第11話父娘になった日 四

 淹れたてのお茶の香りが部屋中に広がり、父と私を包み込んでいる。

 湯呑みの縁に唇を当てると、湯気が鼻に触れ鼻腔に入ってくる。

 ゆっくりと喉を鳴らすと、お茶の温かさが体内にじわりと広がった。

 けれど私たちが吸っているこの空気は帰宅したときと変わらず、冷たく重いままだった。

 「……お父さん、嬉しくてね」

 いつの間にか父の唇は両端が上がっていた。それでもたとえ両腕があったとして箸すら持てないのではないかと思うほど弱々しかった。目には皺が少し増え老いを感じたものの、温かい眼差しは初対面のときと変わらなかった。

 「何が?」

 「初めて涼子さんに会ったときだよ」

 父はストローでお茶を飲んでは、ポツリポツリと呟き始めた。

 うさぎの富美子が、自分の家庭と義従弟の介護の両立に限界があるという理由で見合いを勧めたこと。紹介されたあの女が両腕のない父に嫌悪せず、微笑んでくれたこと。何度か隣の市まで食事に行き、箸やスプーンで料理を口に運んでくれたこと。そしてあの女と、父親のいない私と三人で、長年諦めていた家庭を築きたいと望んだこと。

 父の語りが終わるころ、熱かったはずの私の湯呑みから湯気が消えていた。

 最初の一口から一時間ほど経っていたせいか、あらかじめ冷ましていた父のお茶は、まるで氷の器に入っているようだった。

 「……それなのに、結局まことちゃんに辛い思いをさせてしまった」

 中身のない袖がさらにだらしなく垂れ下がり、父の目が潤む。

 あるはずのない手が、ぽた、ぽた、と涙の落ちるリズムに合わせ私の頭を撫でているようで、父の濡れた膝は生温かそうだった。

 「まことちゃんはまだまだお母さんが恋しい年ごろで、本当はお友だちと遊びに出かけたいだろうに……お父さんの我が儘で面倒をかけて、申し訳ない」

 父の膝の上で染みがより大きく広がり、流れ落ちるような大粒の滝が私の心の中に入り込む。

 一生分の涙ではないだろうか。顔を真っ赤にして泣き崩れる姿に、私も目頭が熱くなる。

 これが、親ーー自分よりも子どものことを想う。

 この人が! 血の繋がりが欲しい! お父さんの本当の娘になりたい!

 感情のまま頭を振り乱し、私の涙が周りに飛び散る。それを見て父がより激しく泣き出し、二人の声が部屋の中で弾ける。

 「お父……さん!」

 「まこと、ちゃん……まこと!」

 私は引き寄せられるように額を乗せ、父は両腕がない肩で受け止め頬を重ねる。


 田川秀丸と田川まこと。

 二人が父娘おやこになった瞬間だった。



 そしてこの日を最後に、父は泣き顔を一切見せなかった。

 

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