第3話 恋をすると嘘つきになる

「 電車から降り立って、イズミはコートの前を合わせて肩をすくめた。

 雪が舞っている。冷たいけれど、温かい故郷の景色。グレーの空と身を切るような空気。東京には無い。切なさと懐かしさで頬が緩む。

 高校を卒業し、東京の大学に行く為に故郷を離れてから8ヶ月ぶりの帰郷だった。

 8ヶ月…故郷は何も変わらない。変わったのは自分の方の筈だ。…それなのに、心が乱れている。

 イズミはもう一度肩をすくめた。

 高校時代。それなりに楽しんだ。クラブや、クラスや、友達。中学時代には無い自主性を持っての活動は、ワクワクした。三年間はあっという間だったと思う。

 長く感じたのは、最初の一年。もしかしたら…と思って待つ日々。

 そう。イズミは、もしかしたら、ヒカルが同じ高校に入学して来るかもしれないと微かに期待していた。1年後、ヒカルが地元の高校に入学したと知って、一人静かに絶望した。

 クラブも違うので、練習試合で会うことも無い。

 部屋の前の屋根に寝転び星空を眺め、忘れよう…そう何度も決心する。

 けれども翌日自然と目が探してしまう。心が求めてしまう。

 誰が、この思いを抑える方法を見出しているだろう?誰にも出来ない。恋しい思いを消し去るなんて事は。誤魔化すなんて事は。

 だから、高校生活を楽しんだ。積極的に。

 進学は、迷わず遠方を選んだ。東京に出ればきっと忘れられる。楽しいことが待っている。ただそれだけの理由だった。

 そして、東京での生活は確かに楽しかった。忘れて恋をした筈だった。

 だけど…先月東京に遊びに来た地元の友人に、故郷の近況の一つとしてヒカルがバイトをしている話を聞いた。

 それだけで、それまでの生活が崩れ落ちる位動揺した。高校三年生のヒカル。進路が決まり、バイトを始めたヒカル。

 イズミがいない日常を、何の疑問も持たずに送っているヒカル…

 まだ、忘れていないの?まだ、心をかき乱されるの?会いたいの?私は…胸の内側が掻き乱されていることを悟られないように、何気ない顔をして聞き流している顔をして、心に刻みつけた。

 夏にはしなかった帰郷を決め、そして今日、故郷の地に降り立った。

「夏に新らしいカフェが出来てね?この前鈴華と行ったら、ほら、一個下のヒカルくん?彼が働いていたのよ。カフェの制服が似合っていて、可愛かったよ〜」

 そう、イズミの恋心を知らない友人は笑った。他の皆も

「ヘェ〜可愛かったもんねぇ。あの子」

 と笑っていた。イズミも笑った。何も言えなかったから、ただ笑っていた。不自然だと気づかれていないかな…それは分からなかった。


 白い、ウッドデッキに上がり、やはり白いドアを、からん…という音を立てて押し開ける。

「いらっしゃいませ」

 という声に迎えられたが、それはヒカルのものでは無かった。

 窓際の席に案内される。大きな窓で清潔で気持ちが良い店だと思った。

 カフェラテを頼み、店内を見渡す。

 フロアにいるスタッフは女の子が二人。キッチンの中に数人。

 泣きたくなるような緊張感を胸に抱え、グラスの水滴を指でなぞる。

 からん…と音がして、また人が入ってきた。その人は、席には案内されず、スタッフルームに消えていった。

 そして…

「おまたせしました」

 スタッフの女の子たちの声を背中に受けながらそれをあしらい、イズミにカップを差し出した人の顔を確信を持って見上げ、胸がぎゅっと締め付けられる。

「あ。やっぱりイズミ先輩」

 ただ、それだけなのに、今のこの瞬間をまた私は思い出し、何度も何度も思い出し、苦しむのだろうな…と泣きたい気持ちを抑えながら、

「あれ…ヒカルくん?」

 そう言って、笑顔で驚いてみせる。

 そうだった…ヒカルの前では私はいつも嘘つきだった…そうイズミは思い出した。

 なんでもないフリをいつもしている。心の内は絶対に見せない。

 それは、恋心を押し隠し通した小学生時代の癖なのだ。

「バイトしてるの?高3だっけ?」

(知っている、知っている。君の事は君よりも知っている。だけど私は今日も嘘をつく)

