陳勝

 十数日の後、扶蘇ふそはわずかな供回りだけを連れて塞の巡察に出ていた。麒麟は数日は扶蘇の周囲へ姿を見せていたが、その後忽然と姿を消した。扶蘇は見回りのついでに麒麟の姿を探そうとしていたが、その行方は杳として知れない。


「全く、退屈な任務だ。こんな所にいたって手柄ひとつ立てられやしない」

 扶蘇の耳に塞を守る戌卒のぼやく声が聞こえてきた。最近は蒙恬もうてんの威令が匈奴にも行き渡り、この北辺の地にも絶えて争いはなくなっている。このため塞を守る戌卒の態度にも緩みが見え始めていた。

「おい、陳勝、声が大きいぞ。あれは殿下だ」

 隣の男が不満を漏らす戌卒をたしなめた。どうやらこの男は扶蘇の顔を見たことがあるようだ。

「どうした、この任務は不満か」

 親しげに声をかけた扶蘇の前で、男は弾かれたように背筋を伸ばすと、緊張でその表情を固くした。

「不満などあろうはずがございません。この国を守る使命を与えられ、日々飢えずに暮らせるようになったこと、感謝の言葉もございません」

 この二人の男には見覚えがあった。先日塞の食料を盗みに入った者達だ。

「おい呉広、そんなに畏まるな。たとえ王侯将相だろうと、俺達とそんなに違ってるわけじゃない」

「陳勝、お前はこの方を誰だと思っているんだ。今からでも遅くはない、無礼を詫びろ」

 陳勝と呼ばれた男は鼻を鳴らすと、薄笑いを浮かべながら扶蘇を睨みつけた。目鼻立ちは悪くはないが、痩けた頬と尖った顎のためにどこか険がある。炯々と光る不敵な瞳は、たとえ一国の皇子を相手としても怯えることを知らないらしい。


「そなたは面白いことを申す男だな。私もそなたも変わらぬ存在であるとは、如何なる意味か」

 扶蘇は陳勝の無礼な物言いに腹を立てるでもなく、興味深げにそう問いかけた。

「皇子であろうが農夫であろうが、異なっているのはせいぜい身に纏う衣服と持っている銭くらいのものさ。裸に剥いてしまえば人など皆同じだ」

「だが、人は裸で生きているわけではあるまい。素裸で生きるなら人は獣と変わらぬ。人と獣とを分かつのは礼だ。礼を身につけてこそ、人は人らしく生きることができる」

 扶蘇は穏やかに陳勝を嗜めた。しかし陳勝は一向に意に介しようとしない。

「礼など儒家の連中が自分を飾るための手段に過ぎんさ。窮地に追い込まれれば人はすぐにその本性を現す。礼などで上辺を取り繕ったところで人の本性まで変わるわけじゃない」

「なるほど、そなたはそのような者ばかり見てきたというわけだ」

 扶蘇は顎に手を当てると、何度も一人うなづいた。


「まさか、あんたはそうじゃない、とでも言うつもりなのか?」

 陳勝は片頬を釣り上げて笑った。ここまで己を相手に挑発的な振る舞いができる者を扶蘇は初めて見た。

「確かに、窮地に追い込まれねば人の価値などわからぬかもしれんな。ではこの私の場合、窮地とはどのようなものだろうか」

「そうだな、謀反の罪を着せられる、なんてのはどうだ」

 陳勝は不敬にもそう言い放った。瞬時に緊張が走り、扶蘇の伴の者達が腰の剣に手をかける。

「陳勝、何てことを言うんだ。申し訳ございません、殿下。この者は目上の者にはつい心にもないことを口走ってしまう癖がございまして……どうかお許し下さい」

 呉広が泣きそうな顔で扶蘇に懇願するが、陳勝はまるで耳に入らぬ様子で話し続ける。

「あんたは俺達に恩を着せて仁者ぶりたいようだが、こんな平和な時に君子を気取るなんて誰でもできる。あんたが本物の君子かどうかは、まだ試す機会は訪れていない」

 今にも鞘走りそうになる伴の者達を押しとどめると、扶蘇は哀れむような口調で言った。

「そなたは、人が信じられぬのだな」

 扶蘇がそう言った途端、陳勝は満面に怒気を漲らせた。

「あんたなんかに何がわかる。宮中でぬくぬくと育った皇子に何が――」

 陳勝がそう言い終わらぬうちに、遠くから澄み渡る嘶きの声が聞こえた。

(あれは、麒麟か?)

