第9話父娘になった日 二

 「……あ、れ?」

 リビングで父の姿を見た途端、私の危機感は裏切られた。

 大声で私を呼んでいたはずなのに、何事もなかったかのようにテーブル側に座っていたのだ。私はリビングの入り口に立ったまま、そっと父の顔を覗いた。

 「まことちゃん、おかえり」

 再び聞こえたのは、知らぬ間に慣れてしまった穏やかな声だった。それが逆に不審だと思った。

 父の目元に陰りがあるものの、他に異常がなかった。少なくとも外観では。

 それでも完全に安堵できない私に、父は言った。

 「さっき、富美子さんに怒鳴られていただろう? 顔にこんな擦り傷までできて、痛いだろうに! 怖い思いさせてしまって、ごめんね……」

 まるで大人に叱られた子どものように、父は両肩をガックリと落としていた。

 両腕がなくても肩は動くのか。不躾ながら感心したけれど、それはさすがに声に出せなかった。

 その一方で、父は大声で私を助けようとしたのだと気付いた。どうやら父は大袈裟に捉えているようだ。

 確かにうさぎの富美子は私に好意的ではないけれど、苛めではなく家事や介護を押し付けているだけだ。私の顔に傷を付けることもない。それよりもーー。


 父の方が明らかにないがしろにされているではないか!

 周囲の人間に毅然きぜんとした態度を取らないから。もっと自分のことを考えて!


 私は苛立ちを隠さず、急速に父に詰め寄った。心に湧き上がるままぶつけたかった。

 けれど、言葉一つ出せなかった。

 これまで私のことを気にかけてくれる存在がなかったせいだろうか。

 私をまっすぐ見据える父の眼差し、初めて感じ取った「温かさ」への受け答え方がまったく分からなかった。

 父は戸惑う私をさらに憂いた。一度唇をキュッと結び、そっと開く。

 「……それに……」

 涙を堪えているようだけれど、父の目は濡れていた。蚊が鳴くような声で、あの女の名前が出てくると、目が睫毛で隠れてしまった。

 父を悲しませているのは、うさぎの富美子の大声だけではなかった。

 つられて伏せた瞼の裏に、同級生の姿が浮かぶーー。

 

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