緑影の魔術師

「急がなきゃ、急がなきゃ、急がなきゃ!!」


 叫びながら白兎は走る。


 手にしたラッパを吹き鳴らし、やたらめったら跳び跳ねながら、大急ぎで駆けていく。

 人が走る時には、二つのパターンしかない。どこかへ行こうとしているときか、或いは、何かに終われているときだ。


 白兎は後ろを見ることはなく、懐中時計をチラチラ見ながら走っていた。

 手にした懐中時計は壊れているのか、針が逆回しに動いている。それでも、彼女にとっては事足りるのだろう、蓋を開けては目を見開き、文字盤を眺めては口を開き、懐に戻しては駆け出していく。

 その忙しない様子を見ながら、アリスは呆れたようにため息をつき、口を開く。


「あぁもうまったく、あの子はどうして走るのかしら?遅刻遅刻って、誰も怒りはしないじゃない!」


 とは言え、愚痴を言っても始まらない。白兎が走っていて、アリスが走っていない以上、その差は開くばかりである。

 しかし、とアリスは、じっとりとした目で白兎の背中を見詰めた。


 見たところ、あの子はかなりの速度で走っている。女王様の趣味なのか、意味もなく曲がりくねった煉瓦の道に従って蛇行しているとは言え、少女の足で追い付ける速度ではない。芝生を気にせず真っ直ぐ走っても、果たして追い付けるかどうか。

 もしも追い付けないなら、ヒールに踏み砕かれた芝生の尊い犠牲は無駄なものとなる。それではあまりにも忍びないし、森の花みたいに文句を言い出されたら堪らない。

 どうしようかしら。アリスは少しの間悩んで、それからふと、自分のポケットに入れてあったを思い出した。さっきかじって、残りをとっておいたのだ。


「まぁ、なんて素敵なことかしら。そうよ、普通に歩いても追い付けないなら、早く走るか、あとは、歩くしかないわね」

 笑いながら、アリスは取り出したそれを一口かじる。香ばしい甘さが口一杯に広がり、そして、

 彼女も、







「さぁウサギ様。急いでアリスを追いかけましょう」


 微笑みながら言うディア。その背後に蠢くゾンビをなるべく見ないようにしつつ、私は軽くため息をつく。


 彼女は随分、意気揚々としている。勿論初対面だし、普段からこうなのかもしれないが。しかし、わかっているのだろうか。彼女は今、現在進行形で、主を裏切っている。

 確かに良い主人ではなかったろうが、女王は女王だ。その騎士である以上、もっと尽くしてやるべきなのではないか。


「いえ、私は充分働いたつもりですよ。騎士とはいえ、報いるべき恩義が無いならそこまでです」


 ある意味では意地の悪い私の質問に、ディアは微笑みを絶やさずあっさりと答えた。


「………結構シビアな考え方だな。私の知ってる騎士とは大違いだ」

「それは仕方がないでしょう。貴女の知っている王とあの女王では、恐らく大違いでしょうから」

「………なるほど」


 仕える相手が違えば、それも当然か。

 頷く私に、ディアは「それに」と続けた。


「一応、広義で言えば女王のためでもあります。………この廊下の惨劇、恐らくアリスの仕業でしょう」


 砕かれた調度品や、壊れた廊下、そしてかつての同僚を眺めながら、ディアは呟いた。その顔から微笑みが抜け落ち、人形めいた無表情が残る。


 その影に憂いの色を感じ、私は肩を竦める。


 確かに、敵討ちと言えなくもない。女王自身も傷付いていたようだし、それをしたのがあの少女、アリスだとするのなら、彼女を狙う暗殺者クロナに協力することは道理に反するわけではないのだ――それもやはり、言い訳のような気もするけど。


