李左車

 扶蘇ふそは兵の調練のため、雁門の城外にて張廉ちょうれんの指揮ぶりを見物していた。

「背筋を伸ばせ。もっときびきびと行軍せよ」

 張廉は扶蘇の集めた兵を叱責するが、如何せん老いた者や体の弱い者で構成される部隊であるため、張廉の指示が今一つ行き届かない。兵達は隊伍も揃わぬまま、ただだらだらと行進しているだけだった。これでは行軍ではなく群衆が物見遊山にでも行くかのようだ。

「何をしているのだ。私の指示に従えないのならば斬るぞ」

 張廉の怒声に兵達はびくりと体を震わせ、怯えの色を見せるが、それでも兵達の行軍はどうにも締まらない。張廉は苛立たしげに眉を引きつらせている。

「良いか、お前達は本来ならば役に立たぬ者として打ち捨てられているところを、殿下の特別の御厚情により軍に加えてもらったのだ。そんなだらしのないことでどうする」

「ですが張廉様、あっしらの中には立っているだけで精一杯な奴もおりますんで。戦に出るなんてとても無理ってものでさ」

 白髪混じりの男が悲痛な顔をして訴え出た。しかし兵の抗議に張廉は余計に怒りを燃やす。


「口答えする気か。我が秦の為に戦えることはこれ以上ない名誉であるというのに、お前はその有難味もわからずに文句ばかり言いおって」

 張廉は年老いた男の胸倉を掴むと、拳を固めて殴りかかろうとした。

「やめよ、張廉」

 扶蘇が張廉を咎めると、張廉はようやく男から手を離したが、その顔には未だに怒気が滲み出ている。

「殿下、こ奴等に甘い顔を見せてはなりません。もっと厳しく鍛えなければ、戦場で使い物になりませんぞ」

「そう焦るな、張廉。病み上がりの者達がそうすぐに強兵となれる筈もあるまい。まだその者達には調練は辛いのだ。少し休ませよ」

「しかし、殿下」

「私の命が聞けぬのか。弱者を労らずして何が君子か」

「連中が弱者とお思いならなぜ軍になど入れたのです。あの者達は到底戦に耐えられるような者達ではありません」

「弱者にも国を守る名誉が与えられねばならぬ。そのためにそなたに調練を課しているのだ」

「このような馬鹿げた役目など、私は到底納得いたしかねます。そんなにこの者達を鍛えたいのであれば、殿下がご自身でおやりになればよろしいでしょう」

 張廉は扶蘇に憤懣をぶちまけると、そのまま扶蘇の前を辞して歩み去ってしまった。


 張廉はその足で城外で馬を商っている男の所に立ち寄った。辮髪べんぱつを肩まで垂らした男は匈奴の者で、先程まで調練の様子を傍で見物していたようだ。

「やれやれ、恥ずかしいところを見せてしまった。まさか殿下があれほどの愚物だとは」

 張廉は男に愚痴をこぼすと、大きく溜息をついた。

「騎馬隊が増強されるんじゃなかったのかい?」

 男は訝しげに張廉に問いかけた。

「そのはずだったんだが、殿下が急に仁者の軍を作るなどと言い出してな。体の弱い者にも戦場で手柄を立てる機会を与えるべきだとか言っているんだが、あんな烏合の衆を集めたところで何もできるわけがない」

