Layer_3/ Senescence(3)

 僕が足を踏み入れようとしたそれは、一体何か。僕は急激に冷えた脳味噌を回転させて、目の前に存在するものを、五感で認識する。

 かち、こち、かち、こち。

 耳に響く、規則正しい、一分間に六十を刻む音。

 いつの間にか、何も感じられなかったはずの空気には、どこか生臭い臭気が漂っていて。

「……何、でしょう、これは……」

 知識としては、目の前に立ちはだかる「それ」を表現する言葉を知ってはいる。ただ、こんな森の中にいるようなものではない、はずだ。現実から乖離し続けているこの空間において、「いるはずがない」という言葉がどれだけの意味を持つのかはわからないにせよ。

 堅そうな鱗、太く地面を踏みしめる四つの脚、そしてそれ自体が鋼を思わせる、硬い鱗に覆われた尻尾。

 ぎょろりと、感情の全く感じられない爬虫類の目でこちらを見つめるそれは、鰐だった。そう、鰐だ。図鑑や本でしか見たことがないけれど、間違いなく鰐だ。

 かち、こち、かち、こち。

 慌てて距離を取る僕を追って、鰐はのっそりとした動きで僕に近づいてくる。その度に、不思議な音色も一緒になって近づいてくる。この音は、何だろう。鰐、それに――。

『これは――もしかすると、時計を飲んだ鰐、だろうか』

「あっ……」

 そうだ、僕はその物語を知っている。

 失われた時代の御伽話。大人になることを拒絶する、永遠の少年ピーター=パンと、彼を取り巻くはるか遠き幻想の地、ネヴァー・ネヴァー・ランドの物語。不思議が満ちたその世界には、時計の針の音を鳴らしながら近づいてくる、人食い鰐がいたはずだ。

 ――それにしたって、巨大すぎやしないだろうか。

 四つんばいになった状態で、既に僕の腰よりも高い位置に頭があり、全長にいたっては僕の身長の三倍くらいはあるのではなかろうか。もはや怪獣としか言いようもない巨体が、木々をなぎ倒して一直線に向かってくる。

 かち、こち、かち、こち。

 迫る針の音が、いやに僕の聴覚を浸食する。

 食べられたら、やっぱり再び最初の部屋からやり直しになるのだろうか。その場合、食べられた部分も、きちんと戻ってくるのだろうか。片腕だけ鰐の胃の中に残ってしまったり、しないだろうか――。考えれば考えるほど、嫌な想像が膨らんでしかたない。

 それでも、恐怖を振り切って、前に進まなければ始まらない。警棒を抜き放ち、とにかく唯一打撃が効きそうな目の辺りに狙いを定めた瞬間、鰐は僕の体を咀嚼しようと口を開いて飛び掛ってくる。

 地を蹴って横に避け、そのまま身を翻す勢いも乗せて、すれ違いざまに片方の目を狙い打つ。目の組織を潰した、確かな、あまり気持ちのよいとはいえない手ごたえと共に、花びらが、ぱっと舞う。

 片目を失って平衡感覚を失ったか、それとも苦痛からか、鰐は着地に失敗して横倒しになり、柔らかな地面を陥没させる。

「やりました、か?」

『いや、まだ反応は失われていない。気を抜くな』

 ダリアさんの声に、僕は小さく頷きを返して、鰐から視線を外さないまま、警棒の握りを確かめる。第二層を経た今なら、この警棒が僕と共に歩んできた道のりを思い出すこともできる。僕は、生きてゆくために。己の望みを貫くために。警棒のグリップを握り、背筋を伸ばして、あの、灰色の街を見据えていたのだと思い出す。

 まだ、僕の望みそのものは思い出せないままではあるけれど、己が選んできた道への誇りは、はっきりと胸の中に燃えている。この誇りを失わない限り、僕は折れずにいられる。僕自身の望みを取り戻すまで、欠けてしまったものの正体を知るまで、前に進んでいく。

 そのための、この塔であって、ここにいる僕なのだと、信じて。

 かち、こち、かち、こち。

 時計の音は、止まない。

 のそり、と起き上がった鰐が、首だけを持ち上げて隻眼で恨めしそうに僕を睨む。いや、鰐に相手を恨むだけの思考能力が備わっているとも思えないから、それは僕の主観でしかないのだろうけど。

 それでも、あくまで僕から狙いを外そうとはしない鰐は、音もなく大地を蹴って、

 空中に、ふわりと浮かび上がる。

「飛んだ!?」

 何度も物理法則を無視したお化けを目撃していても、鰐が空中を飛んだら流石に驚く。この鰐に限らず、お化けは散々好き勝手やってくるのに、僕だけ物理法則に縛られているって、何か不公平な気がする。