「キヒヒ、やっぱりそういうところは騎士様だよなぁ?主裏切るのにも道理が要るとは驚きだぜ!文書にして通知しなくても良いのか?ギャハハ!!」

「………………………」


 バグの軽口に、ディアは物憂げな表情を浮かべた。どうせこいつは本気で言っている訳ではないのだから聞き流せばいいのに、真面目な奴だ。

 まぁ、いいか。


「とにかく、追い掛けようか。この先へ行ったようだし」

「うーん、あれはいいのか?」


 あからさまにホッとした様子のディアとは裏腹に、バグが悩むような声をあげた。


「あれ?………あ、もしかして、あれ?」


 一瞬何を言っているのかわからなかったが、直ぐに思い至った。

 廊下の本来の行く先、曲がり角の向こうからは激しい爆発音が断続的に響いているし、時折足元がぐらつく。


「………この先は、何があるんだ?」

「赤の女王の間ですが………」


 首を傾げたディアの答えに、私も首を傾げた。

 恐らく、ベルフェが戦っている音だろうとは思っていたが、もしそこが女王の間だとしたら、女王自身が出歩いている今現在は無人のはずである。

 女王と戦っていて、女王が逃げてきたのだとも思えたが、だとしたら今現在も音が聞こえてくるのはおかしい。


「………もしかして、他の誰かと?」


 しかし、だとしたら、問題がある――いったい、これ以上誰がいるのかということだ。


「どうするよ?一応、援護に行った方がいいんじゃねぇか?」

「………いや、いいよそれは」


 首を振る私に驚いたのは、ディアだった。


「仲間の方が居るのなら、合流した方が良いのでは?」

「それはもっともだが。………ディア、魔術師との付き合い方で重要なことを一つ教えよう」


 生真面目な表情で頷いたディアから視線を外し、私は廊下に開いた穴から外へと踏み出して、ため息混じりに告げる。


「………あいつらはね、とにかく、『死なない』ことに特化してる。一分一秒でも長生きして研究していたいんだ。だから」


 陽射しが眩しい。ここに雨とかはあるのか知らないが、恐らく、私たちが起こしている嵐は前代未聞だろう。

 肩越しに振り返り、ディアを、そしてその後ろに居るであろう魔術師を見通すように眺めつつ、私は吐き捨てるように続けた。


「心配しても、バカを見るぞ」






 馬鹿馬鹿しい、とチェシャは思い始めていた。

 この魔導書ワンダーランドにデザインされたチェシャは、キャッティアとしての【異能】は全く持っていない。

 と言うよりも、厳密に言えばチェシャはキャッティア。単に、魔導書が猫型の亜人として描いただけで、その本質はいわゆる使い魔に近い。


 もちろん、ただの使い魔ではけしてないし、単なる登場人物でもない。魔導書を護るため、幾つかの特権を与えられている。

 その内の一つ、【瞬き】を使って攻撃をかわす。


 いるかいないか定かでないチェシャは、その存在を任意に揺らがせることができる。いるのにいなくて、いないのにいる、不確かなあやふやさを操れるのだ。

 ときにはあらゆる物理現象から解き放たれ、ある種の無敵状態になれるのだ。単純な物理攻撃なら、傷一つつかない。


 ベルフェが操る巨大な拳を下半身にめり込ませつつ、滑るようにチェシャは間合いを詰める。キャッティアらしい運動能力は瞬く間に彼女の身体を魔術師の眼前に運んだ。

 手を伸ばせば届く距離。チェシャの間合いだ。


「シャッ!!」


 めり込んだ腕から飛び上がるようにして脱出、実体化。鋭い呼気とともに腕を振るう。指先を彩るネイルは、ナイフのようになって伸びていた。


 狙うは、首。


 爪先はベルフェの細い首に吸い込まれていく。肉の手触りを感じつつ、一気に振り抜いた。

 手応えあり、と思うのと同時。頭上から凄まじい圧力を感じ、チェシャはすかさず非実体化した。

 同時、叩きつけられた拳をすり抜けて、飛び退く。開いた間合いの向こう、魔術師がまだ立っていることを認め、チェシャは舌打ちして更に間合いをとった。


 パックリと口を開けた喉笛を押さえ、ベルフェが眉を寄せる。数回擦り、手を外したあとには、もう僅かな傷さえ残っていなかった。


「………何なの、お前」


 これで何度目の衝突だろうか。幾度となく切り裂いた魔術師は、未だに全くの無傷だ。


「魔術師ですよ。何度となく名乗ったと思いますがね」


 そううそぶくベルフェの衣服は、シワ一つ無いくらいにピカピカだ。再生能力が洋服にまで及んでいるのか、或いは片手間に直したのか。


 なんにせよ、不毛だ。


 ベルフェの攻撃を、チェシャは完璧に無効化出来る。どれだけ大きくとも殴るしか能の無い魔術師なんて恐れるに足らない。

 問題は、こちらの攻撃もまた無効化されている、ということだ。何度も何度も攻撃し、身体の凡そありとあらゆる部分を切り刻んでやったというのに、魔術師は一秒たりともその生命活動を停止させない。心臓を抉り出したのに、顔色一つ変えずに攻撃を続けてくるのだ。

 彼の背後にそびえる緑の影は、僅かにも揺らがない。それはとりもなおさず、ベルフェに一度も魔術行使を中断させられていないという事実を表していた。


「………もう、いい加減にしない?」

「おや」


 ダメージは無い。無いがしかし、その無いという事実に疲れてきた。


 あくまでも精神的なものでしかないが、確実に疲労している。消えたり現れたりは彼女の特性に過ぎず、使用制限も代償もないから物理的には一切消耗していないのだが、逆に、「ここまでやってお互いに無傷」ということそれだけで磨耗していた。

 もう割りとうんざりした。視線で訴えかけるチェシャに、ベルフェは小さく笑う。


「もう飽きたんですか?。魔術師同士なら、一週間戦い通しとかよくありますよ?」


 答えの代わりに、チェシャは大きくため息をつく。誰かがそうしていたからというのは、自分もそうする理由にはならない。そうしたい動機にも、彼女にとってはならない。


 完全にモチベーションを失いつつあるキャッティアの女性を見ながら、ベルフェはあくまで冷静に思考していた。


 彼女は気が付いていないようだが、決着はそう遠いことではない。もう少し集中が欠けてしまえば、チェシャは再び逃げ出すだろう。

 そうなったときが最後だ。彼の【緑の虚像グリーンジャイアント】をただ大きいだけの人形だと思っている彼女を、笑いながら見詰める。

 愚かなキャッティア。相手の武装を測り違えた者は、ただ死ぬだけだ。


 ベルフェは笑いながら、チェシャを仕留めるタイミングを計り始めていた――。

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