「あいつらは馬にも乗れなさそうだが、やはり歩兵隊になるのか、仁者の軍とやらは」

「そうするしかなさそうだ。済まんな、せっかく良い馬を連れてきてくれたのに」

 張廉は男のそばにいる馬の首筋を撫でた。栗毛の馬は馬体は高くないが、良く肥えていていかにも頑丈そうだ。

「仕方がないさ。しかし大丈夫かね、あんなぼんくらな皇子に仕えていて」

「そうだな、俺もそろそろ身の振り方を考えたほうがいいのかもしれん」

 張廉は沈痛な面持ちで言うと、北方の空を振り仰いだ。蒼穹に幾筋も浮かぶ細い雲は、遠く匈奴の空から吹き来る風により形作られている。

「お前がその気なら、俺達はいつでもお前を受け入れるぞ。お前の馬術は匈奴にいてこそ活きるものではないか」

「――考えておくとしよう。それではな」

 張廉はそう言い置くと、肩を落として扶蘇の軍営に戻っていった。



「予定通り、匈奴の馬商人には殿下の仁君ぶりを吹き込んで参りました」

 張廉は先程とは打って変わって謹厳な様子で扶蘇にそう言上した。

「ご苦労であった。あの男はさぞ私を愚かな男と思ったことだろうな」

 扶蘇はかすかな笑みを湛えつつ張廉を労った。

「さて、ここからが本当の調練だ。蒙恬もうてん、推薦したき者がいると申しておったな」

「はい、匈奴と戦うならば、これ以上に役に立つ者は他におりません。――殿下にご挨拶せよ」

 蒙恬がそう言うと、後ろに控えていた少壮の将が扶蘇の前に進み出た。

「李牧が孫、李左車りさしゃにございます」

 そう名乗った男はまだ若いが、その風貌からは年に似合わぬ沈着さと内に秘めた壮志とが窺える。頼りになりそうな男だ、と扶蘇には思えた。

「ほう、あの李牧殿の」

 かつて趙の大将軍として秦を苦しめた李牧の名は、今でも天下に鳴り響いている。李牧は趙の奸臣郭解の讒言により処刑されてしまったが、敵味方の垣根を越え今でも秦の将兵の尊崇を集める存在だった。


「そう言えば、李牧殿もかつては趙の北辺にあり、匈奴を打ち破ったことがあるのだったな。確かこの雁門の地に駐屯していたと聞くが」

「はい、我が李家には匈奴を破る秘伝の兵法が伝わっております。私の兵法を用いれば、冒頓ぼくとつなど物の数ではございません」

 李左車は若々しい顔に満腔の自信を漲らせている。その自信は若気の至りなどではなく、李牧の代から受け継がれた確かな兵法に裏打ちされているようだ。

「蒙恬の麾下にあってそなたも相当な経験を積んでいるのだろうが、その李家の兵法とは匈奴には知られていないのか」

「ここしばらく、匈奴は蒙恬様の武威を恐れてほとんど我が秦と干戈を交えておりません。李家の兵法は用いる機会もありませんでしたし、殿下が張廉殿を用いて匈奴を油断させておられるので準備は万端と言えましょう」

「うむ、それならば良い。さっそく調練に取り掛かれ」

 李左車は扶蘇に一礼すると、扶蘇の作った部隊の一人一人に盾を持たせた。

「匈奴は戦が始まると、まず馬上から矢を射掛けてくる。諸君には私が指示を下したら、いつでも退却できるよう準備をしてもらう」

 扶蘇の集めた兵達は真剣な表情で頷いた。

「では、まずあちらに弓騎兵を用意した。あれを匈奴と思ってもらいたい。私が合図するまで、できるだけ匈奴を引き寄せるのだ」

 兵達は緊張に表情を引き締めると、無言で頷いた。


「騎兵隊、進め」

 一固まりになった弓騎兵は、列を乱さず整然と行軍してくる。この場では数百騎しか用意されていないが、それだけの数でも周囲を圧倒する迫力がある。扶蘇の部隊に動揺が走った。