 先ほどよりずっと素早く空中で方向転換し、僕に向き直る鰐。背筋に冷たい汗が伝う。気づけば、僕はねじれた木を背にしていて、完全に追い詰められた形になっている。

『ここだと不利だ、一旦逃げた方がいい!』

「ですね!」

 ダリアさんと僕の意見が一致した瞬間、僕は地面を蹴ってその場から離れていた。空飛ぶ鰐の突撃は、一瞬前まで僕がいた場所、そこに立っていた木を紙切れのように粉砕し、僕を倒した手ごたえがなかったと気づいたのか、ぐるうりと首を回してこちらを向いた、ところまでを横目に認識して、木々の間を縫って駆け出す。

 立ち並ぶ木々などいとも簡単になぎ倒せる鰐相手に、どこまで距離を離せるかはわからない。ただ、人より少しだけ優秀な身体能力を信じて、駆けてゆくしかない。

『もう少し先に、開けた場所があるはずだ。そのまま真っ直ぐ走れ!』

 ありがとうございます、と言うだけの余裕も、ない。すぐ背後に、鰐の気配が迫っている。かちこちという、時計の音が。

 かち、こち、かち、こち。

 何かを思い出しそうな、秒針の音。

 僕は――僕は、かつてもこうして、何かに追われていたのではなかったか。

 かち、こち、かち、こち。

〈お願いが、あるのです〉

 かち、こち、かち、こち。

 背を追う時を刻む音の合間に蘇る、僕の知らない誰かの声。

〈きっと、これが、最後のお願いになるでしょう――〉

 それは、本当に、知らない声だっただろうか。実際には、誰よりもよく知っている声ではなかったか?

 かち、こち、かち、こち。

〈どうか、私の〉

 ぶつん、と。

 何かが千切れるような音と同時に、全身の力が抜けて。飛ぶように行き過ぎていた周囲の風景が、止まっていたことに、気づく。

『ユークリッド!』

 かろうじて遠く聞こえてくる、ダリアさんの悲鳴。急激に暗くなっていく視界にちらつく、見覚えのある花びら。それで、僕は自分の状態を、認識してしまった。

 それでも、ゆるゆると視線を落としてみれば、僕の胴体が鰐の顎に食いちぎられて、花びらを撒き散らして――。

 

 

 落ちて、ゆく。

 意識としては、腹を噛み千切られたその瞬間を焼き付けていながら、ありえない「落下」の感覚を味わっている。今まではすとん、と意識が落ちて、それっきりだったはずなのに。

 このまま、ずっと、落ちていくのだろうか。独りきりで。

 恐る恐る目を開けてみると、周囲を流れていく「何か」が見えた。それが何なのか、僕の視力では捉えられない。ただ、砂嵐のように、細かな何かが僕の意識を叩きながら行き過ぎてゆく。もしくは、僕が、空気中に漂う何かの間を落ちている。その区別は、今の僕にはできずにいる。

 ざあざあ、耳の奥に響くスノー・ノイズの音色。

 ダリアさんの声も聞こえない、孤独な空間に、ただ、ただ、落ちてゆく。

 ――もしかして、ついに、死んでしまったのだろうか。

 ダリアさんは、言っていたはずだ。この塔では何度殺されても死ぬことは無いけれど、唯一、僕が生きるのを諦めたとき、僕は本当の意味で「死ぬ」のだと。

 ――つまり、僕は諦めてしまったのか?

 そうとは思えない。鰐に腹を食いちぎられたあの瞬間も、僕はまだ終われないと思っていたはずだ。そして、その気持ちは今も変わらない。むしろ、時間が経過するにつれ、焦燥だけが深まっていく。焦ることはない、時間はある、ダリアさんならそう言ってくれるのだろうけれど、そのダリアさんも、今は僕の側にはいない。

 独り。たった独りで、落ちてゆく。胸をぎゅっと締め付けるこの感情は、恐怖と――きっと、寂しさだ。

 歯を食いしばって、奥底から浮かぶ痛みを堪えていた、その時。

〈寂しい? 何をおっしゃいますか。誰だって、最後は独りきりです〉

 ぽつり、スノー・ノイズに満たされた世界に波紋を広げる、誰かの声。

〈あなたも、そして当然、私も。死を前にすれば、誰だって孤独なものです〉

 相手に諭して聞かせるようなその声から、何かしらの感情を読み取ることはできない。お手本のような言葉遣いと抑揚を伴いながら、どこまでも、機械的な声。

 だけど、僕にはわかる。その言葉の内には、荒れ狂うような感情を秘めていることが。何もかもを焼き尽くしてしまいかねない強烈な感情を、理性で押し殺した声だと、わかるのだ。