 そして笑顔でそう聞いた。

「そう。夏からね。俺地元で就職するからさ。イズミ先輩は東京の大学でしょ?いつ帰ってきたの?」

「さっきよ。新しいカフェが出来ているから寄ってみたの。可愛いお店ね」

 就職するんだ…そう思いながら、聞き流すフリをする。

「おかえり」

 ヒカルは優しい声でそう言った。

 こんなに心が掻き乱されているのに、少しも漏れ出していないのだろうか…ヒカルは全く気がついていないのだろうか…

 ホッとするようで、寂しくもある…そしてやはり泣きたくなる。そんな思いを全部抑えてイズミは笑う。嘘をつく。ほんのわずかなヒカルとの繋がりを失わない為に。」


 叔母さんの小説の中で、私が一番好きな章だ。

 帰郷中のイズミは毎日、僅かな時間、僅かな会話をする為にカフェに通う。それ以上何もしない。にっこり笑って嘘をつくイズミの切なさと、もどかしさに、何度読んでも胸が痛んだ。

 一番繊細な章だと思っている。

 そんな小説を書き上げた叔母さんに会えるのは、光栄だと思っている。うん、思っていた。

 だけど…

「へぇ。あの男に娘が居るんだ。笑う」

 目を細めて汚い物でも見るような目で私をチラと見たきり、視線を窓の外に向け完全無視を決めこんだこの女性が、私の叔母らしい。

 病人らしいから当然かもしれないけど、青白い。対照的に髪は黒々としているが艶はない。病んでいる。…入院しているんだから当然か。何の病気だろう。

「あの、叔母さん?私はあの、今は雑誌のコラムを書いているけど、小説家を目指していて…」

 無反応。

「子供の頃叔母さんの小説を読んで、すごく好きで…」

 すごくは言い過ぎ?いやでも結構本気。

 うわ、何この空気。未だ嘗て味わったことのない冷えた空気。いや、むしろ私が空気扱い。本気で完全無視する気なんだ?可愛い姪っ子に…や、でもさっき父のことあの男って言ったな。自分の兄なのに。なに、そんなに仲悪いの…?

「えっと父は…」

 負けるな私、背後には案山子君がマイク持って立っているはず…と鼓舞して再度話しかけようとしたら、ギロリと凄い目で睨まれた。ノーメークの中年女性の仏頂面は迫力がある。誰か何とかして…と思った所に

「あら、珍しい。お客様来てたのね、泉さん」

 そう言って誰かが入ってきた。洗濯物を抱えた女性。私に会釈をしてから。抱えていた紙袋を叔母さんのベットの脇に運ぶ。

「ヘルパーの川崎です」

 その救世主…いやいや…その女性はやっと両手が自由になったので、私に挨拶をして握手を求めた。その手を握り返しながら

「姪の泉香夜です」

 そう自己紹介すると、叔母さんの瞼がピクッと引き攣った気がした。

「姪御さん⁉︎凄い、親族はいないと聞いていたけど、わざわざ訪ねて来てくれる可愛い姪御さんがいたんじゃない」

 ヘルパーの川崎さんは明るい声を上げた。

 凄いな。この凍りついた空気をものともしない。天然なのか?

「あ。じゃあ洗濯物の片付けとかお願いしちゃおうかな…」

 と川崎さんが言いかけたところで

「触らせないで!」

 叔母が叫んだ。

 川崎さんもビクッとして手を止めたけど、私は心臓が止まるかと思った。

 何何何?どうしてそんな悪意を向けられる?今日、初対面だよね?

