第3話出会い 二

 電車、バス、電車。約三時間の移動で、私は公共機関の乗り換えに疲労を感じていた。

 乗り物酔いともいう。

 密封された空間の中で女の隣に座らせられ、いかにも人工物といった香水や化粧品の臭いから逃れられなかったのだ。髪型が崩れるとかで、座席の窓を開けるのも許されなかった。

 だから乗り換える直前、電車やバスを降りた直後、その度私は深呼吸した。

 求めるまま外の空気を吸い込み、口の中で酸味が薄くなったのを感じたところで、私は周りの景色を見渡した。

 稲穂が無数の黄金の彗星のように広がる田んぼ。線を引いたように土が盛り上がった畑。

 ぽつんと建つ小さな建物には中が見える引き戸と薄れた字の看板が掲げられている。

 かろうじて「商店」と読めたので、何かのお店なのかもしれない。

 振り返ると、あとは先ほど降りたバスの停留所と無人の精米機があるだけ。初めて見るそれがどんな機械なのかは分からないけれど、「米」という字が書いてあるのだから、米に何か手間をかけるのだろう。

 そう思い、私は女のあとを追った。

 前を進むにつれ、紺の瓦や白の壁でできた家が一つずつ見えてきた。中には木の壁のものもあった。

 そのうち大人が何人か現れた。まだ外が明るかったので、ほとんどが女だったけれど身に着けているのはゴムで袖口を縛った割烹着か、ゆったりとした上下のスウェットのどちらかであった。その中に三十代と思われる人もいたけれど、本当の年齢は分からない。

 とにかく、涼子りょうこという女とは似ても似つかない。人種が違うと言った方が正しいのかもしれない。

 肌の色ではない。根本的な価値観という意味で。

 見ず知らずの住人を見つけて決めつけるのは良くないとは思いつつ、私は目の前の背中をチラリと見た。

 この女はまず締りのない服装はしない。雪が降らない限り、一年中胸元や脚などの素肌を晒している。

 そんな女がこの田舎町での生活が一ヶ月も続くなど、夢の話だ。

 だって、どうせ前と同じような世界なのだからーー。

 私は縦長のガラス板二枚をじっと見る。今日から寝起きする箱の入り口、引き戸だ。

 引き戸の横では大きさを揃えたガラス板の窓が五枚も連なり、細い木々囲まれたこの箱は、私が今まで見てきた中で一番大きい。

 二、三階建ての賃貸住宅ーーこれまで転々と移ってきた箱ーーなどと比べるまでもない。

 後にこれが「平屋」と呼ばれるものだと知るけれど、引き戸を含め六枚のガラス板を前に、このときの私には箱の高さや屋根の形など視野に入っていなかった。

 私の顎が外れている間に、女は細々とした突起物で飾った爪を傷付けないよう、人差し指の腹で呼び鈴のボタンを押した。

 呼び鈴の上には「田川」と書かれた表札がかかっている。

 するとガラス板に隔たれた奥から、はぁい、という声が聞こえた。返事をしたのは女のようだけれど、喫煙者特有のしゃがれた声でも、故意に舌足らずで甘えたものでもなかった。

 「私、涼子よ」

 女が声を弾ませ一歩下がると、ガラス板の隔たりが消えた。ガララッと音を立てて勢い良く横に引かれたからだ。

 現れたのは四十代後半に見える女で、上半身は縮れた短い黒髪に、うさぎのアップリケを左胸に付けた割烹着姿だった。

 下半身はジッパーで裾を縛るジャージとクロックスという、青色と黄色の組み合わせ。

 見たこともないセンスの持ち主がなぜ、イラッシャイ、マッテイタワヨ、などと言っているのかが分からなかった。今までのどの箱の住人たちは男一人だったから。

 「あ、これ、まこと」

 けれど女が私を指差したとき、その謎の一部が解けた気がした。

 私が軽くお辞儀をして頭を上げると、向けられた視線は白々しく、眼球の中は空洞になっているのかと思った。その冷たい雰囲気は、左胸を飾るうさぎのアップリケではとても誤魔化せてはいなかった。

 この人には、自分のことしか頭にない女と似た何かがある! 私は咄嗟に感じた。

 「まことちゃん、あたしは田川たがわ富美子ふみこ。あんたの親戚になるのよ。さあ、上がって」

 うさぎの富美子ーー私はそう呼ぶことにしたーーは引き戸を閉めずクロックスを脱ぎ、スタスタと箱の奥に進んだ。

 親戚って、どういうこと? 私の疑問に背を向けられてしまった。

 一方、私の一歩手前に立っていた女は当然のように玄関に入り、ハイヒールを脱いだ。

 仕方がないので、私は二人の女の背を追った。

 赤みのない木製の床に敷かれた花柄のマットを踏み、同じく赤みのない木製の枠とガラス板でできた障子を横切る。

 飾り気のない廊下は散らかってはいないけれど、綺麗とも言えなかった。きっと掃除は乾拭きで埃を取り除くだけなのだろう。床に艶がなかった。

 廊下だけではなく、箱の主までも泣いているように思える。主の顔などまだ見ていないというのに、不思議だ。

 自らと名乗ったうさぎの富美子は、おそらくこの箱の主ではない。その親戚が脇を締めず大股で廊下を渡るのなんて。それを主はどう感じているのだろうか。

 私はいぶかしげに、廊下の奥、部屋の入り口を覗いた。

 その入り口の上部には短めの暖簾のれんがかかってあり、その下端が女の頭部に触れた。

 私も前に進んだけれど、暖簾の下端は宙を舞い、女が通った余韻を残すだけだった。私の頭部が届かなかったからだ。

 ま、背なんてそのうち伸びるだろう、と特に気にすることなく、部屋の奥にある影を見た。

 ーーいや、人影だった。

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