暗殺者クロナの依頼帳Ⅱ 魔術師の本

レライエ

目立つ依頼人

「………………………」


 ぼんやりと、彼女は窓の外を眺めていた。


 四角く切り取られた世界に映るのは、暗い空だ。月も星もない闇一色の世界、暗幕の夜空。代わり映えのしない世界だ。彼女が生まれて今まで、ここからそれ以外の景色を見たことはない。


 彼女にとっては、世界は夜だった。


 もちろん、知識としての世界は知っている。【太陽】が上る【朝】、それから【昼】を過ぎて【太陽】が沈み、【月】と【星】の【夜】が来る。やがて【夜】は明け、再び【朝】が来るのだ。それくらいのことを知らない彼女ではない。

 寧ろ、彼女はもっと知っていた。世界について、普通なら知らないことまで知っているのだ。


 それでも、それを価値があるとは思えない。読んで初めて書物に意味が生まれるように、ただ知っているだけの知識など埃を被る骨董品アーティファクトだ。

 人に知らせて、それを振るう。それでこそ知識の価値があるというものだろう。


 機会チャンスが欲しい。

 自らの知識を、無価値なものにしたくない。

 故に、彼女は願う。願いを、囁く。


「わたしを、ここからつれだして」


 その、ささやかにして切なる願い。しかし………どんな小さな願いでも、それを願う者によっては悲劇を生むのだ。






 静けさは酒の最良の友というのは、もちろん私の持論に過ぎない。誰かに押し付けるのは傲慢だと思うし、そのつもりもない。

 酒は楽しむものだ。己の好きな形で、好きに楽しめばいい。私はそう思うし、多くの人間もそれに賛同するだろう。

 しかし、何事にも例外はあるというものだ。世の中には、認められるべきでない自由というものもある。


「………………………」

「こんばんは」


 行きつけの店の、行きつけの席。

 言うなれば究極の個人空間に、そいつは平然と座っていた。

 見覚えのあるスーツを着たその男は、どこかで見たような胡散臭い笑みを浮かべると、優雅に一礼する。その手には、どこかの誰かが呑んでいたようなカクテルが、半分ほど残されている。