 父と何があったか知らないけど、娘の私をそこまで嫌悪する?普通。

 ビックリしている私を気遣わしげな視線で見ながら

「そう?じゃあ、食器片付けて貰おうかな?」

 そう言って外に私を促したので、脇の台に乗っていた空の食器を急いで持ち上げる。味気ない、病院食の食器。

「私は洗濯機回してくるわ」

 そういった川崎さんは私の後ろを追ってきた。

「気にしないで、あの人誰にでもそうだから」

 私に並ぶとそう言った。わざと二人で話そうと出て来たのね。

「それにしても…なんだか父を目の敵にしているみたい」

 うん。マジで。

「兄妹は色々あるものよ…今まで交流なかったくらいだから」

 そうだ。家族は誰も叔母の居場所を知らない。何十年も。そんな事ある?普通。

「そう言えば、何の病気なんですか?叔母は」

 そう問うと、驚いた顔をされた。

「聞いてない?心臓が悪いのよ。子供の頃かららしいわよ」

 聞いたこと無かった。

「叔母の話はタブーだったから」

 私の答えに、小さく頷くとそれ以上詮索せずに、ランドリー室に向かった。

 どうするかな…病室に戻って二人きりになるのは気が進まない。…いやいやいや、何しに来たんだ、私。恋愛小説を書くために会いに来たんでしょ!臆している場合じゃない。出口に向かいかけた足を無理やり方向転換させ、もう一度叔母と対決するために病室に向かった。


 病室で、叔母さんはベッドに座ったまま、真っ暗な窓を見つめていた。

 凄く入りにくい雰囲気。遠慮がちにノックをしてみた。叔母の肩がピクリと動く。窓に映ったダークで不明瞭な叔母が、苦々しく目を閉じた。

 行け!私!

「あのね、叔母さん!私、恋愛小説家になりたいの!叔母さんみたいなあったかい話が書きたいの。でも、先生に私の書く話は暗くて夢も希望も無いって言われてて、勉強しに来たの!後が無いの!」

 何か言われて心折れる前にとまくし立ててから、叔母をちらりと見た。

 うわ…何と言うか、軽蔑しきったような目でこっちを見ている。何も言わずに心を折ってくる。凄いラスボス感。

 父にはあまり似ていないなぁ…あ。でもお婆ちゃんには似ているかも。目とか、顎のラインとか…

「何!」

 私があまりじろじろ見ていたから、耐えられずに叔母が声をあげた。

 あぁ、声も何となく似ている。

「あ、えっと、叔母さんは、お婆ちゃん似なんだなぁ…と思って。声も」

 そう言ったら不愉快そうな顔をされた。いや、ずっとしているけど改めて。大丈夫だよ。そんなに不機嫌アピールしなくても十分伝わってる。

「泉さん、面会時間そろそろ終わります」

 看護師さんに声をかけられて、思わずホッとした。ダメダメだ〜

「あ、これ、お土産です!」

 そう言って今更お菓子を差し出すと、病室を飛び出した。

 あぁもう!どうするんだ私。

「あら、帰っちゃったの?姪御さん。今夜どうするのかしら」

 入れ替わりで部屋へ戻った川崎さんの声を聞きながら、叔母は、真っ暗な窓の外の正面玄関脇に止まっている車を見つめていたのね。

「どう、会えた?」

 看護師たちの好奇心の目をすり抜けて、当ても無く病院を出た私は、思いがけずそう声をかけられて、情けない顔を上げた。

「あ。お向かいの…」

 さっき降りた車が止まっていて、助手席から見覚えのあるおばさんが乗り出していた。

「佐田よ。ほら、乗って」

「え?でも、どうして…」

 早く!と促され、後方座席に乗り込む。

「どうしても何も、この町に泊まるところなんて無いし、あの泉さんでしょ。追い返されてるんじゃ無いかと思って、面会終了時間に合わせて戻って来たのよ」

 佐田のおばさんはそう言って笑った。他人ってこんなに温かいんだ…って感動で涙が出そうだった。

「すみません…」

 と消え入りそうな声で答え、相変わらず無愛想だけど、ちっとも迷惑そうじゃ無いおじさんの運転に身を任せた。

 佐田家に再び上がり込み、残り物だけど…と出された夕食を頂く。いや、これ絶対残り物じゃ無い。用意して置いてくれたんだよね?

