赤い特攻服がツルギの存在に気付いた。身構えようとするよりも早く、わたしの右手が動いた。

 青い刃の切っ先が、赤い特攻服の胸に吸い込まれた。


 ズプリ。


 硬くて柔らかい肉体に刃が沈み込む。心臓の震えさえ、ツルギ越しに伝わってくる。

 わたしが、人を、刺した。


 吐き気がするほどの拒否反応。命が消える手応えを知ってしまった。青獣珠もまた同じ。直視できない光を放ちながら絶叫する。


 そして。

 光景も音も夜気も汗の匂いも、わたしの動悸も青獣珠の悲鳴も、何もかもが消えた。



 座標

 B(下校途中,4月15日19:14,緋炎狂犬)

 ↓

 A(鈴蘭自宅,4月15日6:40,夢中流血)



***



 わたしはハッとした。

 目覚まし時計が騒いでいる。


「ここは……わたしの部屋。さっきのは夢……じゃ、ない……?」


 走った後のように鼓動が速い。全身に汗。鳥肌が立っている。

 わたしは自分自身を抱きしめた。


 夢のはずがない。さわられた感覚がまだ肌に残っている。吐き気がするほど気持ち悪かった。


 そして、右手にもなまなましい感触が残っている。人を差した感触が。心臓が止まる瞬間をダイレクトに感じた。


 でも、ここはあの路地じゃない。わたしの部屋だ。


 目覚まし時計が朝を告げている。カーテンの隙間から光が漏れている。あれから一晩明けたの?


 記憶が途切れている。路地で赤い特攻服の男を刺した瞬間に何もかもが消えて、そしてどうなったのか。


「そうだ、日付! ケータイ!」


 記憶が飛んでいるなら、今日は四月十六日以降だ。それに、わたしが殺人を犯したならニュースになっているはず。どっちにしても、ケータイですぐにわかる。


 わたしは、騒ぎっぱなしの目覚まし時計に触れた。レトロなアラームが黙り込む。ベッドから起き出して、勉強机の上の三日月ストラップのケータイを、カパッと開く。


 四月十五日、午前六時四十分。

 新着メールが一通。送信者は、寧々ちゃん。


「四月、十五日?」


 昨日の日付だ。


〈お嬢おはよー! いつものとこでOK!?〉


 頬の赤い黒熊のイラストが目に飛び込んできた。ガツンと頭を殴られたような、驚きというよりも衝撃。


 寧々ちゃんのメールはいつも似たような文面だけれど、デコメのキャラクターまで同じことはない。十五日のデコメは頬の赤い黒熊、十四日は梨の妖精、その前はコアラの球団マスコットだった。


 わたしは呆然としながら返信する。


〈おはよう。寝坊しないで起きたよ。また後でいつもの場所で〉


 三日月ストラップが揺れた。クローゼットの前の制服の下に、青獣珠がある。ツルギの柄の姿をしている。


 部屋のドアがノックされた。メイドさんの声がする。


「鈴蘭お嬢さま? お目覚めでしょうか?」


 反射的に、わたしは返事をした。


「おはよう。起きてます。着替えてから食堂に行く、と母に伝えて」

「かしこまりました」


 昨日と同じ朝? それとも、ただの、いつもと同じ朝? すでに四月十五日を過ごしたと思ったのは、わたしの記憶違い? これはデジャヴ?