 何食わぬ顔で隣の席を示したその男の顔は、しかし見覚えが無い。見覚えは無いが、それでも、私は確信している。諸々の仕草や服装、そして何より、そのに覚えがあるのだ。


「お前の依頼は、受けないと言ったはずだけど?」

「今日は依頼ではありませんよ、単に意中の相手と夜を過ごしたいというだけです」

「それはそれで断りたいんだけど………」


 ため息をつきながら、私は仕方がなく示された席に座る。自分の【鞄】に何時でも手が届くようにさりげなく位置を調整する私に、男は苦笑した。


「そんなに警戒しないでくださいよ、クロナさん」


 よくもまぁいけしゃあしゃあと、と私、クロナは思った。この男を前に、警戒しないという選択肢は有り得ない。


 確かに、男の身体の線は細い。スーツのポケットに何かを隠しているかもしれないが、目立った武器もない。女性の私でも、殴りあえば恐らく勝てるだろう。

 しかしそれは、単純な殴りあいに男が参加するのなら、という前提に依る。


 虎に戦いを挑む兎は居ない。虎には虎の強みがあり、兎にもある。己を知る者は、出来ないことをしようとはしない。

 男には腕力は無くとも、それを補って余りある強みがあるのだ。


 なにせ男は、【魔術師】なのだ。


 力ある言葉と神秘ある道具を用い奇跡を起こす、人でありながら人を超えた存在。一言呟くだけで自分を殺せる相手を前に、リラックスするというのは些か難しい。


 私の言葉に、男は苦笑のような笑みを浮かべる。


「それを、貴女が言いますかね。クロナさんの職業も、負けず劣らず危険だと思いますが?」

「なら、お互い様だ。そっちも好きに警戒していいから放っておいてくれ」


 不貞腐れたように言うと、私はいつの間にか置かれていたグラスを手に取る。琥珀色の液体を喉に流し込むと、傍らから再び苦笑の気配がした。

 鬱陶しい男だ。


「しかし、まさかとは思ってましたけど。本当にわかるんですね、僕のこと」


 馬鹿にしているのかとも思ったが、男の声音に真剣な調子を感じ取り、私はちらりと視線を向けた。


 相変わらず、その顔に見覚えはない。


 面識がないのではない。少なくともこの匂いの持ち主とは以前に会っている。

 数週間前、私に依頼をしてきた男なのだ。詳細は省くが、至極面倒な依頼であったことだけは忘れない。絶対に、何があっても忘れることはない。


「………根にもってます?」

「別に。………何故わかるか、という話だが。単に【匂い】が同じというだけだよ」


 人間にはわかるまいが、と付け加えることを忘れない。


 言い忘れたが、私はいわゆる人、【人類ヒュム】ではない。

 頭の上には長い耳。赤い瞳に、上を向いた小さな鼻。まるで兎と人を混ぜ合わせたような特徴の【亜人】、ラヴィというのが私の種族である。

 そして自虐でも何でもなく、その特徴は兎と良く似ている。聴覚は勿論だが、実は嗅覚も優れているのだ。


「成る程、亜人ならではですか。いや、機密保持のためにわざわざ忘却の呪いを掛けていたので、効き目が無いのかと思ってました」

「掛けてたのか………」


 それはまぁ、ご苦労なことだ。

 そう言うと、男は軽く肩を竦めた。


「まぁ、割りと秘密主義なんですよ、僕の部署は。どこの誰かとか、顔とかを外部には漏らせません」

「それを私に言って良いのか?」

「やだなぁ、僕とクロナさんの仲じゃあないですか」


 そんな仲は無い。

 と言うか。


「お前、割りと鬱陶しい性格しているんだな………」


 前に話したときは、もっと勿体振った喋り方をしていたはずなんだが。世間の闇に生きている雰囲気を醸し出していたが、今のところその欠片も無くなっているのだが。


 私の指摘に、男は首を傾げた。


「そうですか?まぁ、あの時は少し演技してましたからね」


 その演技は是非とも続けてほしかった。ため息をつく私の前で、グラスが再び、音もなく満たされていた。




「それで?何の用なんだ?」


 私がそう声をあげたのは、更に2杯ほどグラスを空けたあとだった。我ながら、正直良く我慢したと思う。

 口を開きかけた男を、視線で制する。もしまたしても誤魔化すようなら、さっさと帰るつもりだった。

 視線に込めた思いに気が付いたのか、男はやれやれと肩を竦めた。


「半分くらいは、貴女と酒を飲みたかったというだけなんですけどねぇ」

「そっちは済んだだろう。残りを聞かせてもらおうか」

「………依頼では、ないんですよ、本当に。ただ、話を聞いてほしい人がいる、というだけで………」

「どうも、歯切れが悪いな。つまり、お前はメッセンジャーというわけか」


 まぁ、私の仕事柄、使いを寄越す人間は割りと多い。先の話ではないが、リラックス出来る職業ではない、というわけだろう。

 しかし、私は些か失望したような気分になっていた。何故だろう、この男はそんな有りがちな事をするとは思っていなかった自分がいる。私は軽く首を振り、その無駄な感傷を追い出した。


「悪いが、話は本人とする。そいつを呼ぶか、諦めるかだ」

「まぁ、そうなりますよね。しかし、それは少々難しいんですよ」

「………なら、話は終わりだな」

「それは困るんですよね………査定にも響きますし。ほら、話を聞いて断られるのと、聞かれもしないっていうのはちょっと印象が悪いじゃないですか?」


 知ったことではない。

 私はグラスに向き直った。無言の拒否を感じ取ったのだろう、男はため息をついて肩を落とす。


「………わかりましたよ、それでは、こうしませんか?案内しますので、ご足労願う、というのは?」

「………そんなに、ここには来たくないのか?」

「いや、恐らく来たがるとは思うんですけどね。それは困ると言いますか、お店にも迷惑がかかると言いますか」


 ………?