 白飯と、豆腐のわかめのお味噌汁と、焼きたてのポークジンジャーにキャベツの千切りもシャキシャキだし、ポテトサラダも形よく盛り付けられてる。そして…

「美味しいですぅ…」

 くぅ〜泣けてくる。

「二階の昔娘が使っていた部屋使って。お風呂はそこね。何か必要なものがあったら言って」

 佐田さんに甲斐甲斐しく世話されてると、実家には全く帰っていない…と思い出す。こんなにあったかい感じじゃ無いけど。お母さん元気かな…

 知らない人の好意に甘え、知らない人の家のお風呂に浸かりながら、oZのドラムの貴君の作詞した歌を口ずさむ。


 会社行くより早く家出て でかい荷物で電車に乗って〈迷惑がられ〉

 新幹線では終点までひたすら爆睡

 1つ季節超えたような寒さの中 いつもの立ち食いそばで温まり

 乗り換え猛ダッシュで 電車2本乗り継いで

 1時間に一本のバスに乗るため ホームからひたすら走り

 のんきなバスに山道1時間以上揺られ それでも着かない俺の実家

 バス停降りてひたすら歩く どんだけ遠いんだ俺の実家

 だけど既に懐かしい景色 何年ぶりでも見慣れた景色

 あれ 屋根変えたのね 何その赤い屋根 誰の趣味?

 見知らぬ屋根の家に思わずUターンしかけたぜ

 帰ってきたぜ見慣れた我が家 見慣れた家族

 婆ちゃんそれ俺の中学のジャージ

 母ちゃんそのパンツは無いわ

 父ちゃん…髪…生えたの…?まさかzura⁉︎〈言えない〉

 帰ってきたぜ見慣れた我が家 だけど 見慣れない我が家


 うん。しんみりした今の気持ちに合わない。選曲間違えた。


 娘さんの部屋は、私より若干上の世代なのかな?と言う部屋模様で、それでもやっぱり、実家の自分の部屋を思い出した。東京戻って落ち着いたら、一度こっそり帰ろうかな…叔母さんの話ししたらまた怒るかな。

 取り敢えず、報告の為に小太郎に電話をする。

「何?旅先で俺が恋しくなったか?」

 開口一番それか?

「じゃ」

 と、切ろうと真剣に思った。

「で、会えた?どんな人?」

 連絡待ってたなら素直にそう言えよ。

「会った。意味不明」

 他に言いようが無い。

「で、勉強になりそうか?」

 なると思うか?と悪態をつきたくなる。だけど、ここで尻尾を巻いて帰れない。

「まだこれからだよ!」

 そう、その心意気!

「ふうん?まあ良いけど、締め切りあるの忘れんなよ」

 う…そうでした…あぁ、元気が欲しい。

 小太郎との電話を切り、一息ついて、翔也の名前をチョイスする。今日はライブ無いはず。バイトは有ったかな。数回コールした後、

「香夜」

 いつもの声が私の名前を呼んだ。

「翔也…どうしてる?」

 嬉しくて、もし尻尾があったら激しく振っているだろうと思う。

「バンドのメンバーと飯食ってる。香夜はどう?問題ない?」

 ライブじゃない日に一緒なんて珍しいな。

「うん。叔母さんにも会えたし、明日もう一度話をしてみるし、頑張るね」

「寂しくない?」

 寂しいよ。凄く…そんなこと言えないけど。

「何か歌って」

「ここで?居酒屋だけど…」

 そう言ってちょっと移動する音が聞こえ


 

