第17話新たな出会い 二

 「……それで、どうだい? 私の『お願い』は上手くいきそうかい?」

 まことの知らない渋い声が、静かに沈む。

 「ええ、あの子は正式にあなたの養女、いや、娘になりましたよ。これからは父子家庭になります。しかし良いのですか? 失礼ですがの夫妻は相変わらず頼りにならないでしょうし、彼女にこれ以上の負担をかけてしまいますよ? ただでさえ……」

 涼子と変わらない年代の男は、黒縁のメガネの奧で、視線が安定していない。向き合っている年上の男を恐れているのではない。現在この場にいない少女のことを憂いているのだ。

 「分かっている。しかしそう長くはない。どのみちあの子を傷付けてしまうのが悔しいけれどね」

 影の濃い顔で俯く男は、誕生から五十年以上、両腕のない姿で生きてきた。

 彼は持ち前の人徳と、親から受け継いだ財力で、弁護士を志すかつての青年を導いた。

 田川秀丸は、吉田清仁の恩人ということになる。

 そして今、二人は依頼人と弁護士という関係になっている。数日前の一本の電話によって。

 「普通は私が君の事務所に行くべきなのだけれど、この体では叶わなくてね。君が家に来てくれて、本当に助かったよ」

 「礼には及びません。僕もこの方が良いと思っていましたから。とにかく目立たないためには、あなたが家を空けることをなんとしても防ぐべきだと思います。まことさんはまだ小学六年生、義務教育中ですし」

 最初の訪問より、清仁は毎日田川家に通っている。時間帯は決まっていて、まことが小学校へ登校で不在になる平日。その間に秀丸の「お願い」の報告の他に、食事や排泄などの介助も自発的に行っている。

 まことが帰宅すると、清仁は事務所に戻り夜遅くまで働く。黒縁のメガネをかけていなければ、目の下のクマが目立ち、実年齢よりも一層老けて見えただろう。

 その甲斐あって、今では秀丸の従兄である田川英男だけではなく、その妻の富美子ですらこの家に出入りができなくなった。

 二人は清仁の優れた頭脳と、今後の展開を恐れているのだ。

 秀丸の介護が不可能な富美子と英男は、現在、自宅の庭の草むしりに精を出している。

 「じゃあ、はどこまで進んでいる?」

 「ご心配なく。証拠を掴みましたよ」

 清仁は、鞄からジッパー付きの透明な袋を取り出した。いつ、どこでだったか、まことが下校途中に見とれた花と同じものだった。

 秀丸は己の体調変化の原因を目の当たりにしても、他人事のように冷静に頷く。

 「なるほど、確かにそれには強心剤となる成分が入っている。名前は……何とかトキシンだったはずだが」

 「コンバラトキシンですよ、秀丸おじさん。昔、僕に教えてくださったではありませんか」

 「そうだったな。それにしても年は取るものじゃないね。まことにも勉強を教えたくて、脳が退化しないよう戒めているのだが、どうにも自信がないんだ。しかもあの子、側にいると私の世話で忙しくさせてしまうし、率先して勉強する気もないし。けれどこの間狸寝入りして気付いてね、あの子、夜中に何をしていたと思う? 真っ暗な部屋で懐中電灯を持って、宿題だよ、宿題!」

 「それはなんと健気な……まことさんはあなたを慕っているからこそ、心配なのでしょう。特に今のあなたは酷く体が弱っていらっしゃるから、なおさらのこと。彼女のためにも、近々知人の医師を連れて来ましょう。もちろん、先方は事情を納得していますから、どうかご安心を」

 「そうだね、私のせいで無理をさせたくないが、なるべく早いと良いな」

 秀丸はまことの名前を出すなり、義務教育中だからこその心配で落ち込んだり、本人なりに精一杯隠し通す姿に感動したりと、口調の起伏が激しい。

 前後左右に揺れる二本の袖だけを見ると、秀丸は心身ともに健康だと思われる。

 その反面、この瞬間を含め、彼は徐々に内部が侵されている。

 清仁はこの先訪れる展開を恐れ、娘の自慢話に付き合っている場合ではない。

 この男は己の危機を理解しているのかと、大声で聞きたいというのが、清仁本音だ。

 清仁の両親は健在だが、秀丸のことを実父以上に敬愛している。

 だからこそ、弁護士としてだけではなく、失いたくないのだ。

 この、一つ一つが控えめで純白なもののせいで。

 「あ、でね、この先のことなんだけど……清仁、聞いている? おーい?」

 秀丸は清仁の感傷などお構いなしに、上半身を揺らして陽気に振る舞った。

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