 いわゆる、やんごとないお方、というやつだろうか。………魔術師にとっての【やんごとないお方】というのがどういう立場なのか、正直良くわからないが。


「どうでしょう?手間賃として、ここは奢りますから」

「………まぁ、良いだろう」


 落としどころと言えばこの辺りだろう。魔術師が持ってくる依頼というのにも、興味がないわけではないし。………まぁどうせ面倒な依頼だろうが。

 私の返事に、男は素直にホッとしたようだった。


「それは良かった。………あ、さんは大丈夫ですか?」


 男が視線を私の傍らに向ける。そこにある【鞄】は、沈黙したままだ。………いや、良く耳を澄ますと、地の底から響くような低い唸り声が聞こえてくる。


「………………………」

「………寝て………?」

「………行こうか………」


 私はため息をつくと、立ち上がる。起きていて騒がしいのと、寝ていて役に立たないのではどちらがいいのか。悩ましいところである。




「………ん?」


 店の外に出ると、何やら道は騒がしくなっていた。夜も遅いというのに、結構な人だかりだ。


「なんだ?何かあったのか?」

「………まさか………」


 訝る私の横で、男が眉を寄せる。心当たりでもあるのか人混みに向かうその背を追い、私もそちらに歩み寄った。

 そして、息を呑んだ。

 ガヤガヤと騒ぐ人混みの中央には、とんでもないものが居たのだ。


 体長は、およそ15メートル。それも、猫のように丸くうずくまった状態でだ。ちょっとした家くらいの高さがあるそいつは、身体よりも大きな翼を布団か何かのように畳み、静かに横たわっていた。


 その全身は剣も矢も通さない鱗に包まれ、吐き出す息は毒か炎か。

 この世界において間違いなく最強の生物にして、全ての生物に対する捕食者。人にとってはもっとシンプルに、災害の一項とまで言われる存在。


 ドラゴン


 幻想種の頂点ハイエンドが、何故こんな街中に。

 隣でも、同じく息を呑む気配がした。魔術師といえど、それは仕方がないというものだ。一説によると、竜の鱗は魔法でさえ跳ね返すとか。それでは、彼らとしても打つ手がない。


 しかし。


 男が息を呑んだのは、それとは別の理由だった。事もあろうに、男はため息混じりに声をあげたのだ。


「………ファフニル様………」


 その単語に、竜はピクリ、と反応した。閉じられていた瞼が開き深紅の瞳が露になると、周囲の人々が慌てて離れていく。

 流れに逆らうように、男は平然と竜に近付いていく。仕方がなく、私もあとに続く。


「何故ここに、いらっしゃるんですか?」


 男の呼び掛けに竜が目を細める。その口が大きく開かれ、豪快な笑い声が響き渡った。笑顔のもとは威圧だったという話を、私は実感と共に思い出した。

 続いてそのクレバスのような口から飛び出したのは、驚愕することに共通言語コモンだった。


「おぉ、ベルフェ。待ちわびたぞ、このまま石になるかと思ったわい」


 ベルフェ、というのは男の名か。竜に対するその態度は、まるで上司に対するそれである。

 まさか、という思いが、私の中に生まれた。同時に、そうでないことを祈る思いも。

 期待を込めて、男に視線を向けた。男もちょうどこちらを見ていて、目が合う。その視線に疲れの色を感じ取り、私は最悪の予想が当たったことに気が付いた。


「………紹介しますよ、クロナさん。………こちらが、ファフニル様。………今回の、依頼人になります」


 私は天を仰いだ。そんな私を見て、その空の支配者は、またしても大きな声で笑った。

 やっぱり、面倒な依頼だ。

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