何かを探してお前は迷い込んだ

それは闇の中の薔薇

俺が見せてやるさ

行くぜ ついて来いよ

 俺がいれば毎日がparty

クソ真面目な仮面ひっぺがしてやる

 どいつもこいつも見分けつかない髑髏

 意味なんて無い こんな世の中 笑ったもん勝ち

 もっと もっと 笑顔にするぜ 覚悟をしろよ

迷った時は笑える方に行くんだぜ

最後はみんな見分けつかない髑髏

探し物は探したって見つからない

欲しいものは胸の中

手に入れたかったら笑うんだ

俺が笑顔をくれてやる

無表情なんかでいさせない

迷った時は笑える方に連れてくぜ



 結構ハードな曲なんだけど、今日の翔也は甘く歌った。これはかなり贅沢だな。

「特等席で聞いてる気分」

「高いぜ?」

 翔也が優しく笑う。

「いくら?」

「一日中kissして貰う」

「良いよ…」

 私もつい甘くなる。

 深夜だし。電話だし。良いよね…

「もうちょっと頑張ってから帰るね」

「待ってるよ」

 ずっと話していたいけど、賑やかな翔也の周囲と、家中が眠りについたこの田舎の片隅じゃ、世界が違いすぎて、そろそろ解放してあげなくちゃと思う。街灯の少ない外は真っ暗で、人の声も、車の音もしない。東京とは時差があるんじゃないかと思う。

 私も色々作戦を練らなきゃ。

「おやすみ」

 そう言うと、何かが断ち切られた気がしてちょっと切なくなった。

「また明日」

 翔也はそう言った。明日が来るのが待ち遠しくなった。

 電話を切って、翔也の声が耳に残っている内に布団に潜り込む。

 見知らぬ娘さん、成り行きでこうなりました。すみません。お邪魔します。眠りに落ちる私は、多分笑っていたんじゃないかな。


「今日も行くの?」

 佐田さんの朝食の食卓に普通に混じりながら

「はい」

 白米咀嚼しながら頷いた。

「バスで行きます。時間って分かりますか?」

 おばさんは折りたたまれた時刻表をレターラックから引っ張り出すと

「大体1時間に一本よ。帰りの時間、忘れないでよ?」

 バサバサ広げて、病院行きのバスの時刻表の面を上にしてテーブルの上に置いて指差した。この人はどうしようもなく世話好きなんだろうな。

「はい」

 お母さんに言われるより素直に聞けた。


「泉さんのご家族の方?」

 病院の受付でお見舞いの記名をしていたら、待ち構えたようにドクターが出て来た。キツイ顔の女医さんだけど、叔母さんに比べたら聖母に見える。

「姪ですけど…」

 控えめに答えると、看護師と頷き合い、

「本人は、何かあっても連絡する親族はいないと言い張っていて、病状の説明や方針を話し合いたいのですが、どなたか呼びますか?それともあなたが?」

 え…と言葉に詰まる。

「誰か呼んだら、私叔母に殺される気がしません?」

 殺されるは、物騒だったかな?思い切り顔をしかめられた。でも

「確かに…」

 と同意してくれた。叔母さん…あなたの印象って。


 病室で、叔母さんは今日もしかめ面をしていた。

 私はパイプ椅子を脇に寄せ、とりあえず座った。

「昨日は、お向かいの佐田さんが泊めてくれたの。すごく親切で、ご飯も美味しかった。田舎の人って凄いね。警戒心無いのかな?」

 売店で買って来たデザート類をサイドテーブルに並べる。

「他にお店どこにあるか分からないから売店で買って来たけど、叔母さん、どれが良い?」

 聞いてみる。勿論返事はない。

「今日は、叔母さんの本の文庫を持って来たんだ。読もうか?」

 これはもう、独り言だね。だから勝手に読もう。


「授業が終わると、校庭で遊ぶ。それが常だった。

 クラスの女の子たちと遊ぶこともあったし、一年生たちと遊んであげることもあった。上級生がいたら一番良い遊具は使わせて貰えないし、ボールも取られたりする。

 そんな学年が絶対的支配力を持つ小学校で、その日、小学四年生のイズミは友だちとジャングルジムで遊んでいた。

 本当はちょっと怖い。足が引っかかったらどうしよう。手が滑ったら?でも低い場所でもたもたしているのは格好悪い。小さな子たちも遊んでいる。四年生だもん。もっと上まで行かなきゃ。

 ドキドキしながら簡単に見せながら、しっかり握りしめて登っていく。その頂上に恐々引きつった笑顔の顔を出した時、反対側から登って来た男の子と目があった。頂上まで登った子だけが味わえる爽快な気分を、2人で共有していることを確認するような笑顔を向けられた。