 扶蘇が嘶きの聞こえた方を振り向くと、確かにその先に小さく一角の獣の姿がみえた。


「そなたの議論は興味深いが、今日はここまでとしよう」

 扶蘇は踵を返すと、麒麟の方へと歩みを進めた。呉広はようやくほっと一息つくと、去ってゆく扶蘇の後ろ姿を眺めていた。


(さて、どうしたものか)

 麒麟は大人しい性質らしく、その振る舞いには猛々しい部分が微塵も見当たらない。首に投げ縄でも打てば連れ帰るのは容易いだろうが、扶蘇はこの聖獣をそこらの獣と同様に扱うなど許されないことと考えていた。どうにかしてこの聖獣を連れ帰りたいが、かと言って無理強いするわけにもいかない。

 扶蘇は麒麟を恐れさせないよう、そろそろと麒麟に歩み寄る。麒麟はつぶらな瞳で扶蘇を見据えたまま、恐れたように二、三歩後ずさった。

「やあ、苦労していらっしゃいますな、殿下」

 陳勝が遠くから慇懃な調子で声をかけてきた。言葉こそ丁寧になったものの、声音には相変わらず嘲弄の響きが含まれている。

 扶蘇が相手にしないまま麒麟との距離を詰めようとしていると、再び陳勝が声をかけてくる。

「獣相手に何を戸惑っているのです。そいつを捕まえたいのでしょう?ならこれで射抜いてしまえばいい」

 扶蘇がその言葉に驚いて振り向くと、陳勝はその手に弩を構えていた。

「何をするつもりだ。麒麟は仁獣。矢を射掛けるなど許されぬぞ」

「殿下に許してもらう必要などありませんよ。大体、その獣が本当に聖獣だというのなら、俺の矢如きで傷つけられるはずがないでしょう」

「弩を降ろせ、陳勝」

「断る。あんたが本物の君子だというなら、その仁でその獣を救って見せろ!」

 そう言い終えるやいなや、陳勝は麒麟に向けて矢を放った。矢が狙い過たず麒麟に突き立つと見てとった扶蘇は急いで麒麟に駆け寄ると、右肩で陳勝の矢を受けた。


「ば、馬鹿な。何てことを」

 陳勝は呆然と立ち尽くし、弩をその場に取り落とした。須臾の後に陳勝が扶蘇に駆け寄ると、伴の者達が怒りの形相で陳勝の前に立ちはだかった。

「この無礼者が、殿下を射るとは何事か!」

「俺は、そんなつもりじゃ……」

 伴の者達が一斉に剣を抜き、陳勝に切先を突きつけたが、扶蘇は苦悶の表情を浮かべながら手で彼等を制した。

「その者が狙ったのは麒麟だ。私が麒麟の前に飛び出しただけだ」

「しかし、殿下」

「大した傷ではない。麒麟を守れたのだから良いではないか」

 そう言って扶蘇は矢を中程から折ると、ゆっくりと傷口から矢を引き抜いた。


「どうして、こんな真似を」

 青褪めた顔で扶蘇の前に膝をつきながら、陳勝は呻くように言葉を継いだ。

「何を申す。そなたが私に機会をくれたのではないか」

「機会だと?」

「私が真の仁君となれるかどうか、そなたは試したのだろう。麒麟に射掛けられる矢を前に、咄嗟に体が動くかどうかを見たかったのではないのか」

「別に、そういうわけじゃない」

「そなたにその気がなくとも、天がそなたを通じて私を試したのかもしれぬ。私の振る舞いが上辺だけのものでないのかを。いずれにせよ、そなたには礼を言わねばならぬな」

 肩で荒く息をつきながら、扶蘇は切れ切れに言葉を紡ぎだした。


「礼だと?仮にも自分を射た俺に向かって礼だなんて、どうかしている」

「そなたが麒麟を射なければ、私は己の力量を知ることもできなかった。いくら口先だけで仁などと唱えてみたところで、いざという時に己が身を惜しむようでは世人に嗤われよう」

「だからといって、たかが獣如きの盾になろうとするとは」

「目の前の命すら救えぬ者が、どうして万民を救えるのだ」

 陳勝は大きく目を見開いた。扶蘇の言葉がようやく心の奥にまで染み通った様子だ。

「どうやら麒麟にも私の思いが通じたらしい。見よ、あれを」

 陳勝が顔を上げると、麒麟がそろそろと扶蘇の傍に歩み寄ってきた。話し疲れて叢に身を横たえる扶蘇のそばで一声小さく鳴くと、麒麟は額の一角を扶蘇の傷口に向けた。

(これは……)