 わたしの中から違和感が消えない。けれど、母もメイドさんも門衛さんも、何の違和感も持っていないように見える。


 家を出て坂を下って、コンビニの前に寧々ちゃんを見付ける。


「おはよう、寧々ちゃん。待たせてごめんね」

「おはよ、お嬢! あたしもついさっき来たとこだよ。ん、寝不足? 顔色、悪くない?」


 コンビニから尾張くんが出てくる。


「おす、安豊寺、おはよーさん!」


 尾張くんは早速おにぎりをパクついて、寧々ちゃんに頭をはたかれる。いつもと同じ、じゃれ合うケンカ。


 順一先輩は一緒じゃなくて、わたしと寧々ちゃんと尾張くんの三人だ。話をしながら、学校へ向かう。それぞれのクラスのこと。瑪都流バァトルという暴走族のこと。


 隣町の不良グループの話で、体が震えて脚がすくんだ。わたしは人を殺したかもしれない。でも、まだニュースになっていない。


「お嬢、どしたの? 具合悪い?」

「な、何でもない」


 不思議そうな寧々ちゃんと尾張くんに、無理やり笑ってみせる。背中を冷や汗が伝った。行こうと言われて、うなずいて、止まっていた脚を動かす。


 この先の展開を、わたしは知っている。今日が昨日と同じ日なら、もうすぐ文徳先輩に会える。


 そしてやっぱり、襄陽学園の塀のそばで、昨日と同じ情景を見た。


「文徳先輩……」


 寧々ちゃんがわたしを肘でつついた。


「お嬢、挨拶しに行っちゃえば?」

「ええっ?」

「そんなにビビらないの」

「だ、だって」


 わたしのチカラを文徳先輩に見せた。気持ち悪がられるかもしれない。


 でも、どうなんだろう? 癒傷ナースを使ったのは、十五日の放課後。今が本当に十五日の朝なら、文徳先輩はまだ何も見ていない。


 女子の先輩二人が駆けていって、文徳先輩に挨拶する。文徳先輩はにこやかに受け答えしている。


 ふと、文徳先輩の言葉が脳裏をよぎった。困ったことがあったら、頼ってほしいな。そんなふうに言ってくれたのは、ほかならぬ文徳先輩だ。


「わたし、行ってみる」


 文徳先輩なら、わたしの不安と恐怖と謎に向き合ってくれるかもしれない。すがるような思いで、わたしはカバンを抱きしめて走り出す。


 文徳先輩が、わたしに右手を挙げる。左肩には、ギターケースが引っ掛けられている。


「おはよう」

「お、おはよう、ございますっ」

「そんなに走って、どうしたの? 何か急ぎの用事?」

「あ、いえ、その……」


 先輩二人が共犯者みたいに茶々を入れる。文徳先輩が少し困った顔をする。

 わたしはどんな会話をした? そう、文徳先輩がギターを弾くと知った。


「文徳先輩、楽器をされるんですね」

「ああ、バンドやってるんだ。ギターだよ」


 素晴らしいと言うわたしに、文徳先輩は微笑む。嘘をついている顔じゃない。これは演技なんかじゃない。


 本当に、十五日の朝の光景だ。わたしが記憶しているとおりの。


 生徒会の話をして、でも少し流れが変わる。最初の十五日の朝には、名前の呼び方の話をした。でも今、わたしはもう「文徳先輩」と呼んでいる。「伊呂波先輩」ではなくて。


 そして、もう一つ。

 記憶の中の流れとは違う言葉が、わたしをまっすぐに貫いた。


「おい。もしかして、あんたもか?」


 低く澄んだ声は、ささやきですら、よく通る。感情が読みづらいはずの声なのに、今のはわかった。

 驚いている。


 わたしは声の主を見た。銀色の髪、金色の瞳。端正な顔が、眉をひそめている。


 あきら先輩が近付いてきたことに、わたしは目を見張った。記憶と違う。記憶の中の煥先輩は、文徳先輩を置いて学校へ向かった。


「どうして、煥先輩だけ……」


 煥先輩はわたしの腕を取って、文徳先輩たちから引き離した。金色の目が、近い距離からわたしを見下ろす。


「あんた、えんの狂犬を刺しただろ?」

「えっ」

「違う。刺したじゃない。これから刺すんだ。十五日の夕方、路地の駐車場のそばで」

「どうして、そんな……」

「凶器は、ただのナイフじゃない。青い宝珠のツルギ、青獣珠だろ?」


 わたしは声が出ない。驚きすぎて、恐ろしくて。


 どうして知っているの? どこで見ていたの? あなたは何者?

 矢継ぎ早の質問が頭の中に湧き起こる。けれど、舌が動かない。冷たいくらい整った煥先輩の顔に視線を留め付けられたまま、わたしは声や呼吸まで固まっている。


 煥先輩は、自分のブレザーの内側に手を入れた。ボタンを留めないブレザーの内ポケットから取り出されたものに、驚きが重なった。


 白銀色の金属。刃のないツルギの柄。幾何学模様が刻まれたつば。柄頭に、純白に澄んだ宝珠がきらめいている。


 煥先輩がささやいた。


「オレも同じだ」


 同じ? わたしは口を開く。のどが干からびでいる。おびえた吐息しか出ない。

 煥先輩が言葉を継いだ。


「十五日の朝、胸くそ悪い夢から覚めた後、はくじゅうしゅがこの形になってた。意味がわからないまま、夕方まで過ごした。あんたが軽音部の部室に現れて、目の前でチカラを使った。あんたを追い掛けて路地に入ったところで、目撃した。気付いたら、時間が巻き戻されてた」


 同じと言った意味がわかった。わたしと同じ時間の流れ方を体験している。そして、その理由は。


「煥先輩も預かり手なんですね?」


 やっと声が出た。

 煥先輩はうなずいた。白獣珠をブレザーの内側に戻す。


「夕方、部室に来い。逃げ出さなくていい。兄貴たちも預かり手の事情は知ってる。帰りも送ってやる」


 煥先輩はきびすを返して、スタスタと歩き出した。文徳先輩に「先に行く」と声をかける。

 わたしは立ち尽くしていた。文徳先輩が肩をすくめて、わたしに笑いかける。


「もしかして、あいつと知り合いだった?」

「いえ……あの、ちょっとだけ」


「あいつがおれの弟の煥。普通科の二年だよ。愛想がなくて、悪いな。おれのバンドのヴォーカルなんだけど、歌うとき以外はずっとあの調子なんだ」

「そ、そうなんですね」

「あいつの声、いいだろ? 兄弟なのに、声は全然違う。あいつだけ、ほんとに特別な声してるよ。おれ、あいつの声が好きでさ。よかったら、聴きに来てほしいな」


 文徳先輩がわたしのほうを向いた。わたしは笑顔をつくった。頬がギシギシ鳴るような気がした。


「機会があったら、ぜひ。文徳先輩がギターを弾くところも見たいです」

「ありがとう。まあ、そのうちね。じゃあ、おれ、煥を追い掛けるから」


 チラッと手を振った文徳先輩が、軽快に駆け出した。


 頭の中がぐるぐるしている。わたし以外の預かり手に出会うなんて。その人が文徳先輩の弟だなんて。


「お嬢、よかったじゃん! 名前、覚えてもらってんだね!」


 いつの間にか、寧々ちゃんが隣にいた。

 尾張くんは、いつになく目を輝かせている。


「煥先輩、カッケェよな。すげぇ強いんだぜ。強すぎて、銀髪の悪魔って呼ばれてんの」


 悪魔。どうなんだろう?

 あの人も能力者だから、わたしが能力者でも怖がらない。今日の帰りも送ってくれるって言った。悪い人ではないのかもしれない。

 だけど、怖い。感情の読みづらい声と瞳。文徳先輩とは正反対の雰囲気。


 カバンの中で青獣珠が言った。


 ――チカラが集い始めた。因果の天秤に均衡を取り戻すために――


 何かが起ころうとしている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る