 イズミの引きつった笑顔とは違う。本当の笑顔。

 その時、青い空の下。イズミはジャングルジムの上で恋に落ちた。

 見たことのない少年だった。

 その子が、その日転入して来た三年生のヒカル君だということは、後から知った。

 でも、もうどうすることも出来ない。始まった恋は簡単には終わらない。

 学年が絶対的意味を持つ小学生時代、絶対にバレてはいけない秘密の恋の始まりだった。」

 そこまで読んで叔母さんを盗み見る。完全無視だ。

 毎日それを繰り返した。ただそれだけ。3日目に、

「叔母さん。ヒカルは本当に居るの?」

 そう聞いてみた。長年の疑問。無視しようとして居るけど、ほんの少し、動揺が走った気がした。

「やっぱり居るんだ!そうだと思った」

 私は1人で納得し、そうかそうかと頷く。

「…って言うことは、叔母さんの初恋の相手って事だよね」

 叔母さんはやっぱり無視している。

「これって、叔母さんの自伝なの?」

 勿論返事はない。

「私、叔母さんのこと良く知らないんだよね。叔母さんの本をお父さんの書斎で見つけて叔母さんの書いた本だって聞き出すまで、作家の叔母さんがいることも知らなくて…」

「父親の書斎…?」

 一瞬聞き間違えかと思ったけど、叔母さんが私を見て話しかけて来た。

「うん。そう。茶色い封筒に入ったまま本棚の奥にあって…ほら。同じ名字だから、この本誰の本?って聞いたら叔母さんが書いた本だって言われて…」

「茶色い封筒…」

 叔母さんの顔は見る見る歪められて行く。

「そう言うこと。あの男が持っていたの…」

 顰められた顔。目の周りがうっすら赤い。怒っている…?何か余計な事を言ったんだ。何だろう…

「叔母さん…?」

 叔母さんは、とても憎々しそうな目で私を見ていた。私の中にいる、父の…彼女の兄を見ていたのかも知れない。

 叔母さんを怒らせた。

 出会ってからずっと怒っている彼女だけど、今回は明確に意味を持って怒らせた。

 あの男…は話の流れから私の父親の事だよね。父さんが本を持っていた事を怒っているんだから、あの封筒は父さん宛じゃ無かったんだ…あぁ…

「本は叔母さんがおじいちゃんとおばあちゃんに送ったんだね」

 そう思い当たった。

「それを、お父さんが勝手に開けてしまい込んじゃった…?」

 でもどうして?

「もしかして、叔母さんの住所書いて有った?おばあちゃんたち、叔母さんがどこにいるか知らない…って困ってた」

 …と言うことは父さんは叔母さんの居場所を知っていたのだろうか?

「賢いつもり?」

 突然思考を断ち切られた。叔母さんの冷ややかな反応。

 うん、ちょっと心に堪える。大概な扱いには慣れているつもりだったけど、叔母さんの対応は想像以上に攻撃力が有る。

「お父さんが嫌いだから私が嫌いなの?」

 その問いには答える義務がない。と言う態度で無視された。

 あぁ、もう、どうしようかな。私駆け引きとか苦手なんだよな。

 小太郎に、

「女の恋愛においての最大の武器、女子力とは、駆け引きだ」

 と断言された事が有る。

「香夜はその武器女子力を持たずに生まれた。手に入れるのは並大抵の努力じゃ無理だね」

 とも言われた。

「俺なら教えられるけど、高いよ?」

 と売り込まれた。人の弱みに付け込んで。勿論全力で断った。

 でもね、叔母さん。私ここで引き下がる訳にいかないの。

「叔母さん。私さっきドクターに、叔母さんの病状の話ししたいから家族を呼べって言われた」

 ごめんね、叔母さん。私非情になるよ。

 案の定、叔母さんは目を見開いて私を凝視した。憎い?憎いよねぇ?だったら私を受け入れて。

「どうしたら良い?」

 ここはもっと高飛車に上から言った方が威圧感有るんだろうけど、下手くそな脅しでごめん。

 叔母さんは暫く無言で私を品定めするように見つめ、それから驚いた事に

「呼べば」

 と言った。

「え?良いの?」

 こっちが動揺してどうする?って思うけど、思い切り素に戻って聞いていた。

「私はここから消えるから」

 いやいやいや…

「ダメでしょ!そんな身体でそんな無理しちゃ!」

 あ…と思った。叔母さんがニヤリと意地悪く笑う。脅すつもりが、逆に脅されている。くぅ〜意地悪さでは向こうが何枚も上手か?

