トパーズが分ける明暗(1)

 この日、ディアナは朝から忙しなく動いていた。

 いつもより気持ち念入りに部屋を清掃し、いつもより心持ち迅速に家事全般をこなす。

 彼女が体の向きをくるくると変えるたび、白いワンピースのスカートは右に左に翻ってばかり。

 気がつけば昼が過ぎ、気がつけば夕方になってしまっていた。

 なぜ、彼女はこれほどまでに家の中を右往左往しているのか。

「ただいま」

「あ、おかえりなさいませ」

 その理由がやって来た。

「お邪魔いたします」

 仕事から帰宅したジークの隣。そこには、彼の仕事仲間であり、友人であるマキシムの姿があった。

「はじめまして、マキシム・ダリスと申します。お目にかかれて光栄です」

 深々とお辞儀をしたマキシムは、ディアナに向かい、恭しく挨拶をした。藍色の癖毛がふわりと揺れる。

 勤務中ではないからなのか。彼は、トレードマークとも言える眼鏡を外していた。ペリドットの大きな瞳を隔てる物がなくなり、ますます若く(幼く)見える。

「はじめまして。ようこそお越しくださいました。どうぞ、こちらへ」

 初対面の彼に、ディアナも同じように挨拶を返す。そうして、客間へと案内した。

 絨毯から家具に至るまで、すべてアンティークで統一された、非常に趣のある部屋だ。使用している色は赤系統のものが多いけれど、けっしてけばけばしくはない。

 ジーク曰く、この部屋をコーディネートしたのは、亡くなった彼の母親とのこと。

「申し訳ありません。急に押しかけてしまって」

「いいえ、とんでもありません。以前より、お話は主人から伺っておりました。わたしのほうこそ、ようやくお会いすることができて、とても嬉しいです」

 純真無垢なナチュラルスマイル。

 話し言葉や口調はしっかりしているため大人びて聞こえるが、その表情はやはりまだあどけない。十代の少女そのものだ。それが彼女の魅力でもあるのだが。

 本日マキシムが来訪することが決まったのは、先日ジークと電話でやり取りをした際。

 かねてより、「マキシムを家に招き、一緒に食事でも」という話が夫婦の間に浮上していたのだが、男性二人の仕事の都合で、なかなか実現できずにいた。

 多忙を極める二人が、調整に調整を重ね、やっとのことで今日に決定したらしい。

「これ、ほんの気持ちですが」

 そう言って、マキシムはディアナにあるものを差し出した。

 思いもよらぬ出来事に、ディアナは目をしぱしぱさせながら、差し出された高級そうな紙袋とマキシムの顔を交互に見つめる。

「え、と……これは……?」

「気を遣わなくていいと言ったんだがな。お前に土産だそうだ」

「えっ!! わ、わたしにですかっ!?」

「焼き菓子がお好きだと、将軍からお聞きしたもので」

 確かにディアナは、マフィンやタルトといった焼き菓子に目がない。頻繁に自分で作っては、夫にも振る舞っている。

 とはいえ、甘いものが得意ではない夫はそれほど口をつけないので、ほとんどディアナが一人で食することになるのだ。

 困ったようにジークの顔を見上げれば、「今回は甘えておけ」と、無言で促された。

 ジークのこの意思を察したマキシムは、「どうぞ」と再度ディアナに紙袋を差し出す。同じく夫の意思を察したディアナは、マキシムにペコリと頭を下げると、遠慮がちにそれを受け取った。