 ――死。

 この声もまた、死を語っている。既に死者であったシスルさんと同じように。

〈……だから、哀れみなんて要りません。私は、私に与えられた生を全うし、その果ての死を受け入れる。そんな私の死を哀れむことなんてないんですよ、クロウリー博士〉

 クロウリー博士、カメリアさんを指す名前。声は、ここにはいないはずのカメリアさんに語りかけているのだ。本当の感情を全て覆い隠した、酷く耳障りな声で。

〈共感も同情もいりません。あなたは、私ではないのですから――〉

 それは、確かに、そうだ。聞き覚えのあるような、ないような、とにかく誰の声かはわからないテノールが、僕の内側にいくつも穿たれている、記憶の空洞を震わせる。

 あなたは、私ではない。

 僕以外の誰も、「僕」ではない。

 本質的に共感や同情などできるはずもない、それが「自」と「他」の線引きだ。そんなものなければよいのに、と胸を苦しめながら、あくまで犯されることは我慢ならない、決定的な境界線。

 かつての僕が、ずっと、守り続けてきたもの。

 僕が、「僕」という認識を得てから、決して譲らなかったもの。

 ――僕が、僕であるということ。

 そんな当たり前のことを、けれど、今の僕は忘れかけていた。記憶を失い、僕という存在の定義を失って、誰のものかもわからなかった記憶を拾い集めながら、それらを痛みと共に受け入れるプロセスを経て。僕はやっと、「僕」を取り戻し始めている。僕が僕であったという事実を、自覚しはじめている。

 けれど、それを自覚したところで、落下は止まらない。ガーデニアさんを抱きしめて、落下した時を思い出す。あの瞬間よりもずっと長く感じられるこの落下は、いつ、終わるのだろう?

 少しずつ明晰さを取り戻していく意識で、僕は僕自身の輪郭を捉えようとする。すると、激しい音、続いて耳がつんとする感覚と共に、僕は何かに包まれたことを理解する。水。液体。呼吸をしようとしても、ごぼりと口から泡が漏れるばかり。

 もしかして、このまま、溺れて死んでしまうのか?

〈そう、空気の中に溺れるような、感覚だった〉

 耳元で、僕の知らない誰かが囁く。

〈意識が浮かんでは沈んで、何一つ、確かなものはなくて〉

 淡々と、けれど、激情を隠した声音で。

〈早く……、それが、終わってくれればいいと、心から願い続けた〉

 ――その願いすら、僕は、すぐに忘れてしまったのだけれども。

 その囁きに秘めた感情を、僕は、まるで自分のことのように感じ取ることができる。

 それは、怒りであり、焦燥であり、もどかしさであり。

 そして――終末に向かい合う、覚悟だ。

 

『――ユークリッド!』

 

 僕は、そんな名前ではない。思い出せないけれど、違ったということだけは、わかる。

 違うとわかっていながら、僕はその名前を聞くたびに、胸の苦しさを感じずにはいられない。僕が胸の中に閉じ込め続けた柔らかな部分に、そっと触れられているかのようなくすぐったさと、同じ程度の苛立ち、もどかしさ。

 

『ユークリッド、どうか、答えてくれ』

 

 ああ、少しずつ、わかり始めてきた。この階層に足を踏み入れた瞬間から、胸の中に渦巻いていたもどかしさ、それこそが僕を僕として定義する感情だった、はずだ。

 僕――かつての僕は、いつだって、そう、僕が僕という自我を抱いたその瞬間から、焦燥と共に生きていた。胸の中に響く、時計の針の音を、常に意識していたはずだ。

 かち、こち、かち、こち。

 迫りくる音色の意味を、今の僕なら、はっきりと理解できる。

 

『まだ、まだ何も終わってないじゃないか。君は全てを取り戻してはいない。私だって、君のことをまだ、何も知らない!』

 

 そう、僕たちの物語は何も終わってはいない。

 けれど、必ず、終わらせなきゃいけないことでも、ある。

〈そう、僕らは終わらせなきゃならないんです。この茶番を〉

 はっとして意識を向けても、そこには誰もいない。ただ流れるスノー・ノイズがあるだけで。ただ、僕の体に、いや、意識そのものに、何かが絡み付いてくる。決して不快感はなく、むしろ、本来そこにあるべきだったという感覚と共に。

 それが何なのか、僕は理解しない。理解する必要もない。ざあざあという音に混ざって響く、大切な囁きを聞き取ることさえできれば、それで。

〈もう、十分です。断ち切りましょう――この、不毛な仮想化輪廻を〉

 仮想化輪廻。

 その不思議な響きの言葉を、口の中で転がしているうちに。

 僕の意識は、遠く、遠く――。

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