「居なくなるなんて無理なくせに!」

 形成逆転を謀ってみる。

「死ぬ場所なんてどこでも良いわ。静かなら」

 うぅ…ずるい。それは、ずるい。分かったわよ。

「どこにも行かなくて良い」

 そう言うしかない。私に駆け引きは無理だ。

「家族には誰にも知らせない。私だけが知っている今のまま。だから、私に恋愛小説の書き方教えて」

 だけどちょっとダメ元で粘らせて。

「無理でしょ。その程度の策に溺れるようじゃ」

 あれ。

 言い負かして気分が良いのか、ちゃんと会話らしい返事をくれた。言い方は意地悪だけど、叔母さん、ちゃんと私の話をしている。

「叔母さんも私には無理だって言うの…担当編集者にも言われてる」

 小太郎のことだけど。

「恋愛経験が圧倒的に足りないんだって。後女子力も」

 叔母さんが上から下まで私を見る。無言で。緊張する。

「ちょっと、何か言ってよ。そこで無言は凹むわ!」

 思わず心の声が出た。

「恋愛経験で恋愛小説が書ける訳じゃない」

「え!」

 言われた意味というより、アドバイス的な発言に驚いて声をあげた。

「恋愛経験で恋愛小説が書ける訳じゃない…?」

 その言葉を呟いて、考えてみる。

「じゃあ、何?」

 恐る恐る聞いてみる。まだ応えてくれるかな…?

「その答えを、考える想像力で書く」

 身も蓋も無い答え。でもコレ、アドバイスだ。恋愛小説家の叔母さんからのアドバイスだ!

「叔母さん!ありがとう〜」

 思わずハグしようと広げた両腕を払われた。うん、仕方ない。ちょっと調子に乗りました。

「もう現れないで」

 そう元の表情で言われた。

「…居場所誰にも言わないから、居なくならないって約束してくれる?」

 そうじゃ無いと、ここを離れられない。

「ここが静かなままなら、そんな面倒なこと出来ればしたくない」

 叔母さんは静かにそう言った。

 私は頷いた。

「また来るね」

 叔母さんは嫌そうな顔をしたが、怒らなかった。


 介護の川崎さんに挨拶をし、叔母さんに手を振ったのは無視され、バスに乗って佐田さんの家に帰って挨拶をして、1時間後のバスに乗って駅に向かった。

 佐田のおばさんはもう一泊すれば良いのに…と言ってくれたし、おじさんは駅まで送って行くと言ってくれたけど、遠慮した。

 帰って翔也に会いたい。今日はライブが有るし。もう我慢できない。それに、1人で恋愛小説の案を組み立てたい。書き出しはどうしよう…

 四角く切り取られた景色がいくつもいくつも飛び去って行く。それを見ていたら、これも良いかな…と思えてきた。


「流れ去る四角い景色の中に、少年の姿を見た。ほんの一瞬だったけれど周囲から切り取られ、陽だまりの中の木々を背にまっすぐな瞳で見つめる少年の姿は、絵画のようで目に焼き付いた。明莉は、駅に停車して開いたドアから乗り出し、ホームに少年の姿を探した。」


 どうだ。ぐっと良くなったんじゃないか?

 年齢設定も何もかもまだだけど。よしよし。とほくそ笑んで小太郎にLINEする。一瞬酷評を予感して戸惑ったけど、何かしら成果を見せないとね。道中は長い。道々構想を練ろう。

 耳には翔也のバンドの歌が流れて居る。ひとり旅最高♪

 行きは都落ちみたいでひたすら不安だった道中が、今は程良く長閑で心地よい。創作活動も捗るってもんよ。多分。







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