 麒麟の角から青白い光が放たれ、扶蘇は右肩がかすかに熱を帯びたように感じられた。無数の細かい泡が弾けるような心地良い感触に包まれ、みるみるうちに傷口が塞がっていく。


 すっかり傷も癒え、身体も楽になった扶蘇は叢から身を起こすと、陳勝に向き直った。

「これでようやく、麒麟も私を信じてくれたようだ。そなたには重ねて礼を言うぞ」

「礼など言われる筋合いはない。俺はあんたを射たんだぞ。さっさと殺してくれ」

「なぜそう死に急ぐ。そんなにこの世が嫌いなのか」

 扶蘇は右肩をさすりながら、慈父のような眼差しを陳勝に向けた。

「俺とあんたとでは、生まれも育ちも、見てきた景色も何もかも違う。あんたが生き易い世でも、俺にとってそうだとは限らないんだ」

「おや、先程は人など皆似たようなものだと申しておったではないか」

 陳勝はぐっと詰まった。返す言葉を見つけられずにいる陳勝を前に、扶蘇は話し続ける。

「そんなに生き辛い世ならば、少しでも生き易い世に変えていかねばなるまい。――どうだ陳勝、私に仕えぬか」

「俺は……」 

 逡巡した様子で黙り込む陳勝を横目に、供の者が扶蘇の前に進み出た。

「殿下、なりませぬ。このような無礼者をお側に置くなど」

「忠言は耳に逆らうと言うではないか。我が耳に心地良いことを言う者だけを傍に置いても意味はない。陳勝のように忌憚なく己の存念を述べられる者こそ、私には必要なのだ」

「俺はあんたの役に立つようなことなんて何一つ言わんぞ。それでもいいのか」

「何が役に立つかは私が決めることだ。これも何かの縁であろう。そなたと呉広は私の護衛に任ずる。今後は私の身辺を警護せよ」

 伴の者が苦々しげに陳勝を睨みつけたが、陳勝は平気な顔でその視線を受け流した。

「それでは、せいぜい務めさせていただきますよ」

 陳勝は大げさに一礼すると、再び顔をあげた。その顔からは心なしか刺々しい雰囲気が薄らいでいるように扶蘇には感じられた。



 その頃、燕の国境近くを流れる易水のほとりに佇む一人の女人がいた。年の頃は三十を幾つか過ぎていると思われるが、その容色は未だ衰えを見せていない。

「そろそろ行きましょうか、張廉ちょうれん

 女人は供の男に声をかけた。男は逞しい背に行李を背負っている。浅黒いその顔に刻まれた幾筋もの深い皺は、この男の辿ってきた道筋の過酷さを雄弁に物語っていた。

「もう、よろしいのですか」

「いつまでも過去を振り返ってはいられません。ここで名残を惜しんでいるだけでは、あの方に叱られてしまいますから」

 張廉は無言でうなづくと、首を回して易水の西に目を向けた。かつてこの地から咸陽へと旅立った刺客がいたが、この主従もまた今ここから何処かへと旅立とうとしているようだ。


「長城の工事は、まだ続いているのですか」

「恐らくは。秦にとり騎馬の民は大いなる脅威。長城は秦の北の守りの要ですからね」

 張廉はわずかに表情を曇らせた。どうやらこの男は嘘の付けない質であるらしい。

「――ごめんなさい。貴方も匈奴でしたね」

「いえ、私が案じているのはその事ではありません。今は蒙恬将軍の武が匈奴を圧しているとはいえ、国境地帯は危険な地です。そのような土地に進んで赴くのはいかがなものかと」

「張廉、私達が何のために旅を続けていると思っているのですか?」

 張廉は黙り込んだ。この女人が一度決めた意志を決して翻さないことを、この男はよく知っている。

「長城の建設に駆り出された民は、日々を苦役に耐えて生きなくてはなりません。そのような人々が数多いる地にこそ、歌の慰めが必要なのではありませんか」

「――仰る通りです」

 張廉は大人しく女人の言葉に従った。危険を顧みず、苦しむ民の居る場所なら何処にでも足を伸ばすこの歌姫を放っておけないからこそ、張廉は彼女の伴を買って出ているのだ。

「それに、今国境に駐屯している扶蘇様は慈悲深きお方と聞き及びます。私たちのことも、決して邪険には扱わないでしょう」

「そうですね。――ではそろそろ参りましょうか、雪蘭様」

 張廉がそう呼びかけると、雪蘭はその名の如く真白い顔に微笑を浮かべた。十数年前に初めて遭った時より柔らかみを帯びたその笑顔に、張廉は先行きの不安を吹き払われる思いだった。

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