「慌てるな。まだ二百歩の遠さだ。弓は届かない」

 李左車が指示を飛ばすと、扶蘇の部隊はどうにかその場に踏みとどまった。騎馬隊はさらに距離を詰め、馬上で弓を構える。

「百五十歩。まだ遠い。そのままその場で堪えよ」

 兵達は互いの顔を見合わせ、何事か囁き合っていたが、それでも李左車の指示通りにその場に止どまり続ける。

「百歩。ここで匈奴は弓を放つ。全軍退却せよ」

 弓騎兵は弓を引き絞ると、一斉に矢を放った。扶蘇の部隊は算を乱して逃げ始める。訓練のために矢尻を付けていない矢が、兵達の背のすぐ傍に降り注いだ。

「逃げるのは良いが、まだまだ兵達にまとまりが無さ過ぎるな」

 扶蘇は傍らの李左車にそう感想を漏らした。

「調練を繰り返せば、いずれ形になりましょう。あの者達には冒頓を誘い込む呼び水となって貰わねばなりませんからな」

「その通りだ。それでこそあの者達を役に立てることができる」

 扶蘇は満足気に頷いた。扶蘇の意図を完璧に把握し、実地に役立てることのできるこの将こそ、次代の秦を担うに足る人材であるように扶蘇には思われた。 



「冒頓様、本当に秦と戦うのですか」

 側近の男がおずおずと冒頓に問いかけた。簡素なパオの中心に座す冒頓が男を睨めつけると、男はその眼光に耐え切れずに目を伏せた。

「不満か?」

 冒頓はただ一言、そう問いかける。冒頓は腕組みをしたまま目を閉じているが、目に見えぬ刃が男の喉元に突きつけられているかのようだ。

「秦は三十万の軍を擁しています。冒頓様の一万騎は精鋭といえど、とても抗し得るものではありません」

「数が何だというのだ。秦の兵など大多数が全国から駆り集められた農民に過ぎないではないか。何を恐れることがある」

 遊牧の民は地を耕して暮らす者を見下しているところがある。冒頓にとって作物とは育てるものではなく、交易で手に入れるか奪い取るものだった。僅かな土地に縋り付いて生計を立てるなど、冒頓の目から見れば奴隷の所業に過ぎない。

「しかし、秦と戦ってはならぬというのは単于ぜんうの命にございます。今は秦と事を構えてはなりません」

「お前は単于の部下か、それとも俺の部下なのか」

「そ、それは……」

 答えあぐねた男は萎れたように俯いた。こういうはっきりしない男が冒頓は嫌いだった。部下とは自らの手足の如く動かせる存在であってもらわなければ困る、と冒頓は考えている。

(父の息のかかった者は、一掃しなければなるまい)

 冒頓は男に冷たい一瞥をくれると、決然と立ち上がった。

「これより調練を始める。皆付いて来い」

 そう言いながら冒頓は包の外に出た。有無を言わせぬ冒頓の命に、男は渋々付き従った。


「これより弓の訓練を行う。佰長はそれぞれ我が前に進み出よ」

 佰長とはその名の通り、百人の匈奴を束ねる長である。佰長の下には十人の什長がおり、匈奴の軍を構成する最小の単位となっていた。冒頓の指揮する兵は一万騎なので、今この場には百人の佰長が存在する。

「我等にとり弓は戦の要。今日はお前達の弓の腕前を見せてもらうとしよう。射るべき的はこれだ」

 冒頓はやおら下馬すると、己の愛馬を指差した。

「し、しかし冒頓様、あれは烏孫の天馬ではありませんか」

 側近の男が動揺の色を見せると、佰長もざわつき始めた。

「お前達は俺の命が聞けぬのか。あの馬を扶蘇だと思って射よ」

 冒頓が喝を落とすと、佰長は弓を引き絞り、次々と冒頓の愛馬に矢を放った。天馬の全身に針鼠のように矢が突き立ち、天馬は苦しげな悲鳴を上げるが、冒頓の表情は些かも揺るがない。


「さて、最後まで射る事の出来なかったものは前に出よ」

 地に崩折れ絶命した愛馬を横目に、冒頓は厳かに口を開いた。三十名ほどの者が冒頓の前に進み出て頭を垂れた。

「この者達は我が命に逆らった不忠者だ。俺の麾下にお前達のような者は要らぬ」

 冒頓がそう言い渡すと、佰長の一人が奮然と顔を上げた。

「お言葉ですが、たとえ臣下と云えども、誤った命には従えません。冒頓様の大切な愛馬を射ることなど、どうしてできましょうか」

「何が正しいか、何が誤っているかを決めるのはお前ではない。この俺だ」

 冒頓が己に抗議した佰長に近づくと、佰長はその威に打たれて震え上がった。

「我が命に逆らう者の末路はこうだ」

 冒頓は腰から径路剣を引き抜くと、佰長の前で素早く剣を舞わせた。数瞬の後に佰長の首が胴を離れ、目を剥いたまま地に転がった。

「こ奴等を始末せよ」

 冒頓が冷厳と指示を下すと、側近が次々と佰長に踊りかかった。胡馬が黙々と草を食む長閑な広野は一瞬にして凄惨な殺戮の現場に変わり、草原は匈奴兵の血で紅く染め上げられていった。

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