第19話最期を告げる風 一

 教室の窓が遮断しているはずだが、風が私の頬を撫でた気がした。それも北風のはずが、妙に温かい。

 ーーなんだか、胸騒ぎがする。

 私は授業に集中できず、服の上から左胸を掴んだ。同時に窓の奧、朱色が散らばった木々に目を向けた。

 秋ではなく別の何かを精一杯訴えているようで、全身を正面の黒板に向き直すことができない。

 普段は生徒わたしを大声で注意する担任の大山の声がセミの鳴き声よりも静かに聞こえる。同級生の何人かが密かに嘲笑っているようだけれど、ハエの羽ばたく音に過ぎない。

 四時間目の授業が終わると、現実の自分のように、ノートが真っ白だったことに気付いた。

 今日の給食はカレーライス。低学年に合わせた甘口のルーは苦手なので、普段であれば舌の拒絶反応が敏感になるはずだ。けれど今日のルーは甘口どころか水で溶き、ご飯にかけただけのようで、美味しそうに平らげる同級生のことが不思議だった。

 その後の昼休みから六時間目までの間も、ただ過ぎるだけで、私にとっては中身のない時間だった。

 下校時間になると、さすがに呑気にしてはいられない。私には夕食の支度と父の介護という重要な役目があるのだ。

 ランドセルを片手で背負い教室を出ると、駆け足で自宅に向かう。

 同級生は相変わらず、寄り道の計画を立てながら、ゆっくりと帰り支度をしている。

 小学校から遠ざかるほど、二度目の温かい風が私に触れる。台風でもないのに、今度は全身に強く感じ、私の帰宅を拒んでいるようだ。

 それでも私は足を踏みしめてその場に留まるという選択肢はなかった。

 私以外の同級生が何事もなように歩いているからだけではない。妙な風のせいで、何よりも父のことが心配だった。

 鼻で深呼吸し、最初の一歩に体重をかける。そして私は一歩ずつ前に進み始めた。

 そのとき、外に出るはずのない父によく似た声が、シャボン玉のように弾けた。


 もう、良いんだよ。


 私の心臓が、ドリブルされるバスケットボールのように激しくなった。

 体調が悪化し始めた父の顔が目に浮かぶ。

 まさかと思い、私は両脚にかける重力を保ち、風を切断するように自宅を目指した。

 やっとの思いで辿り着き「ただいま」と引き戸を開けたが、ゾッとするほどの違和感があった。

 うさぎの富美子はすでに昼間の介護を放棄しているので、当然愛用のクロックスが玄関にはない。珍しく、連日訪れていた吉田さんの革靴もない。

 父の「おかえり」が聞こえない。

 得体の知れない恐怖で眩暈がした。それでも私はランドセルを背負ったまま、さらに重くなった鉛のような両脚を引きずる。

 私はリビングの入り口にて、敷居のわずかな隙間に足が引っかかってしまった。

 転んでカーペットに全身が着くと、私の視界がより鮮明に染まった。

 ーー横たわる父の唇から洩れる血で。

 「お父さん、お父さん! どうしたの、ねえ! 起きてよ! お父さんってば!」

 私はランドセルをその辺に放り投げ、揺すって目を覚ませようと、四つん這いで父の元に駆け寄った。

 父の肩を掴んだ瞬間、私の腕に冷気が走った。体が硬く関節が曲がりにくくなっている。

 父は、息をしていなかった。

 その意味を、小学六年生の私はすでに知っている。「死んだ」のだ。

 父は日を重ね食欲が落ち、やせ細り、笑顔の陰が深くなっていた。それでも私は想像していなかった。吉田さんが医者に診てもらうと言っていたから。お金ではなく、父の人徳にかけて全力で治療してくれると思っていたから。

 けれどこの現実が、私の希望と何か別のものを壊し、その音が頭の中で強く響く。

 「なんでこんなことになっているの? お父さん、何か言ってよ!」

 『ああ、また、まことに怒られちゃったなあ』

 幻でも良いから、父の返事が聞きたかった。

 何度も父の体を揺すり叫んでも、父は決して答えてくれなかった。

 代わりに聞こえたのは、力に任せて引き戸を開ける音だった。

 「まことさん! 何があったのですか、まことさん!」

 男性の激しい声で、父の肩を掴む腕が硬直した。ゆっくりとリビングの入り口を見上げると、そこには吉田さんが息を切らして立っていた。

 「……失礼、あなたの叫び声が聞こえたので、無断で上がってしまったが……なぜこんなことに」

 吉田さんはふらふらとおぼつかない足取りでリビングに入り、私の隣で両脚ががくんと崩れた。

 父と親しい人だと分かっているのに、距離が近いというだけで私はさらに全身が頑なになってしまった。理由など知らない。

 「と、とに……かく、救急車、を……」

 蚊が鳴くように声を絞ることで精一杯だった。

 吉田さんは私にとっては答え、黒縁のメガネがずれた顔を何度も縦に降った。

 「ああ、そうです、ね。お電話、お借りしても良いですか……?」

 顔だけだはなく、全身が爆発音で響いていたので、私はすでに重い頭で頷き、吉田さんに通報を頼んだ。

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