 この一連のやり取りだけで、マキシムはディアナの人となりを、つぶさに悟ることができた。


 三人は、ディアナが淹れたハーブティーを飲みながら、他愛のない世間話やジークとマキシムの思い出話に興じた。

 ジークは、ディアナに対し、マキシムのことを『長年の友人』とだけ伝え、彼の仕事内容に関しては一切明かさなかった。

 というのも、マキシムが行っている研究は、将軍クラス以上の者しか知り得ない超極秘事項。ゆえに、いくら妻といえど、守秘義務に阻まれ口外することができないのだ。

「あ、もうこんな時間」

 ふと時計を確認したディアナが呟いた。

 時が経つのも忘れ、ついつい話し込んでしまった三人。すでに窓の外は暗く、夜の帳に包まれていた。

 静かに立ち上がると、ディアナは窓のほうへと向かい、カーテンを閉めた。昼間は汗ばむくらいの陽気だったが、日が沈むと、やはりどこか肌寒い。

「わたしは夕飯の支度をしてまいりますので、お二人はどうぞごゆっくりなさっていてください」

 マキシムとともに食卓を囲むこと——ある意味、これが本日のメインイベントだ。

 心なしか張り切った面持ちで男性二人にこう言い残すと、幼妻は足取り軽やかにこの場を離れた。

「……お聞きしていたとおり、素敵な方ですね」

 部屋のドアがパタンと閉まるやいなや、おもむろにマキシムが口を開いた。持っていたティーカップをソーサーにチンッと乗せる。

「私は嘘は言わないし、誇張もしない。とくにお前には」

 これに対し、足を組み替えながらジーク。「そんなことをしても無駄だからな」と、溜息交じりに皮肉を言ってみせた。この男に言葉の駆け引きが通用しないことなど、自分が一番よく知っている。

 この男が今、自分にとって、あまりよろしくない内容物モノを腹に飼っているということも。

「あなたがご結婚されたとお聞きしたときは、本当に驚きました」

「どこかで聞いたような台詞だな」

「ついに『鬼神』も身を固めたか、と」

「……その呼び名をうちで出さないでくれ」

 この男はまったく清々しいほどに期待を裏切らない。

 見ようとせずとも見えてしまう。それはそれは愉しそうに、にっこりと笑う旧友の顔が。

 ジークは左手で自身の顔を覆うと、本日二度目の溜息を吐いた。

 ——この国には、二人の鬼神がいる。

 軍の内部では、業種を問わず有名なエピソード。しかも、その異名は他国にまで轟いている。

 白銀しろがねの鬼神——戦場でのジークの二つ名だ。

 銀色の長髪が疾風はやてに舞い、金色の眼光は見合った者の心臓を射貫く。土を蹴り上げ大剣で敵を薙ぎ払う姿は、まさにいくさの神。

 彼が通ったあとは、草はおろか塵一つたりとも残っていないと謳われるほどだ。

 現在は、小競り合いすら発生していない状況なので、鬼神が降臨することはない。けれど、この異名は、今もなお健在だ。

 ちなみに、もう一人の鬼神は、恐妻家イーサン・オランドである。

「ですが、お相手が彼女だと知って安心しましたよ。……あなたには幸せになっていただきたい。この国のためにも」

 先ほどまでとは打って変わり、淡い表情でマキシムが言う。期待と希望の色に染まった声。国を憂い、友を信頼する者の、濁りなき眼。

 出会った頃は、まさかこんなにも馬が合うとは思ってもみなかった。正直、竜人に対して、良い感情など抱いてはいなかったから。

「……もう六年か。お前が今の研究所に移ってから」

「ええ」

「早いな」

「充実していますからね、とても。……檻に入っていた二年間は、堪らなく鈍重でしたよ」

 枷をはめられていた当時の自分を想起する。

 息が詰まりそうなほど暗鬱な空間。身を突き刺すような冷たい空気と、ゴミでも見るかのような竜人看守の侮蔑の眼差しは、生涯忘れることなどできはしない。

 必ずや復讐を——

 二年も不味い飯をんでいれば、そんな愚かしい思考に支配された時期もある。あのときは、確実に自分を見失っていた。

「我ながら、反吐が出そうですけどね」

「……」

 自嘲気味に語るマキシム。そんな彼を、ジークは無言のまま、険しい表情で見つめていた。

 愚かしい——果たしてそう言い切れるだろうか。

 突如降りかかった冤罪で、何もかもを失くしてしまっても。種族と身分の垣根に邪魔され、為す術なく抗うことすらできなかったとしても。

 一片の迷いもなく、復讐することが愚かしいと、そう、言い切れるだろうか。

「……あなたが考えていることを言い当てるつもりはありませんが」

 押し黙り、悶々と思案に呑まれているジークに、マキシムがビシッと前置きする。 

 口調は厳しかったが、大きな二つの橄欖石かんらんせきは、実に穏やかだった。

「私が闇に堕ちなかったのは、あなたのおかげです。……あなたのおかげで、私はこうして働けている。結構気に入ってるんです、今の職場」

 年長者であるマキシムには、年下の彼が悩んでいることくらい手に取るようにわかる。

 心優しい彼が、何に対し、その赤心せきしんを痛めているのかということくらい。

「ですから、あなたが責任を感じることなんか何一つないんです。……あなたは『あなた』だ。私を陥れた人物とは違う」

 ジークが思い煩っている理由。それは、自身が竜人だから。自身と同じ竜人が、マキシムの胸奥に、一生消えることのない傷を作ったから。

 このことが、ずっとジークの心中に影を落としているのだ。

「お前を陥れた人物は——」

「リヴド伯爵でしょう?」

「……やはり気づいていたんだな」

「私の後任に、彼の馬鹿息子が就いたと聞いた時点で、だいたいの察しはつきました」

 マキシムを陥れた人物は、他の誰でもない、ハンス・リヴドだとジークは睨んでいる。それはマキシム自身も同じだったようで、ジークより先にその名を口にした。たいそう忌々しそうに。

 おっとりとした外見に似合わず、なかなかに毒舌なマキシムは、伯爵の息子を馬鹿呼ばわりすると、間髪容れずに「そもそもあの一族が気に入らない」と付け加えた。

 リヴド伯爵の息子は、マキシム同様、電子工学の研究者だ。とはいえ、マキシムに比べると、お世辞にも優秀とは言えず、博士号を取得してからもしばらくは日の目を見られずにいた。

 それと同時期に、マキシムの周りを漂い始めた嫌な臭い。

 彼は、国家の安全を脅かしかねない良からぬ研究をしている、と吹聴された。

 それから投獄されるまでは、あっという間だった。

 ジークに助けられ、軍に所属するようになってからも、幾度となくその不快な名前を耳にした。黒い噂とともに。

「推測にしかすぎんが、反政府組織に資金を流している中に、おそらく伯爵も含まれている」

「ほぼ間違いないでしょうね。というよりむしろ……」

「……首謀、だろうな」

 これまでは、彼らの想像の域を脱しなかった事柄。しかし、互いに言葉に出し、確認し合ったことで、たった今確信へと変わってしまった。まったくもって苦々しい。

 フレイム家も、代々あの一族とは相容れなかった。

 ジークの父であるゼクスとリヴド伯爵は同世代だ。ゼクスが生きていれば、歳も同じ。

 生前、父がよく言っていた。「彼の思想は危険極まりない」と。そのときは、あまりピンとこなかったが、今ならわかる。

 竜人至上主義——これが、彼の思想そのものなのだ。

「ディアナ様のこと、どうかお心付けを」

 いくら反皇帝派といえど、侯爵であり将軍であるジークに直接手を出すとは到底思えない。

 とするならば、矛先は彼の周囲を取り巻く人々。それも、一番身近な人物。

 考えたくもないが、この可能性は否めない。

「……ああ。わかってる」

 目を伏せ、友人の言葉にジークは頷いた。顔に憂色を滲ませ、愛する妻の身を案じる。

 けれども、今ジークが抱いている想いは、それだけではない。そのことにマキシムは気づいていた。

 彼の中に数ヶ月前より存在する罪悪感と、そのワケを。

 荒涼とした沈黙が訪れる。

「お食事の用意が整いました。こちらにお持ちいたしましょうか?」

 その直後、コンコンとドアをノックする音が聞こえたと同時に、ディアナが入ってきた。できた夕飯をどの部屋で食べるか、夫に伺いを立てる。

「いや、そちらへ行く。ありがとう」

 それに対し、夫が選んだのは、ダイニングだった。

 彼女のおかげで、一瞬にして破られた黒闇。表には出さなかったが、男性二人は内心ほっと胸を撫でおろした。ゆっくりとソファから腰を上げる。

 直前までの重苦しい空気を払い除け、新妻の手料理に舌鼓を打つべく、彼らは揃って部屋をあとにした。

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